56 / 63

第56話 来ていい

紫月颯から完成音源が届いたのは、日付が変わる少し前だった。 凪隼人はリビングの照明を一つだけ残し、ソファへ座っていた。壁際には閉じたギターケースがあり、テーブルの上には水のグラスとスマートフォンだけが置かれている。 送られてきたファイルには、仮題がそのまま残っていた。 待つ音。 凪は画面を見る。 「そのまま過ぎんだろ」 紫月へ送るほどでもなく、そのまま再生を押した。 最初に鳴ったのは、自分で弾いたギターだった。 五階で何度も聴いたはずなのに、一人の部屋で聴くと入り方が違う。 最初の和音は荒い。 月城玲士が向かいの席へ座り、隣へ来なかった頃の音だった。 その先は少し細くなり、追えば届くのに追わなかった時間だけが残っている。 凪はソファの背へ身体を預けた。 紫月が仕上げた音源には、余計な厚みがなかった。 二本目のギターもない。 ベースもない。 重ねるはずだった声も増えていない。 五階で削ったままの形が、そのまま残されている。 弦が触れる音のあとへ、相沢涼の声が入る。 声量は抑えられ、言葉を押さずに、ギターの隙間へ置かれていた。 凪は停止ボタンの近くまで指を動かしたが、そのまま手を離した。 相沢の声が、月城の仮詞を運んでくる。 ――君が迷った夜に まだ消えていない場所でいたい 凪はテーブルの水を取った。 飲まずに、グラスを持ったまま聴く。 月城の声ではない。 それでも、月城が書いた言葉だと分かる。 五階で語尾を削った手も、書き戻さなかった指も、凪の隣へ来ずに壁際へ置かれた資料鞄も、音の中では離れずに残っていた。 次の言葉が入る。 ――待つことが遠ざかることなら 相沢の声が切れる。 そのあとには、何も鳴らない場所が残った。 凪は水を一口飲んだ。 紫月はそこを埋めなかった。 ギターも戻らない。 声も足さない。 ただ、空いた時間だけが続く。 最後の行が来る。 ――君の音を聴けなかった そこへ、凪のギターが一音だけ戻った。 伸ばさず、飾らず、そのまま消える。 曲が終わった。 凪はグラスをテーブルへ置いた。 再生画面には、最後まで進んだバーと仮題だけが残っている。 待つ音。 しばらくそのまま見てから、月城とのトーク画面を開いた。 《聴いた》 送信する。 すぐには既読にならない。 凪はスマートフォンを伏せ、キッチンへ立った。 冷蔵庫を開ける。 卵、豆腐、野菜、白身魚。 以前、月城へ作ったものなら、そのまま作れるくらいには揃っている。 疲れている時に残さないものも、薄い味なら箸が進むことも知っていた。 何が好きなのかは、知らない。 スマートフォンが震えた。 冷蔵庫を閉め、画面を見る。 《怖かったかな》 凪は立ったまま返事を考えた。 怖いとは違う。 軽くもない。 《重い》 送る。 少し置いて、既読がついた。 《ごめん》 凪は眉を寄せた。 嫌だとは送っていない。 曲も止めなかった。 最後まで聴いた。 それなのに、月城は先に謝った。 《返していい?》 今度の返事には少し時間がかかった。 《聞こう》 凪は入力欄を開いた。 しばらく指を置いてから、短く打つ。 《明日、飯食いに来い》 送信した。 冷蔵庫の低い作動音が続いている。 月城から返事が来る。 《それは返事かな》 凪はすぐに打った。 《飯だろ》 送ってからも、画面は閉じなかった。 以前にも月城は、この部屋で凪の作ったものを食べている。 椅子の位置も、食器棚も、あの時から変わっていない。 返事を待たず、冷蔵庫を開けた。 食べさせるだけなら、今あるもので足りる。 閉じかけた扉を止めたところで、またスマートフォンが震えた。 《行ってもいいんだね》 凪は画面を見る。 《そう言ってんだろ》 既読がつく。 次の返事は来なかった。 凪は少し待ち、別の言葉を打つ。 《好きな食べ物は?》 今度はすぐに既読になった。 《急だね》 《いいから》 しばらくして返事が来る。 《ハンバーグ》 凪は画面を見たまま止まった。 もう一度読む。 《おじさんがハンバーグって》 《おじさんがハンバーグを好きではいけないかな?》 凪はスマートフォンを持ったまま、冷蔵庫の前で肩を揺らした。 《いけなくはねぇけど》 《けど?》 《思ったより子ども》 《失礼だね》 《褒めてる》 《褒めてはいないだろう》 凪は買い物メモを開いた。 合い挽き肉、玉ねぎ、パン粉、牛乳、つけ合わせの野菜。 最後へ赤ワインを足す。 一度消しかけて、やめた。 月城から新しいメッセージが届く。 《楽しみにしている》 凪は肉の量を一つ多く直した。 《期待すんな》 《期待してしまうと思う》 凪はスマートフォンをカウンターへ置いた。 テーブルでは、『待つ音』の再生画面が最後の位置で止まっている。 冷蔵庫には、月城のために買ったものはまだ何もない。 明日になれば揃える。 凪は買い物メモをもう一度開いた。 赤ワインの文字は消さず、そのまま画面を閉じた。

ともだちにシェアしよう!