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第47話 食べてから言え
月城の住むマンションは、表通りから少し離れた場所に建っていた。
地下駐車場からエレベーターホールへ入ると、外に残っていた夏の熱が急に途切れる。磨かれた床へ照明が落ち、凪隼人が提げた買い物袋の中で豆腐の容器がわずかに傾いた。
ギターケースを肩へ掛けたまま、凪は入口を見回す。
「やっぱ金の匂いする」
月城玲士が鍵を取り出した。
「建物に罪はないよ」
「あるだろ。高そうな顔してる」
「建物の顔とは」
「あるだろ」
月城は返さず、先にセキュリティゲートを通った。
エレベーターの鏡に二人の姿が並ぶ。
凪の肩にはギターケース、手にはスーパーの袋。月城はネクタイを緩めたまま立っている。
階数表示が一つずつ上がった。
「眠い?」
「少し」
「少しじゃねぇだろ」
「君は今日、そればかりだね」
「顔に出てる」
「困ったな」
「困れ」
扉が開く。
月城は廊下へ出たが、歩き出すまでに少し間があった。
凪は追い越さず、買い物袋を持ち直した。
玄関が開くと、留守の間に冷え切らなかった空気が残っていた。
月城が壁際の操作パネルへ触れ、低い空調音が動き始める。
大きな窓、本棚、レコード、オーディオ機材、低いソファ。少し離れてダイニングテーブルがあり、その先にキッチンが続いている。広いのに、物の位置はほとんど乱れていない。
凪は靴を脱ぎ、ギターケースを壁際へ置いた。
「ちゃんとしてんな」
「その言い方、この前も聞いた気がする」
「言いたくなる部屋なんだよ」
「褒め言葉として受け取るよ」
「褒めてねぇ」
買い物袋をキッチンカウンターへ置き、冷えた豆腐と白身魚を取り出す。
そのまま冷蔵庫を開けた。
水と炭酸水、チーズ、ゼリー飲料。卵は残っていたが、賞味期限が近い。
凪はしばらく中を見た。
月城が後ろから言う。
「最低限はあるだろう」
凪は冷蔵庫を閉めた。
「最低限の意味が違う」
「そうかな」
「飯がない」
「卵が」
「卵に謝れ」
月城が短く笑った。
凪は手を洗い、棚から鍋を出した。
使う位置は、前に来た時に覚えている。
米を鍋へ入れて出汁を張り、豆腐を切る。味噌汁用の鍋へ火を入れ、白身魚は水気を取ってから薄く塩を振った。
「座ってろ」
「手伝おうか」
「邪魔」
「即答だね」
「座れ」
月城は何も言わず、ソファへ向かった。
背もたれへ身体を預けると、そのまま動かなかった。
凪は鍋の火を弱める。
卵粥に、豆腐の味噌汁。白身魚は軽く焼き、大根おろしを添える。小松菜も薄く味をつけた。
買ってきたものを全部使う必要はない。
食べられる量だけあればよかった。
湯気が冷房の風に押され、部屋へ流れていく。
ソファの月城が、その匂いの方へ顔を向けた。
「いい匂いがするね」
凪は魚を返す。
「食欲なくても食えるのにしてる」
「お世話になります」
「おじさん、世話かかりすぎ」
月城の笑いが途切れる前に、凪は火を止めた。
粥を茶碗へよそい、味噌汁を注ぐ。魚へ大根おろしを添え、小松菜を小鉢へ移した。
一つずつテーブルへ運ぶと、月城もソファから立った。
「座ってろって言っただろ」
「食卓までは行けるよ」
「当たり前だ」
月城は椅子へ座り、箸を取る前に並んだ皿を見た。
「食えそうな分だけでいい」
「残さず食べると言ったよ」
「無理して残さないのは違う」
月城の指が箸の上で止まる。
凪は向かいへ座り、水のグラスを引き寄せた。
月城は卵粥を一口食べた。
ゆっくり飲み込み、味噌汁へ手を伸ばす。
白身魚を崩し、また粥へ戻る。
速くはないが、箸は止まらなかった。
凪は水を飲みながら見ている。
「見張られている」
