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第46話 少しは休め
VERTEX MUSIC GROUP本社を出ても、東京の空にはまだ明るさが残っていた。
車寄せへ出ると、ビルの間に溜まっていた熱が、行き交うスーツ姿の人波と一緒に流れてくる。
凪隼人はキャップのつばを少し上げ、ギターケースを肩へ掛け直した。
ほどなく、黒いセダンが車寄せへ入ってきた。
凪は車体を見てから、隣の月城玲士へ顔を向けた。
「雨宮さんか」
月城は緩めたネクタイへ指を掛けた。
「おそらくね」
「仕事できすぎだろ」
「私の秘書だからね」
「今日は俺の味方だろ」
月城は後部座席へ目をやった。
「そうらしい」
運転手が降り、二人の前でドアを開ける。
凪はギターケースを先に足元へ入れ、月城の隣へ乗り込んだ。
ドアが閉じると外の熱が切れ、低い空調音と革の匂いが残った。
車は静かに走り出す。
窓の外では、まだ白さの残る空の下を夕方の街が流れていた。ビルのガラスだけが、少しずつ夜の色へ変わり始めている。
月城は窓側へ身体を向けていた。
ネクタイはすでに緩んでいるのに、指が何度か結び目へ戻る。
凪はその手を見る。
「玲士」
「うん」
返事が少し遅れた。
「外で食える顔してねぇ」
月城がこちらを見る。
「ずいぶん急だね」
「さっきから見えてる」
「何が」
「疲れてる」
「会議明けだからね」
「それだけじゃねぇだろ」
月城はネクタイから手を離し、窓へ視線を戻した。
凪は前を見る。
「店、やめる」
「予約はしていないけれど、静かなところを考えていたよ」
「行かない」
「では、どうするんだい」
凪は足元のギターケースを膝で押し、倒れない位置へ戻した。
「お前ん家行く」
月城が振り向く。
「私の家?」
「飯作る」
「今からかい」
「今から」
「君の部屋ではなく?」
「食ったら眠くなるだろ」
凪は窓の外を見たまま続けた。
「そのまま寝ろよ」
月城はしばらく答えなかった。
車が信号で止まり、西日が窓へ差し込む。ガラスには二人の姿が薄く重なっていた。
「それは、ずいぶん近い提案だね」
「近いとか遠いとか、今いいだろ」
「よくはないと思うけれど」
「食えてねぇ顔してる」
月城は座席へ少し深く身体を預けた。
凪はその動きを見て、運転席へ声を掛ける。
「すみません」
「はい」
「目的地、変えてください」
月城が隣を見る。
「君が言うのかい」
「言う」
運転席から、短い間があった。
「月城様のご自宅でよろしいでしょうか」
凪が月城を見る。
「だろ」
月城は息を吐いた。
「はい。お願いします」
「承知しました」
「途中でスーパー寄ってください」
「承知しました」
信号が変わり、車は直進車線からゆっくり右へ寄った。
凪はシートへ背を戻す。
「いつから」
「何が」
「食えてないの」
「食べていないわけではないよ」
「じゃあ、何食った」
月城はすぐに答えなかった。
それで足りた。
「昼に、会議の合間で」
「何」
「コーヒー」
凪が顔をしかめる。
「それ飯じゃねぇだろ」
「そうだね」
「そうだねじゃねぇよ」
月城は声を立てずに笑ったが、そのまま座席へ身体を預けていた。
凪は前方のナビ画面を見る。
予定されていた店の表示が消え、代わりに住宅街の住所が出ている。
「雨宮と何を話していたんだい」
「いろいろ。連絡先も交換した」
月城の指が膝の上で止まった。
「いつの間に」
「待ってる間」
「私の秘書が、すでに君の味方になっている」
「仕事できるからな」
「そこは理由になるのかな」
「なるだろ」
月城は窓へ顔を向けた。
流れていく街の灯りが、ガラス越しにスーツの肩へ重なる。
凪はギターケースの持ち手を足元へ押し込んだ。
「君は本当に遠慮がないね」
「食えてねぇ顔で店行く方が無駄だろ」
「無駄ではないよ」
「食えないなら無駄」
「手厳しい」
「飯に失礼」
月城はネクタイをもう一段緩めた。
「確かに、それは君らしい」
「俺じゃなくてもそうだろ」
「そうかな」
「食べ物残すの嫌いなんだよ」
「覚えておく」
声が少し低かった。
凪は隣を見る。
「仕事だけじゃねぇだろ」
月城もこちらを向いた。
「何が」
「食えてない理由」
窓の外を、高架の電車が一瞬だけ横切った。
灯りの並びが窓へ映り、すぐ後ろへ消えていく。
月城はそれを見送った。
「君との距離を、どう扱うべきか考えていた」
凪は黙った。
月城の指が膝の上で重なる。
「仕事として近いのか。個人的に近いのか。どちらかに分けた方が、たぶん安全なんだろうね」
「何に」
「君の音にも、私の立場にも」
凪は月城の顔ではなく、その手を見た。
月城の指が、膝の上で少し強く組まれていた。
普段より力が入っているように見えた。
「飯食えなくなるくらいなら、考えんな」
月城が顔を上げた。
「そこかい」
「そこだろ」
「今の話、それなりに重要だったと思うけれど」
「重要でも、食えてねぇじゃん」
月城は重ねていた手をほどいた。
「君は本当に乱暴だね」
「飯食ってから考えろよ」
「順番の問題かい」
「そうだろ」
凪は前を向いた。
車は大通りを離れ、店の明かりが並ぶ通りへ入る。少し先にスーパーの看板が見えていた。
「俺の飯なら食えんのか」
月城が隣で動く。
「何が」
「そういう面倒くさいこと考えながらでも、俺の飯なら食えんのかって聞いてる」
月城はしばらく凪を見た。
車が速度を落とす。
「君の作るものなら、残さず食べる」
凪は前方の看板を見たまま頷いた。
「じゃあ決まり」
「私の意思は?」
「食ってから言え」
月城は座席へ背を預けた。
「分かったよ」
車はスーパーの地下駐車場へ入っていく。
外の熱が切れ、低い天井の下へ車体が滑り込んだ。
凪は足元のギターケースを持ち上げ、自分の膝へ引き寄せる。
「何作るんだい」
「まだ決めてねぇ」
「買い物をしながら?」
「顔見て決める」
「私の?」
「他に誰がいるんだよ」
月城は何も返さなかった。
車が駐車位置へ収まり、エンジン音が止まる。
凪は先にドアへ手を掛けた。
「少しは休め」
月城は緩めたネクタイのまま、その後ろから車を降りた。
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