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第2話 次は焼き鳥屋で

屋上で二本目を聴き終える頃には、風が少し冷たくなっていた。 街の灯りも増え始め、アトラボの下を走る道路には、帰宅する車の列が細く伸びている。 月城玲士はしばらく凪のギターを見ていたが、やがてジャケットのポケットへ手を入れた。 「礼をしたい。夕食でもどうだい」 凪隼人は足元に置いた炭酸水を拾い上げる。 「何の礼」 「いい音を聴かせてもらった礼」 「変なおじさんだな」 残っていた炭酸水を飲みながら少し考え、空になった容器を手の中で転がした。 「腹減ってる」 それが返事だった。 高澤廉が小さく笑い、相沢涼はフェンスへ身体を預けたまま手を振る。 「じゃ、行ってくれば」 「何その言い方」 凪が振り返ると、相沢は楽しそうに笑っている。 「そのままだよ」 それ以上は何も言わなかった。 凪はギターをケースへ収め、肩に掛ける。 月城と並んで屋上を出ると、廊下には下のフロアから上がってくる空調の音が薄く残っていた。 「ほんとに飯だけ?」 「何を警戒しているんだい」 「金持ってるおじさん全般」 「偏見が強いね」 「経験則」 月城は笑いながらエレベーターのボタンを押した。 扉が開き、二人で乗り込む。 鏡張りの壁には、黒いパーカーにギターケースを背負った凪と、隙なくジャケットを着た月城が並んで映った。 凪はその姿をしばらく眺める。 「やっぱ変だろ」 「何が」 「並びが」 「そうかい」 「親子でもないし」 「それは確かだね」 凪はもう一度鏡を見る。 「社長とバイトみたいでもある」 「私は社長ではない」 「そこじゃねぇよ」 月城が笑ううちに、一階へ着いた。 ロビーには仕事を終えた社員と来客が行き交っていた。二人が自動ドアへ向かう途中、何人かの視線が月城へ向く。 凪は気にせず歩き、月城も慣れているのか足を止めない。 外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。 車寄せには黒いセダンが一台待っていた。 運転席から男が降り、月城たちの姿を確認すると後部座席のドアを開ける。 凪はその場で足を止めた。 「……マジでこれ乗るの?」 「そのつもりだが」 「タクシーでいいだろ」 「君を誘ったのは私だ。移動くらい整えたい」 「そういうとこだよ」 「どういうとこかな」 「無駄に金の匂いする」 月城は肩を揺らした。 「乗りなさい」 凪は車と月城を見比べてから、諦めたように後部座席へ入った。 「腹減った」 隣へ乗った月城がドアを閉める。 「挨拶はないのかい」 「おじさん、腹減った」 「情報が増えただけだね」 車が静かに動き出す。 広い車内には革の匂いがあり、空調の音も低く抑えられていた。凪はギターケースを横へ置き、シートへ深く身体を預ける。 屋上の風に触れていた袖口には、まだ外気の冷たさが残っていた。 「落ち着かねぇ」 「乗り心地は悪くないはずだが」 「そういう意味じゃねぇよ」 「では?」 凪は少し耳を澄ませた。 エンジン音も、タイヤが路面を拾う音も遠い。 「静かすぎる」 月城が笑った。 「君は何でも音で判断するね」 「おじさんほどじゃない」 車は都心の高層ビルへ入った。 ガラス張りのエントランスを抜けると、磨かれた床が夜の照明を映している。月城が受付で足を止めることもなく奥へ進むと、近くにいたスタッフが自然に頭を下げた。 凪はその背中を見ながら歩く。 「……そういうとこだぞ」 月城が振り返る。 「褒め言葉かな」 「違う」 専用エレベーターへ乗ると、表示される数字が静かに増えていった。 また鏡に二人が映る。 凪はギターケースを持ち直した。 「やっぱ場違いだろ」 「そうかい」 月城は隣で笑っている。 「少なくとも私より自然だよ」 「どこが」 「そのまま来た顔」 「褒めてねぇだろ」 「かなり褒めている」 上階で扉が開いた。 店内は照明を落とし、窓の向こうに東京の夜景を広げていた。