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第60話 見ていた
澄川律のライブが終わり、凪隼人が会場を出たあとも、月城玲士の仕事は続いていた。
関係者用の控室には、国内レーベルと海外配信側の担当者が残っている。机の上には、未発表曲の扱いと映像素材の使用範囲をまとめた資料が広げられていた。
「新曲の切り出しは、本人側の確認が先です」
月城は該当箇所へ指を置いた。
「今夜の反応が良かったからといって、そのまま出すものではありません」
海外側の担当者が、配信前に短い映像を出したいと提案する。
月城は資料へ目を落としたまま首を振った。
「広がることと、残ることは違います。澄川律の音は、順番を急がせない方がいい」
国内レーベルの担当者が頷き、手元へ書き込む。
今夜の音には、海外へ持っていく理由があった。照明も弦も客席の沈黙も、澄川律が立つ場所から外れていなかった。
それでも資料へ視線を戻すたび、後方の関係者席が浮かぶ。
そこにいた凪。
目が合い、月城が隣の資料へ戻ったあと、先に通路へ出ていった背中。
月城は一度読んだ行へ、もう一度視線を戻した。
「本日は、ここまででよろしいかと思います」
扉の近くから雨宮凛子の声がした。
「確認事項は明日の午前中に整理して共有いたします」
月城は資料を閉じる。
「助かるよ」
「これ以上続けますと、月城専務は追加の調整まで引き受けます」
「秘書が厳しい」
「事実確認です」
海外側の担当者が笑い、席を立った。
挨拶が続き、一人ずつ控室を出ていく。最後の扉が閉まると、机の上には澄川律の資料と月城のスマートフォンだけが残った。
雨宮が散らばっていた紙の角を揃える。
「凪さん、いらしていましたね」
月城の手が止まった。
「見ていたのかい」
「はい」
「仕事中に?」
「仕事です」
雨宮は資料を封筒へ入れた。
「月城専務が凪さんをご覧になったあと、同じ行を二度確認されていましたので」
月城は椅子の背へ身体を預ける。
「分かりやすかったかな」
「かなり」
「困ったね」
雨宮は封筒を鞄へ収めた。
月城は机のスマートフォンを見る。
「連絡されないのですか」
「今?」
「今でなくても結構ですが」
月城は画面には触れなかった。
何を送るのかが決まっていない。
澄川律をどう聴いたのか聞くのも違う。会場で気づいていたと伝えるだけでも、何かを確かめるように見える。
「明日にするよ」
「承知しました」
雨宮はそれ以上言わなかった。
帰宅してシャワーを浴びると、月城は水を持ってソファへ座った。
部屋は静かだった。
スマートフォンを取り、凪との画面を開く。
『今日は来てくれてありがとう』
と打ってみる。
違う気がして消した。
次に、
『澄川律はどうだった?』
と入れる。
それも残らなかった。
会場で気づいていたことを伝えようとして、指を止める。
仕事なら、必要なことを整理して順番に送れる。
凪への一文だけは、何を残せばいいのか分からなかった。
月城は画面を閉じた。
その夜は、何も送らなかった。
翌日、会議の合間に何度かスマートフォンへ手を伸ばした。
時刻を確認して戻す。移動中も通知だけを見て、凪との画面には入らない。
夕方、最後の会議が終わった頃、雨宮が資料を持って執務室へ入ってきた。
「月城専務」
「何かな」
「送られましたか」
月城は書類から顔を上げる。
「まだだよ」
「では、一文で」
「命令?」
「秘書判断です」
「強いね」
雨宮は資料を机へ置いた。
「長く考えますと、また適切な距離から検討を始められますので」
月城は返さなかった。
雨宮は窓際へ移り、外へ視線を向ける。
「一文でよろしいかと」
月城はスマートフォンを取った。
凪との画面を開き、何度か文字を置いては消す。
最後に残した。
『昨日は、来ていたね』
しばらく見てから、送信した。
雨宮が振り返る。
「送られましたか」
「送ったよ」
「一文ですか」
「一文」
「適切です」
「採点されるとは思わなかった」
雨宮は何も答えず、次の資料を開いた。
月城もスマートフォンを机へ置く。
伏せなかった。
しばらくして、画面が光る。
凪からだった。
『見た』
月城はその二文字を読む。
聴いた、ではない。
来ていた、でもない。
見た。
返信欄を開き、
『何を』
と打った。
指が止まる。
机の上には、澄川律の海外展開資料がある。
その横で、凪の二文字だけが画面に残っていた。
月城は入力した文字を消す。
「返信されないのですか」
雨宮が聞いた。
「今は、しない」
「理由は」
月城は画面から目を離さなかった。
「分からない」
雨宮が資料をめくる手を止める。
「珍しいですね」
「そうかな」
「はい。月城専務は、理由を用意してから迷う方です」
月城は返信欄を閉じた。
凪が何を見たのかは、まだ分からない。
澄川律の音なのか。
月城が仕事へ戻ったところなのか。
月城は澄川律の資料を閉じた。
スマートフォンは伏せないまま、机の上へ残した。
画面には、凪の短い返事がまだ表示されていた。
『見た』
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