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第61話 ハンバーグ
凪隼人は玉ねぎを細かく刻み、弱い火で透き通るまで炒めた。
皿へ広げて冷ましている間に付け合わせの野菜を切る。キッチンカウンターの端にはスマートフォンを置いていた。
月城玲士から、新しい返信は来ていない。
最後に並んでいるのは、凪が送った二文字だった。
『見た』
凪は画面を伏せ、ボウルへ合い挽き肉を入れた。冷ました玉ねぎとパン粉、牛乳、卵、塩を加えて手で混ぜる。
腹は立っていたが、力任せにはこねなかった。
形を整えて中央をへこませ、フライパンへ並べる。肉の焼ける匂いがキッチンへ広がる頃には、付け合わせの野菜も火が通っていた。
赤ワインを開け、使う分だけ小鍋へ入れてソースを煮詰める。
月城が来るはずだった日に作らなかったハンバーグを、凪は一人で弁当箱へ詰めた。ごはんと野菜を添え、ソースは小さな容器へ分ける。
箸と保冷剤まで入れて、保冷袋の口を閉じた。
次に来るのを待つつもりだった。
けれど、いつになるか分からない。
凪は袋を持ち上げた。
来ないなら、持っていけばいい。
外へ出る頃には、空が暗くなっていた。
VERTEX MUSIC GROUP本社のロビーは、夜になっても明るい。ガラスの壁の向こうには車の灯りが流れ、受付奥の大型ビジョンでは所属アーティストや提携先の映像が切り替わっていた。
白い背景へ、黒い影が映る。
澄川律のツアービジュアルだった。
横顔と、マイクへ添えた指。
凪は保冷袋を持ち直し、受付へ向かった。
「雨宮さんに届け物」
受付の女性が端末へ手を置く。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「凪隼人」
女性の手が一度止まり、すぐに操作を再開した。
「少々お待ちください」
凪はロビーの端へ移った。
雨宮凛子へ預けて帰るつもりだった。月城が食べれば、それでいい。
奥の扉が開き、資料を持ったスタッフと、タブレットを見ながら歩く数人がロビーへ出てくる。
その中に、澄川律がいた。
ライブの時より色の薄い服を着ている。深いグレーのジャケットに白いシャツで、ステージの上とは違って見えた。
隣の女性と話していた澄川が、凪の前で足を止める。
「凪隼人さんですよね」
凪は保冷袋の持ち手へ指を掛けたまま答えた。
「そうだけど」
澄川は軽く頭を下げる。
「澄川律です」
「知ってる」
「Ridgeline、聴いてます」
凪は澄川を見る。
「お前、若いだろ」
「若くても聴きます」
澄川は迷わず返した。
「知らないで音楽をやる方が難しいです」
媚びている様子はなかった。知っている音の名前を、普通に出しただけだった。
「Blue Hourも聴きました」
保冷袋の持ち手が、凪の指へ少し食い込む。
「玲士から?」
「いえ。出ていたので、普通に」
澄川は少し考えてから続けた。
「録音なのに、近い音でした」
「何それ」
「熱で押してくる感じじゃないのに、距離が近かった」
凪は返さなかった。
澄川は、月城を通さず凪の音を聴いていた。
それが気に入らないのか、悪くないのかは、すぐには決められない。
「褒めてんの?」
「はい」
「下手だな」
「よく言われます。感想が硬いって」
「だろうな」
受付の奥から雨宮が歩いてきた。
「凪さん」
雨宮は澄川へ会釈する。
「澄川さん、お車は正面に到着しています」
「ありがとうございます」
澄川はもう一度凪を見る。
「お会いできてよかったです」
「ならよかった」
「Ridgeline、また聴きます」
それ以上立ち止まらず、澄川は隣の女性とロビーを出ていった。
凪は背中を追わなかった。
雨宮が保冷袋へ視線を落とす。
「お預かりしますか」
凪は袋を差し出しかけ、止めた。
「おじさんいる?」
「月城専務でしたら、いらっしゃいます」
「会える?」
「五分だけでしたら」
「それでいい」
雨宮は受付へ目配せし、凪をセキュリティゲートの奥へ案内した。
エレベーターが上がっていく間、澄川の言葉が耳へ戻る。
録音なのに、近い音。
月城を挟まなくても、音は届いていた。
雨宮は何も聞かなかった。
上階の小さな控室には、月城がいた。
テーブルに資料を広げ、ジャケットの袖口を整えている。
扉が開くと、月城の手が止まった。
「凪」
視線が、凪の持つ保冷袋へ落ちる。
「どうしてここに」
「飯持ってきた」
「飯?」
凪は袋を少し持ち上げた。
「ハンバーグ」
月城の視線がそこで止まる。
「作ったのかい」
「食いたいって言っただろ」
「言ったね」
「待っててもいつ来るか分かんねぇし」
月城は少し黙った。
凪は保冷袋を差し出す。
「だから持ってきた」
今度は月城が手を伸ばした。
受け取る時、袋の底を両手で支える。
「ありがとう」
「礼言うな」
「なぜ?」
「別に」
月城は袋を開き、中を少しだけ覗いた。
「ソースまで分けたんだね」
「こぼれるだろ」
「そうだね」
袋を閉じ、仕事用の資料から少し離れた場所へ置く。
雨宮が扉へ向かった。
「次の資料を確認してまいります。五分後に戻ります」
「雨宮」
「すぐ戻ります」
扉が閉まり、小さな控室に二人だけが残った。
凪は月城の向かいへは座らなかった。
「帰る」
月城の手が保冷袋の上で止まる。
「もう?」
「渡したから」
「そうだね」
「ちゃんと食えよ」
「うん」
「残すな」
「残さない」
月城はまっすぐ答えた。
凪は扉へ向かう。
「凪」
足を止めた。
振り返らないまま待つ。
「来てくれて、ありがとう」
凪は扉の取っ手へ手を置いたまま返す。
「飯持ってきただけ」
「うん」
「冷める前に食えよ」
少しして、月城が答えた。
「分かった」
凪は控室を出た。
廊下の先では、雨宮が資料を持って待っていた。
「お帰りですか」
「帰る」
「承知しました」
凪は一人でエレベーターへ乗った。
ロビーへ戻ると、大型ビジョンにはまた澄川律が映っていた。
白い背景に黒い影。
さっき会った本人は、画面の中より普通に話した。それでも、ライブで聴いた音まで普通になったわけではない。
「……むかつくな」
凪はビジョンから視線を外し、建物を出た。
冷房の効いたロビーの外には、舗道に残った熱と湿った夜気がある。
手にはもう何もない。
保冷袋の持ち手が当たっていた指だけに、まだ少し跡が残っていた。
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