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第57話 別の音
翌日、凪隼人は昼を過ぎても買い物メモを開かなかった。
スマートフォンには、昨夜入力したハンバーグと赤ワイン、それに足りない材料が残っている。昨日、自分から「来ていい」と送ったせいで、ただの買い物には見えなかった。
凪はソファへ座ったまま画面を閉じた。壁際にはギターケースがあり、再生履歴には紫月颯から届いた完成音源が残っている。
待つ音。
仮題のままなのに、もう別の名前へ変える必要がないように見えるのが少し腹立たしかった。
スマートフォンが震えた。
月城ではなく、雨宮凛子からの着信だった。
「はい」
「凪さん、お疲れさまです。雨宮です」
「玲士?」
自分でも早いと思ったが、雨宮はそこには触れなかった。
「月城専務の本日の予定について、ご連絡です」
「来れねぇの?」
「現時点では、難しいと思います」
昨夜、自分から「来ていい」と送り、月城も楽しみにしていると返してきた。そのやり取りが、そのまま頭へ戻った。
「また逃げてんの?」
「逃げてはいません」
即答だった。
逃げているなら、逃げるなと言える。そうでないなら、何を言えばいいのか分からない。
「じゃあ何」
「別件です」
「Aurora?」
「違います」
凪の指がソファの縁で止まった。
「別のアーティストの海外展開案件です」
雨宮の声はいつもと変わらない。
月城がVERTEXの人間で、海外展開を見る立場にいて、Auroraだけを相手にしているわけではないことくらい、凪も知っている。
それでも、今日その理由で来られないと聞くのは少し違った。
「月城専務はAurora専属ではありません」
「知ってる」
雨宮はそれ以上言わなかった。
凪も続けなかった。
買い物メモには、昨日入れた文字がまだ残っている。
「いつ終わるんだよ」
「分かりません」
「今日来る可能性は」
「あります。ただ、時間はお約束できません」
「……そう」
「月城専務は、凪さんとの約束を軽く扱っているわけではありません」
「分かってる」
「昨日から、少し落ち着きがありませんでした」
凪は眉を寄せた。
「それ言っていいのかよ」
「秘書判断です」
少しだけ笑いそうになった。
「効いてんなら来ればいいのに」
「仕事ですので」
「分かってるって」
分かるから困る。
雨宮はしばらく黙ってから、月城には仕事が終わってから直接連絡するよう伝えると言った。
「仕事終わってからでいい」
「承知しました」
そこで通話を終えてもよかった。
それでも凪は聞いた。
「そのアーティスト、誰」
「公開済み案件か確認します」
「悪用しねぇよ」
「そういう問題ではありません」
「雨宮さん、ほんとそういうとこ」
「業務です」
少し待ってから、雨宮が名前を告げた。
「澄川律です」
凪はその名前を頭の中で繰り返した。
まったく知らないわけではない。配信かライブ告知か、どこかで見た覚えはある。ただ、自分から追ったことはなかった。
「玲士が見るくらい?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「分かった」
通話が切れ、部屋に静けさが戻った。
検索すれば、澄川律の曲はすぐに出る。
凪は一度検索画面を開いたものの、名前を打つ前に指を止めた。曲だけ聴いて、月城がそこへ行く理由まで分かるのかは分からない。
少し考えてから、紫月へメッセージを送った。
『澄川律って知ってる?』
返事ではなく、着信が来る。
凪は嫌な顔をしながら出た。
「電話してくんなよ」
「お前が急に他人の名前出すからだろ」
紫月の声には少し笑いが混じっていた。
「珍しいな。名前から入るの」
「曲に興味ねぇわけじゃねぇよ」
「知ってる。だから珍しいって言ってんだよ」
凪が黙ると、紫月の声が少し変わった。
「何があった」
「玲士がそっち行った」
「澄川律?」
「うん」
「それで?」
凪はテーブルに置いたスマートフォンへ目をやった。
「俺んとこ来ねぇで、そっち行った」
電話の向こうが静かになる。
「嫉妬?」
「違ぇ」
「早ぇな」
「違う」
「じゃあ何だよ」
うまく答えられなかった。
