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第49話 風呂まで逃げんな

温泉宿へ着いた頃には、山の向こうまで暗くなっていた。 車窓には低い山影と、道沿いに離れて並ぶ宿の灯りが見える。東京のように高いところまで光ってはいない。暗い斜面と木々の間に、暖色の窓だけが浮かんでいた。 凪隼人は後部座席で、膝へ寄せたギターケースの持ち手を握り直した。 「ほんとに来たな」 隣で月城玲士が笑う。 「連れてこられた、という方が近いね」 「仕事入れようとしたからだろ」 「まだ根に持っているのかい」 「持つだろ」 タクシーは石と木を使った玄関前へ入り、静かに止まった。 月城が料金を支払う間に、凪はギターケースを肩へ掛ける。 外へ出ると、東京に残っていた熱はなかった。湿った山の空気に、土と木と水の匂いが混じっている。 凪はトランクからボストンバッグを受け取り、月城も旅行鞄を取った。 タクシーが道の先へ消えていく。 「ちゃんと遠いな」 「君が連れてきたんだよ」 「来て正解だろ」 「それは、まだこれからかな」 凪は先に玄関へ向かった。 「じゃあ確認しろよ」 「何を」 「休めるか」 宿の中は静かだった。 玄関で靴を預け、畳敷きの廊下を歩く。窓の外には軒下の灯りがあり、奥から湯の流れる音が聞こえてきた。 凪がそちらへ顔を向ける。 「水の音する」 「温泉だからね」 「分かってる」 「気になったのかい」 「聴いただけ」 案内された部屋には、低いベッドが二つと、小さな和室があった。 ガラス戸の向こうには露天風呂があり、外灯の下で薄い湯気がほどけている。 凪はギターケースとボストンバッグを壁際へ置いた。 「風呂ついてる」 月城も旅行鞄をベッド脇へ置き、そちらを見る。 「ついているね」 凪がすぐにガラス戸へ近づこうとすると、月城が時計を見た。 「その前に夕食らしいよ」 「飯?」 「もうすぐ来る」 凪は振り返った。 「じゃあ先に食う」 「即決だね」 「腹減ってんだろ」 月城は少しだけ笑った。 夕食は部屋へ運ばれてきた。 最初に季節の前菜と刺身が並び、少し遅れて焼き物と茶碗蒸しが届く。小さな鍋物にも火が入った。 凪は箸を取り、向かいの月城を見る。 「食えそう?」 「大丈夫だよ」 「無理すんな」 「昨日までとは随分違うね」 「食えないのに無理させても意味ねぇだろ」 月城は茶碗蒸しを一口食べ、少し間を置いて焼き魚へ箸を伸ばした。 凪はそれを確認して、自分の皿へ戻る。 月城の手は速くないが、止まらなかった。 「うまい?」 「おいしいよ」 「ならいい」 それ以上、凪は言わなかった。 食事が終わる頃には、月城の前に残った料理もほとんどなくなっていた。 凪は自分の茶碗を置く。 「食えてんじゃん」 「君が見ているからね」 「そういう言い方すんな」 月城が笑う。 「事実確認だよ」 「雨宮さんみたいに言うな」 食器が下げられると、部屋はまた静かになった。 少し休んだあと、凪が立ち上がる。 「風呂」 「今度こそ?」 「今度こそ」 月城も立ったが、そのまま部屋の隅にある大浴場用の籠へ手を伸ばした。 「どこ行くの」 「大浴場を見てこようかと」 「部屋にあんじゃん」 「せっかくの温泉宿だからね」 月城が籠へタオルを入れる。 凪はその手から籠を取り、畳へ戻した。 「何をするんだい」 「風呂でまで逃げんな」 「逃げてはいないよ」 「休みに来たのに、別行動すんの」 「大浴場へ行くだけだ」 「一人になって仕事のこと考えるだろ」 月城の返事が止まった。 凪は籠からタオルを二枚取り、一枚を月城へ渡す。 「部屋のでいい」 月城は受け取ったタオルを見る。 「君と一緒に?」 「他に誰かいんの」 「そうではなく」 そこで言葉が切れた。 「何」 月城はタオルの端を揃え直した。 「少し、落ち着かないだけだよ」 「風呂が?」 「君と入ることが」 凪は月城を見る。 「嫌なら別でいいけど」 自分のタオルを肩へ掛ける。 「考え事するために行くなら、だめ」 「随分、細かい条件だね」 「休みに来たんだろ」 「連れてこられたんだよ」 「なら連れてきたやつの言うこと聞け」 凪は先に浴衣を手に取った。 「俺、入る」 「どうぞ」 「あとで来いよ」 「考えておく」 「それが仕事考えるやつだろ」 月城は返さなかった。 湯は、肩まで沈むと少し熱く感じる程度だった。 凪は肩まで沈み、石の縁へ背を預ける。 頭上には雲の薄い夜空が広がり、山の風が木の葉を揺らしていた。 「玲士」 少し置いて、ガラス戸の向こうから声が届く。 「何かな」 「湯、熱くない」 「報告ありがとう」 「来いよ」 返事はない。 凪は湯口を見る。 「仕事すんなよ」 「していないよ」 「スマホ見てんだろ」 向こうが静かになる。 「置いてこい」 少しして、室内で硬いものを置く音がした。 ガラス戸が開く。 月城は浴衣姿で立っていた。 手にあるのはタオルだけだった。 「置いたよ」 「最初からそうしろ」 「君は本当に容赦がない」 月城は洗い場へ向かった。 やがて湯へ入ってきた月城は、凪から少し離れた石縁へ腰を下ろした。 水面が押され、二人の間を小さな波が渡る。 凪が横を見る。 「遠い」 「何が」 「位置」 「広く使えていいだろう」 凪は湯の中で足を伸ばした。 また水面が揺れ、月城の方へ波が届く。 「そこ好きなの」 「そういうことにしておこうか」 「ふうん」 凪はそれ以上言わなかった。 しばらく、湯の音と虫の声だけが続いた。 横では、月城の呼吸が少しずつ長くなっていく。 石縁へ置いた手も、いつの間にか開いていた。 「玲士」 「うん」 「気持ちいい?」 「気持ちいいよ」 「ならいい」 「随分簡単だね」 「何が」 「ここへ連れてきた理由が」 凪は湯口を見る。 「飯食って、寝て、風呂入れば、少し戻るだろ」 「何に」 「お前に」 月城は返さなかった。 風が抜け、湯から出した肩と湿った髪の先を動かす。 しばらくして月城が言った。 「仕事のことは考えていないよ」 凪は隣を見る。 「ならいい」 「確認しないのかい」 「嘘なら分かる」 月城が小さく笑った。 今度は途中で消えなかった。 「先出る」 凪が石縁へ手をつく。 「どうぞ」 「のぼせんなよ」 「君ほど長く入らないよ」 「じゃあ早く出ろよ」 凪はガラス戸を開けた。 部屋へ戻る前に振り返ると、月城は同じ位置にいた。 ただ、石縁へ預けた肩は、入ってきた時より少し低くなっている。 凪は戸を閉めた。 冷蔵庫から水を二本取り出し、低いテーブルへ置く。 一本は自分で開ける。 もう一本は、キャップを閉じたまま月城が座る側へ寄せた。 ガラス戸の向こうでは、湯の流れる音が続いている。 凪は濡れた髪を拭きながら、もう催促しなかった。

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