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第3話 音のストーカー
高級店の帰り際、次は焼き鳥屋だと凪が言った。
その約束は、思っていたより早く叶った。
仕事帰りの人が行き交う駅前から一本入ると、街の音が少し近くなる。換気扇の低い唸りに、グラスの触れる音や誰かの笑い声が混じり、路地には炭の焼ける匂いが流れていた。
凪隼人は店の暖簾を見上げ、満足そうに頷いた。
「やっぱこっちだよな」
隣で月城玲士が苦笑する。
「前回の店が不満だったみたいに聞こえる」
「不満じゃねぇよ。緊張しただけ」
「今日は緊張しないのかい」
「全然」
凪は先に扉を開けた。
店内はほどよく混んでいた。カウンターの端に二席空いていて、並んで座ると店主が水を置く。
「いらっしゃい」
凪はメニューも開かない。
「ねぎま、皮、ぼんじり。あとつくね」
「いつもの?」
「今日は連れいるから増やして」
月城が隣を見る。
「常連なんだね」
「たまに来る」
「たまにで顔を覚えられているなら、それなりに来てる人だよ」
「細けぇな、おじさん」
ハイボールと烏龍茶が運ばれてくる。
凪は烏龍茶のグラスを持ち上げた。
「乾杯」
「健全だね」
「明日も弾くから」
月城も少し笑い、グラスを合わせた。
店内には古いロックが小さく流れている。
凪は一度スピーカーの方へ耳を向けた。
「これ、リマスター微妙だな」
「飲み屋でそこまで分かるのか」
「分かるっていうか、気になる」
「病気だね」
「おじさんに言われたくねぇ」
焼き上がった串が順に届く。
凪は湯気の立つねぎまを迷わず口へ運んだ。
「うま」
「いい顔をするね」
「飯うまい時はするだろ」
月城も一本取る。
「確かに」
しばらく二人で食べた。
会話がなくても気まずくはない。煙の向こうでは注文を通す声が飛び、皿を重ねる音がカウンターの奥から聞こえている。
凪が思い出したように顔を上げた。
「で、何の話だっけ」
「何の話とは」
「今日はただ飯食わせるために来たわけじゃねぇだろ」
「鋭いね」
「耳は普通だけどな」
「君の耳は、普通ではないよ」
月城はハイボールを一口飲んだ。
「君の昔の話をしようかと思って」
凪の手が止まる。
「昔?」
「バイオリンを弾いていた頃」
凪は眉を寄せた。
「……何で知ってんの」
「聴いていたから」
「誰が」
「私が」
凪は月城を見たまま、しばらく動かなかった。
「は?」
月城は何でもないことのように続ける。
「七歳の発表会。二曲目の入りが少し遅れた」
凪は持っていた串を皿へ戻した。
「こわ」
「九歳のコンクール予選。終わったあと、舞台袖で泣いていた」
「やめろ」
「十一歳。父親のリハで勝手にギターを触って怒られた」
凪は天井を見上げた。
「……何なんだよ、おじさん」
月城は肩をすくめる。
「たまたま見ていただけだよ」
「音のストーカーかよ」
店主が吹き出した。
隣にいた客までつられて笑い、月城自身も声を立てた。
「ひどい言い方だ」
「合ってるだろ」
「ファンと言ってほしいね」
「重いファンだな」
笑いが落ち着くと、月城はグラスを置いた。
「でも、本当に見ていたよ」
凪は皮の串を持ち直したが、すぐには食べなかった。
「君の家は有名だった。父親の曲は、うちでも何度か扱っていた。母親も、姉も、音楽の人だったからね」
炭が弾ける小さな音が、二人の間へ落ちる。
「だから最初は、その家の子として見ていた。作曲家の息子として」
凪は皮を一口かじった。
月城はその横顔を見ながら続ける。
「でも途中で変わった」
「何が」
「君だけ、違うところを見ていた」
凪の視線が上がる。
「上手くなることでも、褒められることでもない。音そのものを見ていた」
凪は鼻で笑った。
「大げさだな」
「そうかもしれない」
月城は串を皿へ置く。
「だから、ギターに持ち替えた時も驚かなかった」
「みんな驚いてたけどな」
「君は楽器を変えたんじゃない。向きを変えただけだ」
凪はしばらく何も言わなかった。
烏龍茶を飲み、小さく息を吐く。
「……おじさん」
「うん?」
「やっぱこえぇわ」
月城が笑った。
「褒め言葉として受け取るよ」
「何でもそう取るな」
追加のつくねが届いた。
凪は一本取り、そのまま月城へ差し出す。
「ほら」
「くれるのかい」
「古参ファンらしいし」
月城はつくねを受け取った。
「ありがとう」
「でも次、昔の黒歴史言ったら帰る」
「分かった。続きは君が話したくなった時にしよう」
凪は自分のつくねを持ったまま、少し止まった。
「……その言い方、ずるいな」
座り直し、ひと口かじる。
「帰る理由、なくなっただろ」
「それは困った」
店主がまた笑った。
凪も肩をすくめ、そのままつくねを食べる。
「……耳のいいおじさんって、めんどくせぇな」
月城は静かに頷いた。
「今さら気づいたかい」
換気扇は変わらず低い音を立てている。
凪はもう、帰るとは言わなかった。
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