58 / 63
第58話 聴きに行く
関係者受付には、凪隼人と相沢涼の名前が並んでいた。
紫月颯は来ない。電話では、あっさりそう言われている。
「俺が行ったら仕事になる。お前は聴きに行け」
追加公演とはいえ、澄川律のチケットは一般販売ですでに完売していた。紫月が確保した二席は、後方寄りの関係者席だった。
駅から続く通路の先にホールが見えてくる。
入口の壁面には、ツアービジュアルが大きく映し出されていた。白い背景に黒い影。正面から顔を見せる写真ではなく、横顔と首元、マイクへ添えた指だけが光の中に残っている。
相沢が足を止めた。
「これ、誰が撮ったんだろうね」
先へ進みかけた凪が振り返る。
「知らねぇよ」
「いい目してる」
「今それ見る時間かよ」
「見るでしょ」
相沢はもう一度写真を見てから、凪の隣へ戻った。
ロビーには物販の列が伸びていた。客の声は大きくないが、足元には同じツアーバッグがいくつも並び、スタッフが列を崩さないよう細かく人を動かしている。
凪は天井から落ちる細い照明を見上げた。
「金かかってんな」
「かかってるね」
「嫌な感じはしねぇけど」
「そこが強い」
凪は返さなかった。
関係者席からは舞台全体が見えた。中央にマイクスタンドが一本あり、その周囲へ弦、ギター、キーボード、電子パッドと生ドラムが置かれている。
どの楽器も、前へ出る配置ではない。
凪はしばらく舞台を見た。
「金だけじゃできねぇな」
相沢が隣で笑う。
「分かるから腹立つ?」
「うるせぇ」
奥のスクリーンには、都市の灯りを砕いたような映像が流れている。中央のマイクへ細い光が落ち、低い弦が会場の底へ沈むにつれて、客席の声も少しずつ消えていった。
その途中で、凪は後方の通路へ目を向けた。
数人の関係者が入ってくる。
その中に、月城玲士がいた。
黒いジャケットを着て、隣を歩く男へ資料を示している。海外側の関係者らしい男と、澄川のスタッフも一緒だった。
凪は前へ向き直った。月城はこちらには気づかないまま席へ着き、スマートフォンにも触れず、隣の相手と短く話している。
やがて客席の明かりが落ちた。
弦が重なり、スクリーンの白い線がほどけるように消えていく。中央へ明かりが戻った時、澄川律はマイクの前に立っていた。
白いシャツに黒いジャケット。
光の中には、顔より先に輪郭が浮かんでいる。
澄川は何も言わなかった。それでも客席はさらに静かになり、最初の音が落ちたところで、凪の膝の上の指が止まった。
公開音源とは違った。
声量で押しているわけではない。弦もギターも大きくない。それでも声は会場の奥まで届いていく。
近づいてこない。
客席を呼び込むこともしない。
離れたまま、その距離ごと声の中へ残している。
ギターも目立たないが、外せば曲が崩れる場所にあった。低い電子音が床へ残り、その上を弦が細く通っていく。
凪の指が膝の布を掴んだ。
一曲目が終わり、長い拍手のあとで澄川が軽く頭を下げる。
「今日は、来てくれてありがとうございます」
声にも余分な力がない。
「新しい曲をやります。まだ、どこにも出していません」
客席がまた静かになる。
「外に出る前に、ここで鳴らしておきたかったので」
凪は後方へ視線をやった。
月城は腕を組み、舞台を見ている。隣から何か言われても、曲が始まるまでは返さなかった。
新しい曲には、海の言葉が入っていた。
どこかへ向かうためではなく、外へ出る前に自分の立っている場所を確かめるような音だった。
凪ともAuroraとも違う。
それでも、月城がここにいる理由は分かった。
澄川の声が切れ、弦だけが残る。
凪はもう月城を見なかった。
ライブの終盤まで、澄川は大きく動かなかった。立つ場所も、声を置く位置もほとんど変わらない。それなのに、曲が進むたび、会場の空気だけが少しずつ変わっていく。
最後の曲の途中で、凪が小さく言った。
「……強ぇじゃねぇか」
相沢は何も返さなかった。
最後の音が消え、客席へ少しずつ明かりが戻る。
アンコールはなかった。
周囲の客が立ち始めても、凪はすぐには動かなかった。後方では、月城が関係者から声を掛けられ、席を立っている。
ふと、こちらを見た。
目が合った。
月城の足が一度止まる。
その隣で、海外側の男が資料を開いた。
月城は凪へ短く頷いてから、仕事へ身体を戻した。
凪も立ち上がる。
相沢は何も聞かず、その後ろへ続いた。
外へ出ると、歩道へホールの明かりが落ちていた。
相沢が入口近くで足を止める。
「どうだった」
「悪くなかった」
「それ、かなり褒めてるな」
「うるせぇ」
相沢はガラスの向こうに残るツアービジュアルを見た。
「いい音だった」
「言うな」
「言うよ」
少しして、相沢が続ける。
「音だけじゃないね」
「何が」
「残し方」
凪は振り返らなかった。
相沢もそれ以上は説明せず、人の流れを見ている。
「腹立った?」
凪はポケットからスマートフォンを出した。
月城からの連絡はない。
画面を閉じる。
「腹立った」
相沢が頷く。
「じゃあ、鳴るね」
凪がそちらを見る。
「何が」
「凪の音」
「勝手に決めんな」
「決めてない。聞こえそうなだけ」
凪はスマートフォンをポケットへ戻した。
「帰る」
「ギター?」
少しだけ間を置いて、凪が答えた。
「鳴らす」
相沢は入口の写真をもう一度見た。
「だと思った」
凪は会場へ振り返らず、そのまま歩き出した。
ともだちにシェアしよう!