月城が誰かを好きだとか、そういうことではない。ただ、自分の音を聴いていた耳が、今日は別の場所にある。それが気に入らない。
紫月は追わず、澄川律の話へ戻った。
「で、どんな音か知りたいんだな」
「うん」
「悪くない」
「それだけ?」
「かなり悪くない」
「腹立つ言い方すんな」
「今のお前にはこれくらいでいい」
「性格悪い」
「知ってる」
笑いが消えたあと、紫月は国内ではすでに評価されていること、派手に押すタイプではないが残ること、言葉の置き方と曲の空白がうまいことを話した。
「海外で拾われてもおかしくない。月城が見る理由はある」
凪はしばらく黙った。
「聴いた方がいい?」
「音源だけで分かった気になるなよ」
「じゃあ何」
「現場」
「ライブ?」
「月城が時間使う理由まで知りたいならな」
紫月はからかっていなかった。
「月城はもう、数字だけで音を見てねぇだろ。お前の時もそうだった。澄川律にも何か聴いてるなら、現場の方が早い」
凪は壁際のギターケースを見る。
月城が聴いている音を、自分も聴きに行く。
それは気に入らなかったが、何も聴かずに腹を立て続ける方がもっと気に入らなかった。
「ライブいつ」
「自分で調べろ」
「教えろよ」
「そこまで面倒見ねぇ」
凪は通話をスピーカーへ切り替え、検索画面を開いた。
澄川律の公式情報には、数日後の都内公演が出ている。
一般席は完売だった。
「ない」
「だろうな」
「じゃあいい」
「よくねぇよ。関係者枠なら当たれるかもしれない」
「そこまですんな」
「聴きたいのか、聴きたくないのかどっちだよ」
凪は答えず、少しして別のことを聞いた。
「玲士、そこにも来ると思う?」
「仕事なら可能性あるだろ」
紫月が少し間を置く。
「会いたいのか」
「違う」
「さっきから全部それだな」
凪は額へ手を当てた。
紫月は今度は笑わなかった。
「凪。別の音聴いたからって、お前の音が減るわけじゃねぇぞ」
正しい。
正しいから、すぐには受け取りたくなかった。
「知ってる」
「なら聴け」
「何を」
「澄川律。腹立つなら、聴いてから腹立てろ」
凪は少し黙ってから答えた。
「分かった」
「じゃあ切るぞ」
「お前、楽しんでた?」
「少し」
「最低」
「知ってる」
通話が切れた。
凪はそのまま澄川律のページを開いた。
公開されている曲の一つを選び、再生ボタンへ指を置く。一度止まったが、迷っている自分にも腹が立ち、そのまま押した。
流れてきた音は派手ではなかった。
声も前へ押してこない。言葉を急がせず、空いた場所も埋めようとしないまま、次の音へ渡していく。
凪はスマートフォンを持ったまま最後まで聴いた。
悪くない。
腹が立つくらい、悪くない。
曲が終わっても、すぐには画面へ触れなかった。
月城が今日そこへ行った理由も、少しだけ分かった。
夕方になっても、買い物メモはそのまま残っていた。
今日はもう買わない。
それでも消さずに画面を閉じ、凪は壁際のギターケースへ向かった。澄川律の音は止まっていたが、耳にはまだ少し残っている。
一つ目の留め具を外し、蓋を開けた。
その日の夜、ギターを片づけたあとでスマートフォンが震えた。
月城だった。
『今日は行けなくて、すまなかった』
凪はソファへ座り直して画面を見る。
朝から残っていた苛立ちは消えていない。ただ、月城が何をしていたのかも、そこへ行く理由も、昼よりは分かっていた。
『仕事なら仕方ねぇ』
送ってから、もう一度入力欄を開く。
『ハンバーグは次』
少し置いて既読がついた。
『次があるんだね』
凪の指が止まる。
そこまで確認するのかと思ったが、買い物メモの文字はまだ何も消していない。
『あるから消してねぇ』
送ってから、少し言いすぎた気がした。
取り消しはしなかった。
月城から返ってきたのは、
『楽しみにしている』
だった。
凪はその一文を見てから、買い物メモへ戻った。
ハンバーグも赤ワインも、足りない材料も残っている。その横とは別の画面に、数日後の澄川律のライブ情報も残っていた。
凪はどちらも消さず、スマートフォンを伏せた。
壁際では、閉じたギターケースが元の場所へ戻っていた。
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