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第48話 逃げるな

雨宮凛子からメッセージが届いたのは、温泉へ向かう日の夕方だった。 アトラボ三階の窓際で、凪隼人はギターをケースへ戻していた。 足元には、着替えを詰めた黒いボストンバッグが置いてある。 クロスを挟み、留め具を一つ閉じたところで、ポケットの中が震えた。 『月城が逃げようとしています』 凪の手が止まる。 ケースの蓋は、まだ半分開いたままだった。 『何してる』 返信はすぐに届いた。 『本日十九時のオンライン会議を設定しようとしています』 凪は壁の時計を見る。 温泉へ向かうタクシーが来るまで、もう一時間もない。 『今日だろ』 『はい』 『仕事中毒かよ』 『症状は慢性です』 凪は鼻で笑い、残っていた留め具を閉じた。 『まだ送ってない?』 『未送信です』 『じゃあ止めといて』 少しして返ってくる。 『そのためにご連絡しました』 凪はギターケースを肩へ掛け、ボストンバッグを持ち上げた。 向かいのモニターで作業していた相沢涼が、椅子を回す。 「帰るの」 「迎え行く」 「玲士さん?」 凪はボストンバッグの持ち手を握り直した。 「仕事入れようとしてる」 相沢は画面へ戻りながら笑った。 「回収される側が抵抗してるんだ」 「何だよ、その言い方」 「合ってるでしょ」 凪は返さず、そのままエレベーターへ向かった。 扉の前まで来たところで、もう一通届く。 『月城は本社執務室です』 続いて写真が送られてきた。 机の端に開かれたノートパソコン。 画面には、途中まで入力された会議の件名が見える。その横には旅程表が置かれていた。 凪は画面を拡大した。 会議の招待だけは、ほとんど完成している。 扉が開き、凪はスマートフォンをポケットへ戻して乗り込んだ。 VERTEX MUSIC GROUP本社へ着いた頃にも、空にはまだ青さが残っていた。 ビルの間に挟まれた夕方の光が車寄せの床へ長く伸び、ガラス扉を抜けると冷房の風がシャツの背へ当たる。 凪はギターケースを肩へ掛け、反対の手にボストンバッグを持ったまま最上階へ上がった。 エレベーター前では、雨宮が待っていた。 いつものネイビーのスーツ姿で、手には薄いタブレットだけを持っている。 「お待ちしておりました」 「本人は」 「執務室です」 「まだやってんの」 「まだ送信はしておりません」 雨宮は廊下の奥へ歩き出した。 凪もその隣へ並ぶ。 「温泉、嫌いなわけじゃないだろ」 「嫌いではありません」 「じゃあ何」 雨宮は少し考え、正面へ視線を向けたまま答えた。 「今回は、休むことだけが理由ではないようです」 「何が」 「本人からお聞きください」 「便利に逃げたな」 「秘書の守秘範囲です」 月城の執務室が近づくと、その手前にある秘書用のデスクが見えた。 壁際には、小さな黒い旅行鞄が置かれている。 凪は足を止めた。 「準備してんじゃん」 「必要なものは入っております」 「本人、触った?」 「一度も」 「だろうな」 雨宮はタブレットを閉じた。 「移動用のタクシーも、一階の車寄せへ手配しております」 「完璧じゃん」 「こちらとしては」 「本人以外」 「はい」 凪は笑い、執務室の扉を見る。 「会議送ったら?」 「十九時から一時間です」 「温泉、遅れるじゃん」 「はい」 「止めろよ」 「私では、これ以上は」 「だから俺呼んだの」 「はい」 雨宮は迷いなく頷いた。 凪は扉を二度叩き、返事を待たずに開けた。 月城玲士は、窓を背にして机へ向かっていた。 ネクタイは昼より緩み、ジャケットは椅子の背へ掛けられている。 机の中央にはノートパソコンが開かれていた。 会議名、参加者、開始時刻。 必要な欄はほとんど埋まっている。 残っているのは送信だけだった。 月城が顔を上げる。 「早かったね」 凪はボストンバッグを壁際へ置き、その横へギターケースを下ろした。 「何してんの」 「少し確認を」 「会議作るのが?」 「急ぎの案件でね」 「温泉より」 「比べるものではないよ」 凪は机の前まで歩き、画面を見下ろした。 月城の指は、送信ボタンの近くに置かれている。 「送った?」 「まだだよ」 「じゃあいい」 「何がかな」 凪はパソコンの横にあったマウスを、自分の方へ少しずらした。 月城がその動きを見る。 「雨宮から聞いたのかい」 「通報された」 「通報」 「逃げようとしてるって」 月城は椅子へ身体を預けた。 「逃げてはいないよ」 「外に鞄あるけど」 月城の視線が扉へ向く。 「雨宮が?」 「昨日から準備してるって」 「随分、手際がいいね」 「誰の秘書だよ」 「私のはずなんだけれど」 扉の外から雨宮の声が届いた。 「月城専務。