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第55話 一階まで
五階のスタジオでは、同じ八小節を何度か聴き直していた。
紫月颯が再生を止め、卓の上に置かれた仮詞へ目を落とす。
「月城さん。ここ、もう一語削れます?」
月城玲士は紫月が示した最後の行を読み、ペンを取った。
迷わず一語へ線を引く。
「これで?」
「いいです」
紫月は新しいテイクを最後まで聴き、画面を閉じた。
「今日はここまで」
ブースから戻ってきた相沢涼が、卓の画面を覗く。
「だいぶ削ったね」
「削るために来たからな」
紫月が音源を保存する。
凪隼人は弦へ指を置いたまま、壁際を見た。
月城は仮詞をファイルへ戻している。作業が始まってから一度も腕時計を見なかったが、ファイルを閉じると、ようやく袖口へ手をやった。
「私は、そろそろ戻るよ」
「どこに」
「会社に」
凪はギターから手を離した。
「まだ仕事すんの」
月城の視線が腕時計へ落ちる。
「時計見るな」
顔が上がった。
「まだ何も言っていないよ」
「言う前に見た」
月城は時計から手を離した。
凪はギターをケースへ収め、クロスを挟んで蓋を閉じる。
「飯」
「え?」
「食ってから戻れ」
「遅くなるよ」
「食わない方が遅くなる」
月城はしばらく凪を見ていたが、何も返さずファイルを資料鞄へ入れた。
相沢がタブレットを確認する。
「一階、軽食ならまだ出せるよ。美智子さん、夜営業の仕込み中」
凪はケースを肩へ掛けた。
「行くぞ」
月城が小さく息を吐く。
「分かったよ」
そのやり取りを聞いていた紫月が、モニターから顔を上げた。
「月城さん」
「何かな」
「書く人が倒れたら困るんで、食ってください」
「君まで言うのかい」
「今の仮詞、直す人いなくなると困るんで」
「覚えておくよ」
「覚えるだけじゃ意味ないです」
凪が扉を開けた。
「ほら」
月城は資料鞄を持ち、先に廊下へ出た凪のあとを追った。
五階は静かだった。
厚い壁を挟んで収録や実験音場に使う部屋が並び、スタジオの扉が閉まると、さっきまで流れていた相沢の声も聞こえなくなる。
凪がエレベーターを呼ぶ。
月城はその隣ではなく、少し後ろに立った。
扉が開き、二人で乗り込む。
凪が一階のボタンを押すと、月城が表示を見上げた。
「五階から一階か」
「降りるんだから当たり前だろ」
「そういう意味ではなく」
凪は閉じていく扉を見る。
「五階は音の場所だろ」
月城が横を見る。
「一階は飯の場所」
「分かりやすいね」
「こういうのは分かりやすい方がいい」
数字が五から四へ変わる。
鏡面の壁には、凪の背負ったギターケースと、月城の資料鞄が並んで映っていた。
一階へ着くと、開いた扉からコーヒーと出汁の匂いが入ってきた。
カウンターの奥では夜営業へ向けた仕込みが進んでいる。鍋から湯気が上がり、窓際では菜々美が洗ったグラスを並べていた。表の札はまだ準備中のままだった。
美智子がカウンターの向こうから顔を上げる。
「お疲れさま。まだ食べてない?」
凪は月城を見る。
月城が答えるより先に言った。
「食べてない」
「正確には、昼食は」
「今の飯」
美智子は月城へ視線を移す。
「軽いものなら出せるよ」
「軽めでお願いします」
「軽すぎないやつ」
月城が資料鞄を椅子の脇へ置いた。
「私の注文は?」
「信用ない」
「そこまでかな」
「そこまで」
美智子は二人を見比べ、カウンターへ戻る。
「温かいスープと、ごはんにしましょうか。魚も少しつけるね」
「それで」
また凪が答えた。
月城は何も言わず向かいの席へ座り、水のグラスを取る。凪もギターケースを壁際へ置いて腰を下ろした。
「ここで食べるの、初めて?」
「打ち合わせで通ったことはあるよ」
「食ってないなら来たことにならねぇ」
「厳しい基準だ」
厨房では包丁がまな板へ触れ、カウンターでは氷の入ったグラスが重なる。
月城は店内をゆっくり見回した。
「こういうところへ降りてくるのは、久しぶりだな」
凪は水を飲む。
「これから降りてこいよ」
月城の手がグラスの上で止まった。
「心配してくれているのかな」
「飯の話」
「そういうことにしておくよ」
美智子が料理を運んできた。
湯気の立つスープと、小さめの茶碗に盛られたごはん。柔らかく煮た野菜と白身魚が添えられている。
月城は箸を取り、最初にスープを口へ運んだ。
椀を置く前に、もう一口飲む。
それを見てから、凪も自分の箸を取った。
「うまい?」
「おいしいよ」
「なら食え」
「食べている」
月城は魚を小さく崩し、ごはんへ乗せた。
箸の進みは遅いが、止まらない。
凪も自分の分を食べながら、ときどき向かいの皿を見る。
半分ほど減ったところで、月城の箸が器の縁へ触れた。
凪が顔を上げる。
「まだ」
「監視が厳しいね」
「食え」
「はい」
月城は箸を戻した。
凪もそれ以上は言わず、スープを飲む。
厨房では夜の仕込みが続いていた。美智子と菜々美の声が、ときどき鍋や食器の音へ混じる。
月城は残っていた野菜を食べ、魚へ戻った。
しばらくして、箸を動かしたまま口を開く。
「待つ音は」
「飯の時に音の話すんな」
月城の言葉が止まった。
「分かったよ」
凪はごはんを一口食べる。
月城もスープへ手を伸ばした。
それきり、二人とも食べる方へ戻った。
やがて月城の皿から魚がなくなり、野菜の器も空になる。
最後にスープを飲み切ると、箸を揃えて置いた。
「ごちそうさまでした」
凪は向かいの皿を見る。
何も残っていない。
「よし」
月城が水のグラスを持つ。
「合格かな」
「今日は」
「明日は?」
凪も自分のグラスを持ち上げた。
「飯は毎日あるだろ」
月城は返事をしなかった。
空になった皿の横で、腕時計には触れないままだった。
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