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第54話 削る曲
紫月颯は、相沢涼から渡されたヘッドホンを片耳だけに当てた。
前日に残した仮音源には、凪隼人のギターへ相沢の声が重なり、その途中へ月城玲士の数行が入っている。
最後の和音まで行く前に、紫月はヘッドホンを外した。
「五階行くぞ」
窓際のソファでギターを抱えていた凪が顔を上げる。
「今から?」
「今から」
「最後まで聴いてねぇじゃん」
「ここで聴く音じゃねぇ」
紫月はヘッドホンを相沢へ返した。
三階ではゲーム側も映像班も通常の作業を続けている。キーボードや確認音が重なる中で細いところまで拾うより、収録用の部屋へ上がった方が早い。
「上、空いてる?」
相沢がタブレットで確認する。
「小さい方なら」
「そこ」
凪はギターをケースへ戻した。
少し離れた共用テーブルには月城がいた。前日に書いた仮詞のコピーを見ていたが、凪たちが動き始めると紙を閉じる。
紫月がそちらへ顔を向けた。
「月城さんも来ますよね」
「もちろん」
「書いた人いないと削れないんで」
凪がケースを肩へ掛ける。
「削る前提かよ」
「聴いた感じはな」
紫月は先に歩き出した。
五階の廊下へ上がると、人の声が遠くなった。
収録や朗読、実験音場に使う部屋が厚い壁を挟んで並んでいる。相沢がその一室を開けると、ガラスの向こうに小さな録音ブースがあり、手前にはモニター卓と椅子、壁際には低いソファが置かれていた。
凪はケースを開き、ギターを取り出してソファへ腰を下ろす。
月城は入口に近い壁際へ立った。
紫月は卓の前へ座り、相沢から音源を受け取る。
「最初から」
今度は最後まで聴いた。
凪のギターは強く入り、途中から細くなる。その上へ相沢の声が重なり、月城の言葉へ入るところで、紫月の指が一度止まった。
二度目はトラックを分けて確認する。
ギター。
声。
月城の言葉。
それぞれを聞いたあと、紫月は再生を止め、卓の横に置かれた紙を取った。
「これ、月城さんが書いたんすか」
「そうだよ」
数行を読み、もう一度画面へ戻る。
「変わりすぎだろ」
月城は何も返さなかった。
凪がギターのネックへ手を置く。
「できんの?」
「できる」
「即答かよ」
「できるけど、普通にやったら壊れる」
紫月はギターと声の横へ空のトラックを一つ作った。
数秒見て、すぐに消した。
「これは足す曲じゃない」
月城の紙を卓へ置く。
「削る方だ」
凪の指が弦へ触れた。
音は鳴らない。
紫月は紙の最後を指した。
「月城さん。ここ、短くしていい?」
月城が卓へ近づく。
「どこを?」
「最後。ここまで言うと、言葉が勝つ」
月城は紙を引き寄せ、語尾を読み直した。ペンを取り、二つの言葉へ線を引く。
「これなら?」
紫月は声に出さず、指で音数を取った。
「こっち」
「分かった」
消した言葉は戻さない。
紫月も理由を足さず、相沢へ顔を向けた。
「ブース」
相沢が立ち上がる。
「どこまで落とす?」
「任せる。前に出なきゃいい」
「了解」
相沢がガラスの向こうへ入るのを見届けてから、紫月は凪へ向いた。
「最初のギター、そのまま」
「そのままって何だよ」
「昨日のまま」
「分かんねぇよ」
紫月は昨日の波形を指す。
「じゃあ、これ鳴らした時のまま」
「そんなの再現できるか」
「整えなきゃいい」
凪が顔をしかめたままギターを構えた。
録音が始まる。
最初の和音は、前日より少し丸かった。
紫月がすぐに手を上げる。
「違う」
「何が」
「整えんな」
「してねぇよ」
「してる」
凪は弦から手を離し、椅子の背へ身体を預けた。
「細けぇ」
「細いとこ見るために上来たんだろ」
録音位置が戻る。
二度目。
凪は最初の音を強く置いた。
その先は押さない。
相沢の声が重なり、月城が削った行では言葉の終わりだけが短く残った。
紫月は途中で止めず、最後まで聴いた。
「今の残して」
凪はギターを下ろさない。
「足す?」
「足さない」
「二本目は」
「いらねぇ」
「ベースは?」
紫月は画面を見たまま首を振った。
「まだ入れない」
凪がそちらを見る。
「紫月なのに?」
「俺が入ると今は重い」
ブースの中から相沢が聞く。
「声も?」
「増やさない。今のでいい」
紫月は月城の紙へ目を落とした。
「空いてるとこも埋めないでください。あとで足したくなっても、一回これ聴いてから」
月城は紙を見たまま頷いた。
「その時は君に聞くよ」
「それで」
凪は二人の間にある紙を見る。
月城はペンへ手を伸ばさなかった。
相沢がブースから戻ると、紫月は今のテイクを頭から流した。
言葉を削った分、何も鳴らない場所が長くなっている。
紫月は波形を追い、小さなノイズを一つだけ消した。そのすぐ隣にある相沢の息と、凪の指が弦を擦った音には触れない。
「そこ残すの」
凪が聞く。
「残す」
「ノイズだろ」
「お前が動いた音だろ」
「同じじゃん」
「違う。これはいる」
少し戻して、同じ場所を流す。
弦が触れ、相沢が息を吸い、そのあとへ月城の言葉が入った。
凪は最後まで聴いてから、ギターの胴へ腕を置いた。
「分かんねぇ」
「分からなくていい」
紫月は画面へマーカーを打つ。
「俺が分かってる」
凪が横を見る。
「プロっぽい」
紫月も振り返った。
「プロだよ」
「知ってる」
「なら最初から言え」
「今でいいだろ」
相沢が笑いながら空いた椅子へ座った。
その間に、月城が壁際から離れた。
紫月の手元が見えるところまで来る。
凪の隣には来ない。
「紫月くん」
「何すか」
「任せていいかな」
紫月は椅子を少し回した。
卓には、月城の仮詞が置かれている。消した二つの言葉には横線が残ったままだった。
「そのつもりで来てます」
「頼もしいね」
「今さらです」
凪がギター越しに言う。
「調子乗んな」
「乗るだろ。このメンツで作ってんぞ」
「まだ仮だろ」
「仮だから削れるんだよ」
相沢がブースの扉へ手を掛ける。
「もう一回?」
紫月は再生位置を戻した。
「もう一回」
「何変える?」
「何もしない」
凪が顔をしかめる。
「注文になってねぇ」
「お前は最初の音だけ置け。あとは追うな」
「相沢は?」
「さっきのでいい」
「月城さんは?」
紫月は卓の紙を見る。
「書き足さない」
月城が少し笑った。
「分かったよ」
相沢がブースへ戻り、凪もギターを構えた。
今度は紫月も何も言わない。
録音が始まる。
凪の最初の音。
少し遅れて入る相沢の声。
月城の言葉は短くなり、そのぶん厚い壁の中へ何も鳴らない場所が残る。
紫月は途中で止めなかった。
最後の音が消えてから、録音担当へ頷く。
「今の保存」
新しいテイクが画面へ加わった。
待つ音。
その下に、時刻と参加者の名前が並んでいく。
紫月は少しだけ画面を見て、再生位置を最初へ戻した。
「もう一回聴くぞ」
誰も反対しなかった。
凪はギターを膝に置いたまま、月城は卓の近くに立ったまま、相沢はブースを出て椅子へ戻る。
削ったあとの音が、厚い壁の中でもう一度流れ始めた。
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