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第53話 言葉になる

翌日の午後も、アトラボ三階では通常の仕事が続いていた。 ゲーム側では次のビルド確認が進み、林悠真が戻ってきた項目を一つずつ画面から消している。少し離れた机では、桧山絢斗が仕様書と実装側から上がった修正内容を見比べていた。 「ここ、表示順変えた?」 林が画面を見たまま聞く。 「変えた。前のままだと読み込み後に一回飛ぶ」 「じゃあ次のビルドで確認します」 「頼む」 映像班の机では、青山美咲が二枚の画面を見比べていた。 「こっち、全員がセンター取りに来てます。推しが渋滞してる」 隣のデザイナーが配置を少し動かす。 美咲は画面を見て、すぐに頷いた。 「はい。呼吸できました」 近くで相沢涼が笑う。 「画面が?」 「一回死んでたので」 プリンターが動き、キーボードの音が重なる。誰かが話していても、別の机ではそのまま仕事が続いていた。 窓際のソファで、凪隼人はギターを膝へ乗せていた。 モニターの端には、昨日残した仮ログが開いている。 待つ音。 名前だけ見れば、もう曲のようだった。 中身はまだ、凪のギターと相沢の声しかない。 一度だけ再生すると、低いギターの上へ、追わない声が重なる。最後の和音は終わりきらないまま細く残った。 「昨日より聴けるな」 相沢がモニターを見て言う。 「同じだろ」 「一日置いたから」 「音は変わってねぇ」 「聴く方は変わるよ」 凪は返さず、仮録音の最後へ一音だけ重ねた。昨日より少し短い。 相沢も同じ場所へ声を置く。 凪が一音抜けば、声もすぐに形を変えた。 その途中で、制作フロアの扉が開いた。 入口に立っていたのは月城玲士だった。 ネイビーのジャケットに薄い資料鞄。温泉へ行く前より、目の下に残っていた影は薄い。 「作業中に失礼するよ」 林が顔を上げる。 「どうぞ。こちらは通常運転です」 「見れば分かるよ」 桧山も資料から目を上げた。 「打ち合わせ?」 「いや。近くまで来たからね」 凪と視線が合う。 月城は少し離れた場所から軽く頷いた。 凪はそれを見て、またギターへ目を戻した。 相沢が仮ログを開く。 「これ、昨日できた」 月城がモニターを見る。 「曲?」 「まだ仮」 凪が答えた。 「名前だけついた」 「何て?」 「待つ音」 相沢が言うと、月城の視線が一度だけ凪へ向いた。 「勝手につけられた」 「仮だろ?」 「仮」 相沢が再生を押す。 凪の低いギターと、その上へ重なる声。最後は収まる直前で止まり、少しだけ残って切れる。 月城は凪を見ず、スピーカーへ身体を向けたまま最後まで聴いた。 再生が終わると、相沢が椅子を少し回す。 「ここ、言葉がいる」 凪が眉を寄せた。 「今いる?」 「いる」 「なくてもよくねぇ?」 「今は、ある方が聴きたい」 相沢が最後の部分をもう一度流す。 月城の手が、資料鞄の持ち手から離れた。 「少し時間をもらえるかな」 凪が顔を上げる。 「何すんの」 「置ける言葉があるかもしれない」 「歌詞?」 「まだ、そこまでは言えないよ」 月城は共用テーブルへ向かった。 空いていた紙へ手を伸ばすと、美咲が近くにあったペンを一本差し出す。 「どうぞ」 「ありがとう」 「消える前に書くの大事です」 「経験談かな」 「オタクは供給の取りこぼしに厳しいので」 「美咲」 桧山に呼ばれ、美咲はすぐに自分の画面へ戻った。 「はい、仕事戻ります」 月城は少し笑い、椅子には座らずテーブルへ片手をついた。 相沢が仮録音を頭から流す。 キーボードの音も、紙をめくる音も止まらない。 その中で、月城は一行書いた。 途中で二文字を消し、その下へもう一行を足す。