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第51話 朝の距離
温泉宿の朝は、まだ色が薄かった。
山の稜線の向こうが少しずつ明るくなり、露天風呂の石縁を流れる湯が、ガラス越しに白く光っている。
夜のあいだ続いていた虫の声は減り、木々の奥から短い鳥の声が届いていた。
凪隼人はベッドの中で目を開けた。
見慣れない天井だった。
枕元の時計を見る。
普段ならまだ眠っている時間だったが、もう一度目を閉じる気にはならなかった。
右手を布団から出す。
昨夜、月城玲士の背中へ置いていた手だった。
指を一度曲げてから、隣のベッドを見る。
月城は横向きに眠っている。
枕元には、昨夜凪がキャップを緩めて置いた水があった。半分ほど減り、蓋は閉め直されている。
凪が身体を起こすと、布団が擦れた。
月城のまぶたが開く。
「……おはよう」
声が少し低かった。
凪は水を見る。
「飲んだんだ」
「喉が渇いてね」
「寝た?」
月城は時計へ目を向けた。
「少し」
「どれくらい」
「二時間ほど」
「だめじゃん」
「ゼロではない」
「比べるとこ、そこじゃねぇだろ」
月城が短く笑う。
そのまま身体を起こした。
浴衣の襟は少しずれ、髪もいつものようには整っていない。
腕時計は、昨夜置いた場所に残っていた。
月城はそれに触れず、凪を見る。
「昨日のことを、気にしている?」
凪は布団の端へ手を置いた。
「お前が気にしてんだろ」
「私は気にしているよ」
「じゃあ勝手にしろ」
「君は?」
窓の外で、湯が石の溝を流れている。
凪は少し黙った。
昨夜の月城の背中。
手の下でゆっくり長くなっていった呼吸。
暗くしたあとも、隣から聞こえていた音。
「分かんねぇ」
月城は何も言わなかった。
凪は布団から足を出す。
「でも、帰ろうとは思わなかった」
月城の視線が止まる。
凪は立ち上がった。
「朝飯行くぞ」
「今の話は終わりなのかい」
「朝飯食いながらでも困ってろ」
凪がカーテンを開けると、朝の光が部屋へ入った。
月城が目を細める。
「起きろよ」
「起きているよ」
「まだベッドじゃん」
「起床の途中だ」
「詭弁」
凪はそのまま洗面所へ向かった。
朝食は宿の個室に用意されていた。
焼き魚と卵焼き、煮物、冷たい豆腐。味噌汁から湯気が上がり、窓の外には朝露の残る木々が見える。
凪は座ると、向かいの膳を見る。
「食えそう?」
月城が箸を取った。
「朝から監視かな」
「食えるか聞いてる」
「食べられるよ」
月城は味噌汁を一口飲み、焼き魚へ箸を入れた。
凪も自分の茶碗を持つ。
「うま」
「よかったね」
昨日の夜より、月城の箸は少しだけ速かった。
凪はそれを見て、自分の魚へ戻る。
「何かな」
「食べてる」
「確認された」
「うん」
月城が少し笑う。
そのまま卵焼きへ箸を伸ばした。
しばらくすると、今度は向かいから視線を感じた。
凪が顔を上げる。
「何」
「いや」
「見てたじゃん」
月城は味噌汁の椀を持ち上げた。
「君を見ていただけだよ」
凪の箸が止まる。
「朝からやめろ」
「何を?」
「そういうの」
「見ていただけだけれど」
「分かってて言ってんだろ」
月城は椀の向こうで少し笑った。
凪は魚へ視線を戻す。
それ以上、月城も追わなかった。
食事が終わる頃には、二人の膳はほとんど空になっていた。
部屋へ戻ると、朝の光はさらに強くなっていた。
露天風呂の水面には、木の葉の影が揺れている。
凪はガラス戸を少し開けた。
湿った山の空気が入る。
後ろで籠が動く音がした。
振り返ると、月城が大浴場用の手提げ籠へタオルと着替えを入れている。
スマートフォンと腕時計は、枕元に置いたままだった。
「大浴場行くの」
「朝はこちらへ行こうかと思ってね」
「部屋にあんじゃん」
「知っているよ」
月城は籠の持ち手を取った。
凪はガラス戸から手を離す。
「一人で考え事すんの?」
「するかもしれないね」
「仕事?」
「それはしないよ」
凪は枕元を見る。
スマートフォンも腕時計も動いていない。
「ならいいけど」
月城は扉の前まで歩いた。
凪は少しだけ眉を寄せる。
「昨日、一緒だったから?」
月城の足が止まった。
すぐには振り返らない。
「それも、少しはあるかな」
「嫌だった?」
月城がこちらを見る。
「嫌ではないよ」
「じゃあ何」
月城は籠の持ち手を握り直した。
「嫌ではないから、一人で考えたいんだよ」
凪は黙った。
窓の外で鳥が鳴く。
月城はそれ以上説明しなかった。
凪も追わない。
しばらくして、月城が扉へ手を掛ける。
「行ってくるよ」
「玲士」
月城が振り返る。
「ちゃんと戻ってこいよ」
月城の目がわずかに細くなる。
「もちろん」
「仕事すんなよ」
「できないよ。置いてきたから」
凪は枕元に残ったスマートフォンを見る。
「ならいい」
「行ってきます」
「行ってこい」
扉が静かに閉じた。
部屋には、朝の光と湯の流れる音が残った。
凪はしばらく扉を見ていた。
それから露天風呂のガラス戸を開ける。
山の朝はもう明るかった。
葉の上に残った水が光り、夜より近く湯の音が聞こえる。
凪は石の縁へ手を置いた。
一人で入るには、少し広い風呂だった。
湯へ足を入れ、ゆっくり身体を沈める。
向かい側には誰もいない。
昨夜、月城が座っていた場所へ、水面の揺れだけが届いていく。
凪は石縁へ背を預けた。
「……めんどくせぇ」
声は湯の音へ混じった。
目を閉じようとして、やめる。
山の朝の音を聞きながら、凪はそのまま湯の中にいた。
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