卓上には磨かれたグラスとカトラリーが整えられ、椅子も深く座れるものが置かれている。 凪は入口で一度だけ店内を見回したあと、そのまま案内された席へ向かった。 椅子を引かれれば自然に座り、ナプキンも迷わず膝へ置く。 向かいに座った月城が、その手元を見る。 「慣れてるね」 「昔な」 凪はそれ以上説明せず、メニューを開いた。 並んでいる料理名をいくつか追い、すぐに閉じる。 「ここ、高いだろ」 「今日は私が誘った」 「そういう問題じゃねぇ」 「どういう問題だい」 「焼き鳥なら五回来れる」 月城が声を立てて笑った。 注文を終えると、店内に流れているピアノの音が凪の耳へ入った。 凪は天井のスピーカーへ視線を向ける。 「……これ、ビル・エヴァンスか」 「分かるのかい」 「有名だろ」 「若い子はあまり言わない」 「若い子じゃねぇし」 「いくつだい」 「そこ聞く?」 前菜が運ばれてきた。 凪はナイフとフォークを取り、皿の上を自然に切り分けていく。パーカー姿のままなのに、動きには迷いがない。 月城はワインを一口飲み、その手元を見ていた。 「本当に面白いね、君は」 「何が」 「屋上でギターを弾いていた人間と、同じ人に見えない」 「同じだよ」 凪は料理を切りながら答える。 「弦でも肉でも、手元が雑だとだめだろ」 月城は少し黙り、それから笑った。 「名言だ」 「適当に言った」 続いて運ばれてきたスープを、凪は一口飲んだ。 小さく頷く。 「うまい」 「それはよかった」 「でも落ち着かねぇな」 「そうかい?」 凪は店内へ視線を巡らせた。 料理を置く音も、椅子を引く音も小さい。スタッフが歩く足音まで揃って聞こえる。 「音が綺麗すぎる」 月城がグラスを置いた。 「音?」 「皿の置き方も、椅子引く音も、みんな揃いすぎてる」 少し考えてから、凪は続けた。 「悪くねぇよ。ただ、緊張する」 月城は笑った。 「君は本当に耳で生きてる」 「おじさんほどじゃない」 「まだその呼び方なんだね」 「耳のいいおじさん」 「名前を覚えてくれないか」 「玲士だろ」 月城が目を細める。 「覚えてるじゃないか」 「呼ばないだけ」 メイン料理が運ばれてくる。 凪は皿から立つ香りを一度確かめてから、店内へ耳を向けた。 「曲、変わった」 「うん?」 「これ、弦いいな。録り方が古い」 月城は少し笑う。 「そこまで分かるのか」 「分かるっていうか、好きか嫌いかは分かる」 「今のは?」 「いい」 短く答え、料理を口へ運んだ。 そのあとは、しばらく二人とも食事を続けた。 窓の外には東京の灯りが広がっている。 会話が途切れても、凪は無理に何かを話そうとしなかった。月城も同じだった。 食後のコーヒーが置かれる頃には、凪も背もたれへ身体を預けていた。 「ごちそうさま」 「どういたしまして」 カップを持ち上げながら、凪が言う。 「でも次は焼き鳥屋がいい」 「ずいぶん差があるね」 「こっちも嫌いじゃねぇよ」 凪はコーヒーを一口飲んだ。 「ただ、話すならあっちだ」 月城の手が、グラスのそばで止まる。 話すなら。 次に会うことを、凪はすでに前提にしている。 月城はその言葉を追わず、静かに頷いた。 「分かった。次は焼き鳥屋にしよう」 凪は満足そうにカップを置く。 「あと、変な店のBGMじゃなくて、換気扇の音があるとこな」 「注文が多いな」 「ファンだろ?」 月城は笑った。 「そんなところだ」 店を出ると、車寄せには先ほどと同じ黒いセダンが待っていた。 凪はそれを見るなり肩をすくめる。 「やっぱ大げさだな」 「便利だよ」 「次は電車で焼き鳥な」 月城は一度車を見てから、凪へ視線を戻した。 「……それも悪くない」 後部座席へ乗り込む。 走り出した車の窓には、さっきまで見下ろしていた街の灯りが流れていった。 凪はシートへ身体を預け、その光を眺める。 来たときよりも、東京の夜が少しだけ近く見えた。

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