3 / 23

第3話 音のストーカー

高級店の帰り際、次は焼き鳥屋だと凪が言った。 その約束は、思っていたより早く叶った。 仕事帰りの人が行き交う駅前から一本入ると、街の音が少し近くなる。換気扇の低い唸りに、グラスの触れる音や誰かの笑い声が混じり、路地には炭の焼ける匂いが流れていた。 凪隼人は店の暖簾を見上げ、満足そうに頷いた。 「やっぱこっちだよな」 隣で月城玲士が苦笑する。 「前回の店が不満だったみたいに聞こえる」 「不満じゃねぇよ。緊張しただけ」 「今日は緊張しないのかい」 「全然」 凪は先に扉を開けた。 店内はほどよく混んでいた。カウンターの端に二席空いていて、並んで座ると店主が水を置く。 「いらっしゃい」 凪はメニューも開かない。 「ねぎま、皮、ぼんじり。あとつくね」 「いつもの?」 「今日は連れいるから増やして」 月城が隣を見る。 「常連なんだね」 「たまに来る」 「たまにで顔を覚えられているなら、それなりに来てる人だよ」 「細けぇな、おじさん」 ハイボールと烏龍茶が運ばれてくる。 凪は烏龍茶のグラスを持ち上げた。 「乾杯」 「健全だね」 「明日も弾くから」 月城も少し笑い、グラスを合わせた。 店内には古いロックが小さく流れている。 凪は一度スピーカーの方へ耳を向けた。 「これ、リマスター微妙だな」 「飲み屋でそこまで分かるのか」 「分かるっていうか、気になる」 「病気だね」 「おじさんに言われたくねぇ」 焼き上がった串が順に届く。 凪は湯気の立つねぎまを迷わず口へ運んだ。 「うま」 「いい顔をするね」 「飯うまい時はするだろ」 月城も一本取る。 「確かに」 しばらく二人で食べた。 会話がなくても気まずくはない。煙の向こうでは注文を通す声が飛び、皿を重ねる音がカウンターの奥から聞こえている。 凪が思い出したように顔を上げた。 「で、何の話だっけ」 「何の話とは」 「今日はただ飯食わせるために来たわけじゃねぇだろ」 「鋭いね」 「耳は普通だけどな」 「君の耳は、普通ではないよ」 月城はハイボールを一口飲んだ。 「君の昔の話をしようかと思って」 凪の手が止まる。 「昔?」 「バイオリンを弾いていた頃」 凪は眉を寄せた。 「……何で知ってんの」 「聴いていたから」 「誰が」 「私が」 凪は月城を見たまま、しばらく動かなかった。 「は?」 月城は何でもないことのように続ける。 「七歳の発表会。二曲目の入りが少し遅れた」 凪は持っていた串を皿へ戻した。 「こわ」 「九歳のコンクール予選。終わったあと、舞台袖で泣いていた」 「やめろ」 「十一歳。父親のリハで勝手にギターを触って怒られた」 凪は天井を見上げた。 「……何なんだよ、おじさん」 月城は肩をすくめる。 「たまたま見ていただけだよ」 「音のストーカーかよ」 店主が吹き出した。 隣にいた客までつられて笑い、月城自身も声を立てた。 「ひどい言い方だ」 「合ってるだろ」 「ファンと言ってほしいね」 「重いファンだな」 笑いが落ち着くと、月城はグラスを置いた。 「でも、本当に見ていたよ」 凪は皮の串を持ち直したが、すぐには食べなかった。 「君の家は有名だった。父親の曲は、うちでも何度か扱っていた。母親も、姉も、音楽の人だったからね」 炭が弾ける小さな音が、二人の間へ落ちる。 「だから最初は、その家の子として見ていた。作曲家の息子として」 凪は皮を一口かじった。 月城はその横顔を見ながら続ける。 「でも途中で変わった」 「何が」 「君だけ、違うところを見ていた」 凪の視線が上がる。 「上手くなることでも、褒められることでもない。音そのものを見ていた」 凪は鼻で笑った。 「大げさだな」 「そうかもしれない」 月城は串を皿へ置く。 「だから、ギターに持ち替えた時も驚かなかった」 「みんな驚いてたけどな」 「君は楽器を変えたんじゃない。向きを変えただけだ」 凪はしばらく何も言わなかった。 烏龍茶を飲み、小さく息を吐く。 「……おじさん」 「うん?」 「やっぱこえぇわ」 月城が笑った。 「褒め言葉として受け取るよ」 「何でもそう取るな」 追加のつくねが届いた。 凪は一本取り、そのまま月城へ差し出す。 「ほら」 「くれるのかい」 「古参ファンらしいし」 月城はつくねを受け取った。 「ありがとう」 「でも次、昔の黒歴史言ったら帰る」 「分かった。続きは君が話したくなった時にしよう」 凪は自分のつくねを持ったまま、少し止まった。 「……その言い方、ずるいな」 座り直し、ひと口かじる。 「帰る理由、なくなっただろ」 「それは困った」 店主がまた笑った。 凪も肩をすくめ、そのままつくねを食べる。 「……耳のいいおじさんって、めんどくせぇな」 月城は静かに頷いた。 「今さら気づいたかい」 換気扇は変わらず低い音を立てている。 凪はもう、帰るとは言わなかった。

ともだちにシェアしよう!