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第58話 聴きに行く

関係者受付には、凪隼人と相沢涼の名前が並んでいた。 紫月颯は来ない。電話では、あっさりそう言われている。 「俺が行ったら仕事になる。お前は聴きに行け」 追加公演とはいえ、澄川律のチケットは一般販売ですでに完売していた。紫月が確保した二席は、後方寄りの関係者席だった。 駅から続く通路の先にホールが見えてくる。 入口の壁面には、ツアービジュアルが大きく映し出されていた。白い背景に黒い影。正面から顔を見せる写真ではなく、横顔と首元、マイクへ添えた指だけが光の中に残っている。 相沢が足を止めた。 「これ、誰が撮ったんだろうね」 先へ進みかけた凪が振り返る。 「知らねぇよ」 「いい目してる」 「今それ見る時間かよ」 「見るでしょ」 相沢はもう一度写真を見てから、凪の隣へ戻った。 ロビーには物販の列が伸びていた。客の声は大きくないが、足元には同じツアーバッグがいくつも並び、スタッフが列を崩さないよう細かく人を動かしている。 凪は天井から落ちる細い照明を見上げた。 「金かかってんな」 「かかってるね」 「嫌な感じはしねぇけど」 「そこが強い」 凪は返さなかった。 関係者席からは舞台全体が見えた。中央にマイクスタンドが一本あり、その周囲へ弦、ギター、キーボード、電子パッドと生ドラムが置かれている。 どの楽器も、前へ出る配置ではない。 凪はしばらく舞台を見た。 「金だけじゃできねぇな」 相沢が隣で笑う。 「分かるから腹立つ?」 「うるせぇ」 奥のスクリーンには、都市の灯りを砕いたような映像が流れている。中央のマイクへ細い光が落ち、低い弦が会場の底へ沈むにつれて、客席の声も少しずつ消えていった。 その途中で、凪は後方の通路へ目を向けた。 数人の関係者が入ってくる。 その中に、月城玲士がいた。 黒いジャケットを着て、隣を歩く男へ資料を示している。海外側の関係者らしい男と、澄川のスタッフも一緒だった。 凪は前へ向き直った。月城はこちらには気づかないまま席へ着き、スマートフォンにも触れず、隣の相手と短く話している。 やがて客席の明かりが落ちた。 弦が重なり、スクリーンの白い線がほどけるように消えていく。中央へ明かりが戻った時、澄川律はマイクの前に立っていた。 白いシャツに黒いジャケット。 光の中には、顔より先に輪郭が浮かんでいる。 澄川は何も言わなかった。それでも客席はさらに静かになり、最初の音が落ちたところで、凪の膝の上の指が止まった。 公開音源とは違った。 声量で押しているわけではない。弦もギターも大きくない。それでも声は会場の奥まで届いていく。 近づいてこない。 客席を呼び込むこともしない。 離れたまま、その距離ごと声の中へ残している。 ギターも目立たないが、外せば曲が崩れる場所にあった。低い電子音が床へ残り、その上を弦が細く通っていく。 凪の指が膝の布を掴んだ。 一曲目が終わり、長い拍手のあとで澄川が軽く頭を下げる。 「今日は、来てくれてありがとうございます」 声にも余分な力がない。 「新しい曲をやります。まだ、どこにも出していません」 客席がまた静かになる。 「外に出る前に、ここで鳴らしておきたかったので」 凪は後方へ視線をやった。 月城は腕を組み、舞台を見ている。隣から何か言われても、曲が始まるまでは返さなかった。 新しい曲には、海の言葉が入っていた。 どこかへ向かうためではなく、外へ出る前に自分の立っている場所を確かめるような音だった。 凪ともAuroraとも違う。 それでも、月城がここにいる理由は分かった。 澄川の声が切れ、弦だけが残る。 凪はもう月城を見なかった。 ライブの終盤まで、澄川は大きく動かなかった。立つ場所も、声を置く位置もほとんど変わらない。それなのに、曲が進むたび、会場の空気だけが少しずつ変わっていく。 最後の曲の途中で、凪が小さく言った。 「……強ぇじゃねぇか」 相沢は何も返さなかった。 最後の音が消え、客席へ少しずつ明かりが戻る。 アンコールはなかった。 周囲の客が立ち始めても、凪はすぐには動かなかった。後方では、月城が関係者から声を掛けられ、席を立っている。 ふと、こちらを見た。 目が合った。 月城の足が一度止まる。 その隣で、海外側の男が資料を開いた。 月城は凪へ短く頷いてから、仕事へ身体を戻した。 凪も立ち上がる。 相沢は何も聞かず、その後ろへ続いた。 外へ出ると、歩道へホールの明かりが落ちていた。 相沢が入口近くで足を止める。 「どうだった」 「悪くなかった」 「それ、かなり褒めてるな」 「うるせぇ」 相沢はガラスの向こうに残るツアービジュアルを見た。 「いい音だった」 「言うな」 「言うよ」 少しして、相沢が続ける。 「音だけじゃないね」 「何が」 「残し方」 凪は振り返らなかった。 相沢もそれ以上は説明せず、人の流れを見ている。 「腹立った?」 凪はポケットからスマートフォンを出した。 月城からの連絡はない。 画面を閉じる。 「腹立った」 相沢が頷く。 「じゃあ、鳴るね」 凪がそちらを見る。 「何が」 「凪の音」 「勝手に決めんな」 「決めてない。聞こえそうなだけ」 凪はスマートフォンをポケットへ戻した。 「帰る」 「ギター?」 少しだけ間を置いて、凪が答えた。 「鳴らす」 相沢は入口の写真をもう一度見た。 「だと思った」 凪は会場へ振り返らず、そのまま歩き出した。

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