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第45話 待ち時間
東京の午後は、予定どおりに進んでいるようで、少しずつ後ろへずれていた。
Fluctuation Crossの処理とBlue Hourの海外展開が重なってから、月城玲士の予定にはほとんど余白がない。
VERTEX MUSIC GROUP本社の最上階で、凪隼人は受付前の壁へ背を預けた。
スマートフォンを見る。
三分前に確認した時刻から、たいして進んでいない。
凪はキャップのつばを少し上げた。足元では、立てかけたギターケースが冷房の風を受けている。
受付スタッフが姿勢を崩さずに言った。
「月城はただいま会議中です」
「知ってる」
「あと四十分ほどかと」
「長ぇ」
奥の廊下から、ネイビーのスーツを着た女性が歩いてきた。
資料を抱えたまま、足取りは一定だった。
雨宮凛子。
「凪様」
「様やめろって」
「では、凪さん」
「まあいいや」
雨宮は凪の足元にあるギターケースを一度見た。
「月城より、こちらでお待たせしないようにとのことです」
「本人来れば早いだろ」
「そのとおりですが、現状それが不可能です」
凪はスマートフォンをポケットへ戻した。
「会議って何時間やってんだよ」
「本日は午前から三件目です」
「死ぬだろ」
「死なない程度で止めております」
凪は壁から背を離した。
「雨宮さん、たまにひでぇな」
「事実確認です」
雨宮が廊下の奥へ向き、凪もギターケースを持ってその後ろを歩いた。
月城の執務室は、広さのわりに物が少なかった。
大きな窓の向こうには午後の光を返すビルが並び、低いソファと壁一面の本棚、整えられた机がある。
壁際にはオーディオ機材も置かれていた。
凪はギターケースをソファの脇へ下ろす。
「相変わらずちゃんとしてんな」
「月城ですので」
「説明になってねぇ」
雨宮がテーブルへ水を置いた。グラスの外側に、すぐ細かな水滴が浮く。
「コーヒーもございます」
「烏龍茶」
「把握しております」
雨宮が冷蔵庫からボトルを取り出す。
すでに別のグラスも用意されていた。
凪はキャップを外し、ソファの端へ置く。
「こえぇ」
「職務です」
最初の数分は、何もせずに待った。
窓の外を見て、スマートフォンを開き、閉じる。
足を組んでは戻し、ソファの脇に置いたギターケースへ目をやる。
雨宮は少し離れた席でタブレットを操作していた。
画面を切り替える指だけが、同じ速さで動いている。
凪は天井を見た。
「暇」
「存じております」
「弾いていい?」
雨宮の指が止まった。
「ギターですか」
「他に何弾くんだよ」
「確認です」
雨宮は壁際の吸音パネルへ目を向けた。
「防音施工済みですので、問題ありません」
「何その会社」
「月城の判断です」
「仕事できるな、おじさん」
凪はケースの留め具を外した。
ギターを取り出し、ソファへ身体を預ける。
最初に置いたのは、待ち時間を埋めるような何気ないコードだった。
雨宮の指が止まる。
凪は気づかないまま、次の音を探した。
二音、三音と続けるうちにBlue Hourの断片が混じる。その先へは進まず、途中でコードを崩して別の旋律へ逃がした。
まだ形を決めていない音だった。
「その進行、好きです」
凪の指が止まる。
「え」
雨宮はタブレットへ視線を戻した。
「失礼しました。続けてください」
「今の何」
「感想です」
「ファンかよ」
「私的な質問には回答を控えます」
凪はギターを抱えたまま笑った。
「いるんだな、そういう顔して」
「どういう顔でしょう」
「何も興味なさそうな顔」
雨宮がタブレットを持ち直す。
返事までが、いつもより少しだけ長かった。
「失礼ですね」
「初めて笑った」
「職務外です」
「何のだよ」
「秘書の品位です」
凪は肩を揺らし、もう一度弦へ指を置いた。
今度は少し明るい音にする。
窓から差す午後の光の中へ、短い旋律をいくつか置いていく。
雨宮は資料へ戻った。
凪も、いつの間にか烏龍茶へ手を伸ばさなくなっていた。
扉が開いた時、曲にはまだ名前がなかった。
月城が鞄を持ったまま入ってくる。
ネクタイは少し緩み、長い会議を終えたばかりのジャケットが肩へ馴染みきっていない。
扉の内側で足が止まった。
ソファにはギターを抱えた凪。
テーブルには半分残った烏龍茶。
その少し先では、雨宮がいつもどおりの姿勢で資料を整理している。
最後のコードだけが、執務室に残った。
「何が起きているのかな」
雨宮が答える。
「平和的に収まりました」
「何が」
「双方です」
凪が顔を上げた。
「遅ぇ」
月城は鞄を机の脇へ置いた。
「会って早々それかい」
「四十分って言って、一時間だった」
「正確には五十八分です」
雨宮の声が横から入る。
月城は緩めたネクタイへ指を掛けたまま、そちらを見る。
「言わなくていい」
「事実確認です」
月城は凪の向かいへ座った。
すぐには背もたれへ寄らず、凪の手元のギターを見る。
「待ちくたびれたか」
凪は弦を一本だけ鳴らした。
「腹減った」
「それは悪かったね」
「でも雨宮さんいたから平気」
月城の手が止まる。
雨宮はタブレットを胸元へ戻した。
「恐れ入ります」
月城がそちらを見る。
「君、少し嬉しそうだね」
「気のせいです」
凪はギターケースを引き寄せた。
「この人、隠れファンだった」
「凪さん」
「怒ってる?」
「いいえ。情報管理のお願いです」
月城は額へ手を当てた。
「私の職場が、ずいぶん騒がしくなったな」
凪はギターをケースへ戻した。
クロスを挟み、蓋を閉じて、留め具を順に留める。
その間に雨宮も手帳を閉じた。
凪が立ち上がる。
「飯」
「命令かな」
ケースを肩へ掛け、凪は月城を見る。
「確認だ」
月城はネクタイから手を離した。
「分かった。食べに行こうか」
雨宮が閉じた手帳を持ち上げる。
「本日十八時以降、月城の予定は空けております」
月城が振り返った。
「いつの間に」
「先読みです」
凪が笑う。
「やっぱ仕事できるな、雨宮さん」
雨宮は一礼した。
「当然です」
月城は机に残っていた資料を重ね、凪は残っていた烏龍茶を飲み切った。
窓の外には、まだ夏の強い光が残っている。
月城がジャケットを整えるより先に、凪は扉の前まで歩いた。
「早く」
「五十八分待たせた分かな」
「腹減ってんだよ」
月城が少し笑い、凪のあとを追って執務室を出た。
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