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第44話 ちゃんと食えよ
あの夜から何日かが過ぎていた。
月城玲士はシンガポール出張を終えて東京へ戻ったものの、それから三日、まだ凪隼人に会えていない。
帰国した翌朝から国内案件へ戻り、会議と取引先訪問の間を縫うように一日が進んでいた。夜に資料を閉じる頃には、翌日の予定がすでに並んでいる。
その間にもBlue Hourは海外で数字を伸ばし、翻訳記事や配信プレイリストが増えていた。アジア側の展開準備も動き始めている。
月城自身が後押ししたものもあれば、もう彼の手を離れて進み始めたものもあった。
昼過ぎ、取引先からVERTEX MUSIC GROUP本社へ戻った月城は、最上階へ上がりながらネクタイを少し緩めた。
スマートフォンで次の予定を確認していると、雨宮凛子がこちらへ歩いてくる。
いつもより、少しだけ表情が柔らかい。
「月城専務、お戻りのところ失礼します」
「どうした」
「お届け物をお預かりしております」
差し出されたのは、黒い保冷バッグだった。
月城の足が止まる。
「……来たんだね」
「はい」
雨宮が頷く。
「ご不在とお伝えしたところ、では預ける、と」
「それで?」
「ちゃんと渡せそうな人で良かった、と言われました」
月城は笑った。
「ずいぶん審査が厳しい」
「私は通過したようです」
「顔を見て判断したのかな」
「そのようです」
執務室へ戻り、月城は保冷バッグを机へ置いた。
大きな窓の向こうでは、東京の午後が少し傾き始めている。
ファスナーを開けると、中には黒い二段の弁当箱が入っていた。
蓋を外す。
白米には胡麻が少し散り、隣には出汁巻き卵と鮭の西京焼き、小松菜のおひたし、きんぴら、鶏の塩唐揚げが隙間なく収まっている。
切り方も詰め方も整っていた。
忙しい昼の途中でも食べやすいように作られている。
保冷バッグの内側には、小さな付箋が貼ってあった。
《移動前に置いとく》
月城はしばらくそれを見た。
「会わずに行くんだね」
スマートフォンが震える。
凪からだった。
《ちゃんと食えよ》
続けてもう一通。
《名古屋向かう》
月城は返信する。
《命令かな》
すぐ既読がついた。
《知らねぇ》
さらに届く。
《残したら次はない》
月城は声を立てずに笑い、箸を取った。
卵焼きには出汁がしっかり入り、鮭は冷めても身が硬くなっていない。米も崩れず、箸で取りやすい。
月城が食べる時間まで考えて作ったことが分かる。
「……すごいね」
誰に聞かせるでもなく呟いたところで、またスマートフォンが震えた。
今度は写真だった。
新幹線のホーム。
柱の前で相沢涼が満面の笑みを浮かべ、サービスエリアで買った茶色いサングラスをかけてピースしている。
隣の凪はキャップを深く被り、黒いサングラスのまま半歩だけ離れようとしていた。
肩にはバッグ、片手には紙袋。
逃げようとしているわりに、画角からは出ていない。
《うるせぇのがいた》
月城は写真を見たまま返信した。
《良い顔だ》
既読。
《見るな》
月城はもう一度、写真を見る。
見るなと言いながら、送ってきたのは凪の方だった。
廊下の向こうで人の声が増え始める。
次の会議まで、もうそれほど時間はない。
月城はスマートフォンを伏せ、残っていた弁当へ箸を戻した。
窓の外では東京の午後が進み、机の上では、凪が作った弁当が少しずつ減っていった。
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