最後までは書かず、ペンを止めた。 「もう一度、そこだけお願いできるかな」 「ここ?」 「もう少し前から」 ギターと声が流れる。 月城は最初の一行へ戻り、語尾を削った。 凪はギターのネックを握ったまま、その手元を見ていた。 「早くねぇ?」 月城は紙から顔を上げない。 「遅いくらいだよ」 「何が」 ペン先が止まった。 月城は書きかけた一行を見る。 「ずっと、ここに言葉がなかったからね」 凪の指が止まった。 月城はそれ以上説明しなかった。 相沢も聞き返さず、その一行へ声を重ねる。 一度目は音数が少し余った。 凪が最後の音を短くする。 もう一度。 今度は収まった。 「今の方がいい」 月城が言う。 「うん」 相沢は紙を自分の方へ寄せた。 書かれているのは数行だけだった。二行目には消した跡があり、最後の行は途中で空いている。 声を通すと、凪のギターが途中から入った。 一音だけ重い。 凪がそこを抜くと、声の下へ少し空間ができた。 月城は空いていた最後の行へ、短い言葉を書き足した。 記録担当が新しいテイクへマーカーを打つ。 「仮でいいなら、ここまでは置ける」 凪が紙を見る。 「全部じゃねぇの」 「今、全部書いたら音を狭くするだろう」 「分かってんじゃん」 「君の音は長く聴いているからね」 月城はペンを置いた。 共用テーブルとソファの間には、まだ数歩分の距離がある。 相沢がその間で、月城の言葉をもう一度歌う。 凪が短く音を返した。 窓際では美咲たちが画面を直し、林は次の確認項目を開く。桧山は修正済みの仕様書を閉じ、別の資料へ手を伸ばした。 音が生まれても、フロアは止まらない。 誰かの仕事の隙間へ、別の何かが増えていく。 記録担当が仮ログへ参加者名を追加した。 凪隼人。 相沢涼。 月城玲士。 凪はその画面を見たが、何も言わなかった。 相沢がもう一度、月城の言葉を歌う。 凪は最初の二音を変えた。 そのまま何度か合わせたあと、相沢が録音を止める。 「これ、Afterimageの方に入れる?」 凪は少し考えた。 「いいんじゃねぇの」 「Blue Hourとは全然違うけど」 「同じの集めるアルバムじゃねぇだろ」 相沢が頷く。 モニターには、すでにいくつか別の曲名が並んでいた。 生まれた場所も、声も、作り方も違う。 それでいい。 凪は画面からギターへ視線を戻した。 「いろんな音があっていい」 月城がテーブルの向こうから言う。 「いいものになりそうだ」 凪がそちらを見る。 「まだ数行だろ」 「数行でも始まっているよ」 「そういう言い方すんな」 「事実だよ」 「雨宮さんみたいなこと言うな」 月城の肩がわずかに揺れた。 凪もそれ以上は言わなかった。 相沢が月城の書いた言葉の終わりまで歌う。 そこへ凪が短い音を置いた。 「今の残して」 記録担当が操作する。 「残します」 凪は顔をしかめたが、止めなかった。 月城は共用テーブルを離れ、資料鞄を持ち上げた。 そのままソファへ来ることはなかった。 代わりに、凪のギターケースの横へ鞄を置く。 「邪魔なら移すよ」 凪はケースと鞄の間を見た。 「別に」 月城は少し離れた椅子へ座った。 まだ腕が触れる距離ではない。 相沢が仮録音を保存する。 モニターには昨日から残っている名前があり、その下へ新しいテイクと三人の名前が加わっていた。 待つ音。 凪は弦へ指を置く。 月城の言葉が入ったことで、昨日とは少し違って聞こえる。 同じ場所へ、もう一度音を置いた。 相沢が声を重ねる。 月城は椅子から動かず、その二つを聴いていた。 制作フロアでは、またキーボードの音が続いていた。

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