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第59話 狭い音
アトラボ三階の窓には、夜のフロアが重なって映っていた。
モニターの光や資料をめくる手、離れた席から聞こえる小さな相談の声が、ガラスの向こうの街と重なっている。
凪隼人は共有テーブルにスマートフォンを置いたまま、何度目かの画面を見た。
月城玲士からの連絡はない。
昨夜の会場で、月城はこちらを見た。隣の男が資料を開くと、短く頷いて仕事へ戻った。
そこまでだった。
凪はスマートフォンを伏せ、椅子を引く。
「屋上行く」
近くで作業していた相沢涼が顔を上げた。
「今?」
「うん」
「ギター?」
凪は壁際のケースを取る。
「風あるよ」
「知ってる」
「俺もあとで行く」
「来んな」
「行く」
「来んなって」
「行くよ」
凪は返すのをやめた。
エレベーターは使わず、非常階段へ入る。上へ進むたび、三階の声とモニターの光が扉の向こうへ遠ざかっていった。
最後の扉を押すと、昼の熱を少し残した風がシャツの中へ入った。
屋上庭園には低い植栽が並び、散水された土の匂いが残っている。曲線の小径の先には、東京の灯りが広がっていた。
月城が以前座ったベンチは空いている。
凪はその手前を通り、植栽の反対側へ腰を下ろした。
ギターケースを開き、チューニングを合わせて最初のコードを鳴らす。
強すぎた。
すぐに弦を押さえて止める。
次は音数を減らし、低いところから入って最後だけ細く残した。
その一音が、空いたベンチの方へ伸びる。
凪はまた止めた。
「……違ぇ」
押さえ方を変える。
澄川律の舞台で聴いた、低い電子音。声を押さない弦。ほとんど動かずに、会場の空気だけを変えた立ち方。
それを追わないように弾いた。
追わないほど、音は同じ場所へ戻る。空いたベンチと、昨夜あの舞台を見ていた月城の方へ。
凪の指に力が入り、和音が硬くなった。
すぐに弦を止める。
弾けないわけではない。
ただ、最後の一音だけがどうしても屋上へ広がらなかった。
凪はギターを膝へ置いた。
しばらくして、背後の扉が開く。
「来んなって言った」
「うん」
相沢は月城が座ったベンチを避け、植栽のそばへ腰を下ろした。
凪はそれを見たが、何も言わなかった。
「弾いて」
「嫌だ」
「さっきの続きでいいよ」
「勝手に聴くな」
「ここで鳴らしたら聴こえる」
凪はギターを構え直した。
低い音から入り、さっきより長く続ける。
強くすると澄川へ向かい、抑えると月城の方へ戻る。
どちらも気に入らない。
途中で弦を止めた。
相沢が言う。
「鳴ってるよ」
凪はそちらを見る。
「じゃあ何だよ」
「狭い」
風が植栽を抜ける。
凪はギターのネックへ手を置いた。
「悪いってこと?」
「悪くはない」
「じゃあ何」
相沢は凪ではなく、弦を見ていた。
「玲士さんに向かってる」
「違ぇ」
「向かうのは悪くないよ」
「じゃあ、何が狭いんだよ」
相沢は少し考える。
「そこから出てこない」
凪は返さなかった。
空いたベンチへ視線を向ける。
見ないようにしていたはずなのに、音は最初からそこへ戻っていた。
「澄川に腹立ててる音じゃないね」
「腹は立ってる」
「うん。でも、それだけじゃない」
凪の指が弦へ触れる。
「玲士さんに聴かせたい?」
「違ぇよ」
「じゃあ、誰に向けて鳴ってるの」
答えは出なかった。
相沢も急かさない。
屋上の向こうで車の光が流れ、ビルの間へ消えていった。
凪はもう一度ギターを鳴らした。
短いフレーズは、やはりベンチの手前で止まる。
「俺の音じゃなくなりそうで、嫌だ」
相沢が小さく頷いた。
「うん」
「うんじゃねぇよ」
「分かるから」
「分かんのかよ」
「少しは」
相沢は夜景へ視線を移した。
「玲士さんに向かって鳴ることと、玲士さんのためだけに鳴ることは、違うと思う」
凪は眉を寄せる。
「何それ」
「今の音、玲士さんに届いたら終わりそうだから」
凪の手が止まった。
「終わらねぇよ」
「なら、もっと外へ出せる」
凪はギターへ目を落とした。
月城に聴かせたい気持ちは、もう否定しなくていい。けれど、月城が振り向いたところで終わる音にはしたくなかった。
澄川律が悪くなかったことも、月城があの舞台を聴いていたことも、そのまま残っている。
全部を押し返そうとすると、音は一人分の場所へ戻ってしまう。
「どうすんの」
「知らない」
「知らねぇのかよ」
「俺が決めたら、もっと狭くなる」
「無責任」
「うん」
相沢は否定しなかった。
「今は曲にしなくていいと思う」
「捨てろってこと?」
「置いておく」
「どこに」
相沢は屋上を見回した。
空いたベンチ、植栽、その向こうの東京の灯り。
「ここでいいんじゃない」
凪は何も言わなかった。
「玲士さんだけの場所じゃないから」
凪はギターを構え、もう一度弾く。
最後の音はまたベンチへ向かった。
今度は止めなかった。
そのまま押さえを変え、少し高い音を夜景の方へ伸ばす。
響きは植栽の手前で薄くなり、遠くの車の音へ混じった。
うまく広がったわけではない。
それでも、さっきより長く残った。
凪が弾くのをやめる。
「今の方がいい」
相沢が言った。
「褒めてんの?」
「うん」
「下手」
「凪よりは上手いと思う」
「何が」
「褒め方」
凪はギターのペグへ手を伸ばした。
ポケットの中でスマートフォンが震える。
月城からだった。
『昨日は、来ていたね』
凪は入力欄を開いた。
『強かった』
そこまで打って、消す。
相沢は画面を見ず、夜景へ身体を向けている。
凪は最後に短く打った。
『見た』
送信する。
すぐには既読にならない。
凪はスマートフォンを伏せ、ギターへ手を戻した。
空いたベンチへ向かう音を、今度は切らない。
そこからもう一音だけ、外へ置く。
曲にはしないまま、二つの音が屋上に残った。
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