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第52話 待つ音
温泉から戻って、数日が経った。
昼過ぎ、凪隼人のスマートフォンへ写真が届いた。
白い皿に焼いた魚と小さなサラダ。半分ほど減ったスープ。
送り主は月城玲士だった。
『食べているよ』
凪は写真を拡大した。
魚は残っていない。スープも、もう少しで空になる。
『寝た?』
返事は少し遅れて届いた。
『三時間ほど』
凪は画面を見たまま眉を寄せる。
『少なすぎ』
『以前よりは改善している』
続けて、雨宮凛子からもメッセージが入った。
『改善傾向です』
凪は月城との画面を閉じ、雨宮へ返す。
『病院かよ』
『業務継続に関わる観察です』
『雨宮さんも大概だな』
『事実確認です』
前よりはましだった。
月城は食事の写真を送るようになった。遅くまで予定を入れた日は、雨宮から報告が来るより先に、自分で一言送ってくる。
連絡は途切れない。
食事にも行く。
話せば、いつもどおり返ってくる。
ただ、会った時の位置だけが少し変わった。
先日の移動でも、月城は凪の隣へ座らなかった。
凪の隣には資料鞄が置かれていた。
それを床へ下ろしても、月城は席を移らなかった。
拒まれているわけではない。
それでも、肩が触れる場所には来なかった。
アトラボ三階の制作フロアには、夏の午後の光が差し込んでいた。
ブラインドの隙間から伸びた明るい線が、床と机を斜めに分けている。窓際のペットボトルには水滴がつき、空調の風が紙の端を揺らしていた。
映像班のモニターには前日の素材が並び、記録担当が仮ログを整理している。
中央では林悠真が進行表を差し替え、少し離れた机では桧山絢斗がアトリリンクス本社側から届いた資料へ目を通していた。
凪は窓際のソファへ座り、ギターを膝へ乗せた。
弾くつもりはなかった。
それでも指が弦へ触れた。
最初の音は強く、少し角が立った。
同じ位置へもう一度指を置く。
今度も鋭い。
その先が続かなかった。
和音を押さえたまま、凪は手を止める。
「違う」
近くの音響スタッフが、片耳だけヘッドホンを外した。
凪はもう一度鳴らした。
今度は低い位置から入る。
近づくでもなく、離れていくでもない。
終わりそうなところで止まり、また同じ場所へ戻ってくる。
温泉宿の朝。
月城はスマートフォンと腕時計を部屋へ残して、大浴場へ出ていった。
「ちゃんと戻ってこいよ」
そう言えば、
「もちろん」
と返ってきた。
それだけだった。
凪は低い音を一つ置いた。
その上へ、後ろから声が重なる。
歌詞になる前の、母音だけの声だった。
相沢涼がモニターの前に座ったまま、凪の音へ乗っている。
凪が振り返る。
「何してんだよ」
相沢は短い旋律を最後まで置いてから声を切った。
「乗った」
「勝手に乗るな」
「乗れたから」
「意味分かんねぇ」
相沢は椅子を少し回した。
「もう一回」
「やらねぇ」
「今の、消えるよ」
「消えていい」
林悠真が進行表から顔を上げる。
「記録だけ回してください」
近くにいた録音担当が操作すると、モニターの端に新しい波形が現れた。
凪が顔をしかめる。
「勝手に録んな」
林は進行表を閉じた。
「消えたら戻らない種類です」
「決めんな」
「決めていません。残しているだけです」
凪は弦から指を離さなかった。
相沢が、もう一度短く声を出す。
さっきより低い。
上へ行きそうになって、行かない。
同じ位置へ戻る。
凪はそこへ細い音を足した。
最初の鋭さが少しずつ薄くなる。
相沢の声も追わない。
呼びつける音にはならなかった。
終わらないまま、最後の和音だけが残る。
凪が指を止める。
相沢も声を切った。
録音だけが数秒長く回っている。
林が音響担当を見る。
「そのまま残してください」
「はい」
凪はギターの胴へ手を置いた。
「消せよ」
桧山が資料から顔を上げる。
「技術的な削除理由はない」
「そういう話してねぇ」
「では残ります」
「お前ら、まとめて面倒くせぇ」
相沢が少し笑った。
「追わないんだ」
凪はそちらを見る。
「何が」
「今の音」
「知らねぇよ」
「でも消えない」
「うるせぇ」
相沢はモニターへ向き直り、今の録音を再生した。
凪の低い音。
その上へ重なった声。
終わりそうで終わらず、最後の和音だけが残る。
凪はギターのネックを握った。
月城は食事の写真を送ってくる。
連絡も切らない。
なのに、隣には来ない。
「タイトル」
相沢が言った。
「は?」
「仮ログ。名前ないと困るって」
林も画面を見たまま頷く。
「仮で構いません」
「知らねぇよ」
相沢が波形を見る。
「じゃあ、待つ音」
凪の指が止まった。
相沢は説明しない。
別の名前も浮かばなかった。
「……仮だろ」
「うん」
「仮だからな」
「分かった」
林が記録名を入力する。
仮。
待つ音。
凪は画面を見ないまま、ギターをケースへ戻した。
クロスを挟み、蓋を下ろす。
一つ目の留め具を閉じたところで、スマートフォンが震えた。
月城からだった。
さっきの写真に続いて、今度は空になった皿が送られている。
『完食しました』
凪はしばらく画面を見た。
それから短く打つ。
『食ったなら寝ろ』
すぐに既読がついた。
返事は来ない。
凪は二つ目の留め具を閉じた。
モニターには、まだ仮ログ名が残っている。
待つ音。
「最悪」
相沢が椅子の背へもたれた。
「いい音だったよ」
「うるせぇ」
凪はギターケースを肩へ掛ける。
月城からの返事は、まだ来ていなかった。
スマートフォンをポケットへ入れ、今度は見なかった。
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