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第50話 胸が苦しい
温泉宿の部屋には、湯上がりの湿り気がまだ薄く残っていた。
露天風呂へ続くガラス戸は閉じられ、窓の向こうには山の暗さが広がっている。木々の間から虫の声が届き、石縁を流れる湯の音が途切れずに続いていた。
凪隼人はベッドの上であぐらをかき、濡れた髪をタオルで拭いていた。
低いテーブルには、水が二本置かれている。
自分の分は半分まで減っていた。
月城玲士の側へ寄せておいた一本は、まだ開けられていない。
月城はもう一つのベッドへ腰掛けていた。
浴衣の袖を一度だけ折り、外した腕時計を枕元へ置く。スマートフォンも、その隣へ伏せてあった。
ネクタイもジャケットもない。
仕事の道具が何もない場所で見ると、いつものスーツ姿より肩の線が近く見えた。
凪は髪を拭き終え、タオルを椅子の背へ掛けた。
「寝ろよ」
月城は枕元の時計を見る。
「努力している」
「努力するもんじゃねぇだろ」
「君は眠れそうなのかい」
「たぶん」
「羨ましいね」
凪は向かいのベッドを見る。
月城は腰掛けたまま、横になろうとしない。両手を膝へ置き、背中だけが真っすぐ残っている。
「寝れねぇの?」
「少しね」
「背中、固いんじゃねぇの」
月城が肩を動かした。
「そうかもしれない」
凪はベッドから足を下ろした。
「押してやる」
月城の手が止まる。
「何を?」
「背中」
「いや」
「何その反応」
「君は湯上がりに、ずいぶん急だね」
「マッサージだよ」
凪は立ち上がり、二つのベッドの間を歩いた。
月城はそのまま動かない。
「うつ伏せ」
「待ってほしい」
「待たない」
凪は月城の前まで来たが、まだ手は出さなかった。
「嫌ならやめる」
月城が顔を上げる。
窓の外で虫の声が一度強くなった。
低いテーブルでは、水滴が木の天板へ小さな輪を作っている。
月城は息を吐いた。
「嫌ではないよ」
「じゃあ、うつ伏せ」
「君は本当に順番が早い」
「早く寝ろ」
月城は浴衣の裾を整え、ベッドへ横になった。
枕を腕の下へ引き、顔を横へ向ける。
凪はベッドの端へ座り、肩へ手を置いた。
触れた途端、月城の身体に力が入る。
「固まんな」
「難しいことを言うね」
「力抜け」
「努力する」
「また努力かよ」
凪は肩甲骨の間をゆっくり押した。
月城の呼吸が一度止まり、すぐに力を弱める。
「痛い?」
「いや」
「じゃあ何」
「効いている」
「ならいい」
凪は肩から背中へ手の位置をずらしていった。
どこへ触れても固い。
呼吸が止まれば弱め、吐く息が長くなれば少し深く押す。
「玲士」
「うん」
「ここ、やばい」
「自覚はあるよ」
「知ってて放置すんな」
「自分では届かない」
「店行けよ」
「時間がなくてね」
凪は背中へ手を置いたまま鼻で笑った。
「温泉来る時間もなかったもんな」
「今は来ているよ」
「雨宮さんと俺のおかげだろ」
「そのとおりだね」
月城の声が、枕へ少し沈んだ。
凪は手の力を弱める。
最初は上がっていた肩が、少しずつベッドへ落ちていった。
「寝そう?」
少しして、低い声が返ってくる。
「寝そうだね」
「そのまま寝ろ」
「そうするよ」
凪はもう一度、肩甲骨のあたりへ手を戻した。
部屋の灯りは、ベッド脇の小さなものだけになっている。
窓へ映る二人の輪郭も薄かった。
湯の音。
虫の声。
月城の呼吸。
凪はそれを聞きながら、ゆっくり手を動かした。
しばらくすると返事がなくなった。
凪が手を止める。
月城が短く息を吸った。
「どうした」
すぐには返事がない。
凪は肩へ手を置いたまま待った。
「だめだね」
「痛い?」
「痛みではないよ」
「気持ち悪い?」
「それも違う」
月城は顔を枕へ向けたまま、ゆっくり息を吐いた。
「胸が、苦しい」
凪の手が止まった。
「病院行く?」
月城の肩がわずかに動いた。
「そういう意味ではないよ」
「じゃあ何」
月城は答えなかった。
凪は背中へ置いた手の下で、呼吸を確かめる。
速すぎるわけではない。
「ほんとに痛くねぇの」
「痛くはない」
「息は」
「できているよ」
「ならいいけど」
凪は手を離し、ベッドの端へ座り直した。
月城は横になったまま、目を閉じている。
眠ろうとしているようには見えなかった。
「じゃあ、今日は寝なくていい」
月城が目を開ける。
「いいのかい」
「寝ようとして寝れないの、だるいだろ」
「急に優しいね」
「うるさい」
凪は低いテーブルから、まだ開いていなかった水を取った。
キャップを緩め、月城の枕元へ置く。
「でも横になってろ」
「命令が増えたね」
「胸、苦しいんだろ」
「だから、そういう意味では」
「意味とか知らねぇよ」
凪はもう一度、月城の背中へ手を置いた。
今度は押さない。
浴衣の上から、手のひらを置くだけだった。
「動いてるから、とりあえず死なない」
月城の呼吸に、短い笑いが混じった。
「確認ありがとう」
「おう」
「君は変なところで安心させるね」
「変じゃねぇだろ」
凪は手を置いたまま、窓の方を見る。
暗いガラスには、ベッド脇の灯りだけが映っていた。
「寝れそうなら寝ろ」
「眠れなかったら?」
凪はすぐには答えなかった。
手の下で、月城の背中がゆっくり上下している。
「起きてる」
月城は何も言わなかった。
凪も続けない。
ガラス戸の向こうで、湯の流れる音が同じ速さを保っていた。
しばらくすると、月城の呼吸がまた少し長くなる。
凪は背中へ置いた手を動かさなかった。
自分のベッドに置いたスマートフォンが一度だけ光ったが、そちらへは目を向けない。
どれくらい経ったのか分からない頃、月城が低く言った。
「凪」
「何」
「もう大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「うん」
凪はすぐには手を離さなかった。
呼吸を二度聞いてから、ゆっくり持ち上げる。
月城は身体を起こさず、そのまま目を閉じていた。
凪は自分のベッドへ戻った。
枕元の灯りへ手を伸ばす。
「消すぞ」
「うん」
部屋が暗くなった。
二つのベッドの間には、キャップを緩めた水が一本残っている。
凪は仰向けになり、暗い天井を見た。
月城の呼吸は、まだ聞こえていた。
さっきより長く、静かになっている。
凪はもう、眠れとは言わなかった。
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