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第62話 街から戻る音
数日後、凪は朝からゲームサウンドの収録に入っていた。
アトラボ三階の開発スペースでは、画面の中でキャラクターが同じ場所を何度も走っている。凪はヘッドホンを片耳だけ外し、モニターへ目を向けた。
足音のあとへ入る短いギターの音が、少し強い。
「もう一回」
隣のスタッフが再生位置を戻す。
凪はギターへ指を置き、今度は音を短くした。画面の動きへ合わせ、必要なところだけを残す。
「今の」
スタッフが頷くのを見て、凪はギターから手を離した。
澄川のことも、月城のことも考えていなかった。考えなくても、音は仕事として鳴る。
*
昼を過ぎる頃には、そのまま別件のテレビ収録へ移動した。
スタジオでは短いトークと演奏があり、カメラ位置を変えながら何度か同じ流れを繰り返す。照明の熱とスタッフの声が途切れず、演奏が終われば確認が入り、また同じ場所へ立った。
普段と変わらない仕事だった。
収録が終わる頃には、外はもう暗くなっていた。
凪はスタッフへ挨拶をして迎えの車へ乗り込み、後部座席へ身体を預けてスマートフォンを開いた。
いくつか連絡が届いている。
高澤から確認事項。紫月から短い音源。
月城からは何もなかった。
凪は画面を閉じた。
車が走り出し、窓の外で夜の街がゆっくり後ろへ流れていく。
しばらくして、ラジオのパーソナリティが聞き覚えのある曲名を告げた。
Blue Hour。
凪の指が止まる。
最初のギターが夜の車内に流れ、少し遅れて自分の声が重なった。
何度も聴いた曲なのに、自分で再生した時とは違って聞こえた。
凪がいなくても鳴るし、月城がいなくても鳴る。誰かが選び、どこかで誰かが聴いている。
信号で車が止まり、窓へ赤い光が映った。
凪はスマートフォンへ触れず、そのまま最後まで聴いた。
曲が終わり、ラジオが別の曲へ切り替わっても、最初の旋律だけが耳に残っている。
窓の外を見ながら、澄川が言った言葉を思い出した。
録音なのに、近い音。
近いまま、もう自分たちの手元にはない。街のどこかで勝手に鳴って、知らない誰かのところまで届いている。
凪はシートへ深く身体を預けた。
「……そういうことかよ」
運転手は何も聞かなかった。
*
アトラボへ戻った頃には、三階に残る人も少なくなっていた。
凪は自分の席へ荷物を置き、壁際のギターケースを見る。
すぐには手を伸ばさず、そのまま屋上へ向かった。
夜の屋上庭園には昼の熱がわずかに残り、植栽の向こうには東京の灯りが広がっている。風が通るたび、葉が静かに揺れた。
凪はベンチへ腰を下ろした。
ギターは持ってきていない。
しばらく夜景を眺めているうちに、車の中で聴いたBlue Hourがまた耳へ戻ってきた。
小さく息を吐く。
気づけば、旋律を口ずさんでいた。
歌詞は乗せず、最初の数音だけをなぞる。途中で止め、もう一度口にすると、今度は最後が少しだけ変わった。
Blue Hourではない音になる。
凪は眉を寄せた。
もう一度口ずさむ。
始まりは同じなのに、途中から外れていく。その先に、さっきまでなかった音が少しだけ残った。
「……何だよ」
誰に言うでもなく呟き、凪は立ち上がった。
三階へ戻ってギターケースを取り、もう一度屋上へ上がる。
ベンチでケースを開き、ギターを膝へ乗せた。
さっき口ずさんだ音を探して弦を鳴らす。
最初はBlue Hourに近すぎた。
コードを変えると、今度は離れすぎる。
少し戻して、もう一度鳴らした。
車の中で聴いたBlue Hourは、凪たちの曲なのに、もう凪だけのものではなかった。
誰かの耳へ届き、知らない場所で鳴っている。
それなら、新しい音まで閉じておく必要はない。
月城へ向かってもいい。
月城だけで終わらなければいい。
凪はもう一度弾いた。
今度は止めず、途中で少しだけ音を変える。
Blue Hourの形が薄れ、その向こうに別の流れが残った。
最後の和音まで行き、凪はしばらく弦を押さえたまま動かなかった。
指先に久しぶりの熱が残っている。
「……めんどくせぇ」
もう一度、最初から弾く。
さっきより迷わない。途中で一つだけ音を変え、そのまま最後まで通した。
歌詞はまだない。
曲名もないし、完成もしていない。
それでも、月城に聴かせたいと思った。
凪はスマートフォンを取る。
《曲できた。聴け》
返事はすぐに届いた。
《今から?》
《今から》
少しして、月城の自宅の住所が送られてくる。
凪は画面を見た。
「知ってるっつーの」
一人で言って、ケースを閉じた。
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