「見てる」
「今日はよく見られる日だ」
「食うまで見る」
月城はもう一口粥を食べた。
椀がテーブルへ戻り、魚の皿から少しずつ身がなくなっていく。
凪は何も言わなかった。
「おいしい」
月城が低く言う。
「知ってる」
「自信家だ」
「でも食えてるだろ」
「そうだね」
「ならいい」
月城は箸を動かしたまま答えた。
「君の作るものだからだよ」
凪は水のグラスを置く。
「そういう言い方すんな」
「事実確認だ」
「雨宮さんみたいなこと言うな」
月城の肩が少し揺れた。
凪は味噌汁の椀を月城の方へ押す。
「飲め」
「命令が多い」
「飲め」
「はい」
月城は椀を持ち上げた。
半分ほど飲み、また粥へ戻る。
最後に残っていた魚を食べ、茶碗の底へ箸を滑らせた。
本当に残さなかった。
凪は空になった茶碗を見て、水を飲み切った。
「食えんじゃねぇか」
「君が作ったから」
「だから、それやめろって」
「なぜ」
「調子狂う」
月城は返事の代わりに、箸を揃えて置いた。
その位置が少しだけずれている。
凪は立ち上がり、食器を重ねた。
「玲士」
「うん」
「もう寝ろ」
「片づけを」
「寝落ちされる方が邪魔」
「ひどいね」
「事実確認」
月城は立ちかけた身体を戻し、ソファへ向かった。
凪は食器を流しへ運ぶ。
水を出し、茶碗を洗い、椀をすすぐ。魚の皿に残った大根おろしも流した。
水音と食器の触れる音だけが、部屋に続く。
ソファの方から返事はなかった。
凪は茶碗をすすぎながら視線を上げた。
月城は背もたれへ身体を預け、ネクタイを緩めたまま目を閉じていた。
眠ってはいないらしい。
凪は蛇口を止めた。
「温泉行くぞ」
月城が目を開ける。
「急だね」
「少しは休め」
「仕事がある」
凪は手を拭き、カウンターに置いたスマートフォンを取った。
連絡先から雨宮凛子を開く。
月城が身体を起こす。
「何をしているんだい」
「雨宮さんに聞く」
「私の予定を?」
「お前に聞くと仕事入ってるしか言わねぇだろ」
「夜に秘書へ連絡するのは感心しない」
凪は文字を打つ。
「仕事で夜まで使ってるやつが言うな」
月城は返さなかった。
凪はそのまま送信する。
『玲士、疲れてる。
温泉連れてく。
空けられる日ある?』
「内容が直球すぎる」
「分かりやすいだろ」
返信はすぐに来た。
『承知しました。
必要だと思っておりました』
凪は画面を月城へ向ける。
「ほら」
月城は額へ手を当てた。
「……雨宮」
もう一通届く。
『候補日を三つ出します。
月城が逃げた場合はご連絡ください』
凪はスマートフォンを持ったまま笑った。
「やっぱ仕事できるな、雨宮さん」
「私の秘書だよね」
「味方だな」
「誰の」
「俺の」
続いて三つの日付が届いた。
どれも二泊できそうな日程で、前後の予定も動かせるようになっている。
月城はソファから画面を見た。
「温泉か」
「嫌い?」
「嫌いではないよ」
「じゃあ決まり」
「私の意思は」
凪はスマートフォンをテーブルへ置き、濡れた布巾で食卓を拭いた。
空になった茶碗の跡を消し、グラスを流しへ運ぶ。
「食って寝てから言え」
月城はネクタイへ触れたが、結び直さなかった。
「君は本当に、人の予定を壊すね」
凪は布巾をすすぎ、強く絞った。
「壊してねぇよ」
シンクの端へ広げる。
「戻してるだけだろ」
月城は何も言わなかった。
ソファへ深く身体を預け、背もたれの上へ頭を置く。
凪は洗い終えた茶碗を水切り籠へ伏せた。
テーブルの上には、雨宮から届いた三つの日付が並んでいる。
味噌汁の匂いが薄く残る部屋で、月城の呼吸が少しずつ長くなっていった。
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