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第63話 距離とは呼べない

高層マンションの廊下で、月城は待っていた。 仕事のスーツではなく、薄いシャツに黒いパンツを合わせ、髪もいつもより少しだけ崩れている。 凪はエレベーターを降りたところで足を止めた。 「お前、家でも整ってるな」 「第一声がそれかい?」 「腹立つ」 「なぜ?」 「知らねぇよ」 月城が笑って扉を開ける。 「入って」 凪は靴を脱ぎ、部屋へ入った。 広い窓と低いソファ。テーブルには資料が開かれ、その横に眼鏡が置かれている。 「仕事してたのかよ」 「少しだけ」 「休めって言っただろ」 「君はそう言いながら、突然曲を持ってくるんだね」 「仕事じゃねぇよ」 凪はギターケースを床へ置いた。 「でも聴け」 「もちろん」 月城は資料を閉じ、眼鏡も重ねてテーブルの端へ寄せる。 凪はギターを取り出した。 「どこで弾く」 「好きなところで」 「雑だな」 「君の音に場所を指定すると怒られそうだからね」 「学習したな」 「少しずつね」 凪はソファの端へ座り、月城は窓際へ移った。 「そこなんだ」 「何が?」 「いつもそこ」 月城も自分の立っている場所を見る。 「では、移動する?」 「今はいい」 「難しいね」 月城が少し笑った。 凪はギターへ指を置く。 「まだ歌詞ない」 「うん」 「曲名もない」 「うん」 「完成もしてない」 「それでも聴くよ」 凪は弾き始めた。 屋上で鳴らした音が部屋の中へ落ち、大きな窓の前にいる月城まで届く。 途中で顔を上げると、目が合った。 月城は動かない。 凪も逸らさず、最後のフレーズまで弾き切った。 弦を止めると、静けさが戻る。 月城はすぐには話さなかった。 少しして息を吐く。 「この曲は――」 「待て」 凪はギターを横へ置いた。 「今、仕事の顔しただろ」 「していないよ」 「した」 「どのあたりが?」 「そこ聞く時点でしてる」 月城が困ったように笑う。 「仕事とか、そうじゃねぇとか、また考えてんだろ」 月城は少し黙った。 「考えてはいる」 「ほら」 「考えるくらいは許してくれないかな」 凪は月城を見る。 「いちいち線引くな。俺の音に」 月城の表情から笑いが消えた。 窓の外には東京の灯りが広がっている。 しばらくして、月城が窓際を離れてこちらへ歩いてきた。 ソファの前まで来ると、凪へ視線を戻す。 「何」 「いや」 「何だよ」 月城は答えず、凪の前へ身体を屈めた。 凪が何か言う前に、月城の手が頬へ触れる。指が耳の下へ滑り、そのまま顔を上げさせた。 「玲士」 呼んだ時には、もう近かった。 触れた瞬間、凪の背がソファへ預けられる。 月城は急がない。 けれど、逃がす気もないらしい。 凪は反射的にシャツを掴んだ。 思っていたより、余裕がないのは自分の方だった。 月城の手が首の後ろへ残り、もう一度体温が近づく。 しばらくして月城が離れた。 「……すまない」 凪は眉を寄せる。 「いまさらそれ言うのかよ」 「嫌じゃない?」 「嫌ならここにいない」 「そうか」 「何でそこで安心してんだよ」 「安心はするよ」 凪はシャツを離さなかった。 「じゃあ、もう謝るな」 月城が笑う。 「分かった」 「そこは素直なんだな」 「君がそう言うならね」 月城がもう一度近づいた。 今度は凪も目を逸らさない。 二度目はさっきより自然で、月城の手が背へ回ると、凪も身体を寄せた。 息を継ぐために離れても、距離はほとんど戻らない。 凪は近い呼吸を聞きながら、少し笑った。 「何?」 「別に」 「それは信用できないね」 「お前でも乱れるんだなと思って」 「君の前では、そういうこともあるらしい」 「へぇ」 「嬉しそうだね」 「別に」 「二度目だよ」 「うるせぇ」 月城が笑い、凪もつられて笑った。 熱の中へ、いつもの二人の空気が戻ってくる。 月城はソファの隣へ腰を下ろした。 「そこ座るんだ」 「嫌?」 「また聞くのかよ」 「まだ完全には学習していないからね」 「おせぇよ」 凪はギターを持ち直した。 「もう一度?」 「うん」 最初の音を鳴らす。 さっきとは少し響き方が違う。月城が近いせいかもしれない。 数小節弾いたところで、凪の指が止まった。 「玲士」 「うん」 「さっきの、どう思った」 月城は少し考える。 「曲?」 「そっちもだけど、俺のこと」 月城が一瞬黙った。 「好きだよ」 「軽く言うな」 「軽くは言っていないよ」 凪は月城を見る。 前にも聞いた返事だった。 今度は意味を取り違える余地がない。 「俺も」 月城の目が止まる。 「何、その顔」 「いや」 「言わせといて驚くなよ」 「言わせたつもりはなかった」 「じゃあ忘れろ」 「それは無理だね」 「めんどくせぇ」 月城が笑う。 凪ももう一度弦へ指を置いた。 途中まで弾いたところで、月城が言う。 「この曲に、言葉を置いてもいいかな」 「仕事?」 「違う」 「俺のため?」 月城は窓の外へ一度目を向け、また凪を見る。 「君と一緒に作りたい」 凪はしばらく月城を見たあと、ギターへ指を戻した。 まだ名前のない曲を、最初から鳴らす。 月城は隣で黙って聴いていた。 肩がたまに触れる。 どちらも避けない。 曲にはまだ名前も歌詞もなく、完成もしていない。 それでも凪は次の音を鳴らし、月城はその隣で聴いている。 しばらくして、凪が横を見た。 「玲士」 「何?」 「もう一回キスしてから考える?」 月城は一度だけ瞬き、静かに笑う。 「それは、かなり魅力的な提案だね」 「だろ?」 「では、そうしよう」 月城の手が凪の頬へ伸びる。 今度は来ると分かっていた。 それでも、触れる前から凪の方が少しだけ息を止める。 「お前、そういう時だけ余裕あるよな」 「そういう時?」 「聞くな」 月城が笑う。 凪も笑ったまま、自分から少し近づいた。 ギターは膝の上に残っている。 弦が小さく鳴った。 どちらも気にしなかった。

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