十八時以降の予定はございません」 月城は額へ指を当てる。 「聞こえているよ」 「確認です」 凪は机へ片手を置いた。 「閉じろよ」 「この一件だけ終わらせる」 「終わんねぇだろ」 「一時間だけだよ」 「一時間の次に、また何か来る」 月城は返さなかった。 窓の外では、隣のビルの灯りが一つずつ増えている。 凪は椅子の背に掛かったジャケットを見る。 廊下には旅行鞄。 一階にはタクシー。 自分の荷物も壁際に置いてある。 月城だけが、まだ机から動いていない。 「なんで行きたくねぇの」 「行きたくないとは言っていない」 「じゃあ立てよ」 月城はノートパソコンへ視線を戻した。 件名の末尾で、カーソルが点滅している。 しばらくして、月城が言った。 「仕事なら、戻る場所が分かる」 凪は何も言わず待った。 「終わる時間も、引く線も決められる」 月城の指が、送信ボタンから離れる。 「君といる方へ慣れるのが、少し怖い」 窓の外を、低い位置で飛ぶ飛行機の光が流れていった。 凪は月城を見る。 月城はまだ画面を見ていた。 「温泉行ったら、慣れんの」 「そういう問題ではないよ」 「じゃあ何」 「戻りたくなくなるかもしれない」 そこで月城が、ようやく凪へ顔を向けた。 凪もすぐには返さなかった。 机の端には、旅程表が置かれている。 宿の名前、出発時刻、翌日の予定。 二日目の午後だけが空いていた。 「逃げるな」 月城の眉がわずかに動く。 「危ないと言っているんだよ」 「知ってる」 「本当に?」 凪はノートパソコンの蓋へ手を置いた。 「怖かったら、飯作んねぇよ」 月城は動かなかった。 凪はそのまま画面を閉じる。 途中まで作られた会議招待が画面から消え、机の上には月城の手だけが残った。 「今は閉じろ」 空調の低い音が部屋へ戻る。 凪は椅子の背からジャケットを取り、垂れていた袖を直して月城の前へ差し出した。 「行くぞ」 月城はジャケットを見る。 「君は怖くないのかい」 「何が」 「私が、君に近づくこと」 凪は腕を下げなかった。 「怖かったら、ここまで迎え来ねぇよ」 月城はしばらく黙ったあと、ジャケットを受け取った。 袖へ腕を通す。 ボタンは留めず、ネクタイも締め直さない。 凪は机の上のスマートフォンと財布をまとめ、月城の方へ押した。 「忘れんな」 「世話が細かいね」 「お前が逃げるからだろ」 月城はスマートフォンをポケットへ入れた。 「努力はした」 「するな」 月城が立ち上がる。 椅子が机から離れ、床の上を短く滑った。 その音を聞いてから、凪は壁際へ戻った。 ギターケースを肩へ掛け、ボストンバッグを持つ。 扉を開けると、雨宮は秘書用のデスクで資料を整理していた。 その脇には、月城の旅行鞄が置かれたままだ。 月城がそちらを見る。 「用意が早いね」 「昨日の時点で整えております」 「逃げると思っていたのかい」 「可能性は高いと判断しておりました」 凪が旅行鞄の持ち手へ手を伸ばす。 「俺持つ」 雨宮が凪の肩と手元を見る。 「凪さんは、すでに二つございます」 凪も自分の荷物を見た。 肩にはギターケース。手にはボストンバッグ。 「……そうだった」 月城が二人の間から手を伸ばす。 「自分で持つよ」 雨宮が旅行鞄の持ち手を月城へ渡した。 月城は鞄を引き、凪はその横へ並ぶ。 「タクシー、下?」 「はい。一階の車寄せで待機しております」 「もう来てんの」 「予定時刻どおりです」 月城が歩きながら言った。 「君はすぐ人を味方につけるね」 「仕事できる人が多いんだろ、お前の周り」 「私だけが問題みたいだ」 「そうだよ」 後ろから雨宮の声が入る。 「事実確認です」 月城は何も返さなかった。 エレベーターの扉が開いた。 月城は旅行鞄を引いて中へ入り、凪はボストンバッグを足元へ置く。 ギターケースは肩へ掛けたまま、その隣へ立った。 雨宮は廊下に残る。 「いってらっしゃいませ」 扉が閉じる直前、一礼した。 月城が小さく息を吐く。 「完全に追い出されたね」 「休みに行くんだろ」 「そうだった」 階数表示の数字が一つずつ下がっていく。 一階へ着くまで、月城はもう仕事の話をしなかった。 エレベーターを降り、ロビーを抜ける。 外へ出ると、夏の夕方はまだ明るかった。 ビルの間に青さの残る空の下で、予約していたタクシーが車寄せに停まっている。 運転手がトランクを開けた。 月城の旅行鞄と凪のボストンバッグを預け、凪はギターケースだけを手元へ残した。 後部座席のドアが開く。 凪が先に乗り込み、月城もその隣へ座る。 ドアが閉まると、VERTEXのロビーの灯りが窓の向こうへ切り替わった。 タクシーはゆっくり車寄せを離れ、夕方の東京へ出ていった。

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