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第43話 静岡の夜は長い
静岡の夜は風が強く、黒いセダンを降りた凪隼人のまだ乾ききっていない髪を、海からの風が崩した。
駅前の大通りから一本入った路地には、ライブ帰りらしい声がまだ遠く残っている。
月城玲士が選んだ店は、派手な看板のない小さな鰻屋だった。
木の引き戸に小さな暖簾が掛かり、その脇へ控えめに鰻の文字が出ている。
凪は店の前で足を止めた。
「高そう」
「高いよ」
「隠す気ないな」
「でも、落ち着いて食べられる」
「そういうとこだぞ」
「どういうところだい」
「高いものを静かに出してくるところ」
月城は答えず、引き戸を開けた。
店内には炭の匂いが薄く残っている。磨かれたカウンターの奥には小さな個室があり、壁には古い時計が掛かっていた。
テレビもなく、音楽もほとんどない。
厨房から器が触れる音だけが聞こえてくる。
凪は少し眉を寄せた。
「静かすぎる」
「嫌?」
「腹が鳴ったら響くだろ」
「もう鳴ったあとだ」
「忘れろ」
通されたのは、細い庭に面した奥の個室だった。
低い椅子へ座ると、窓の向こうに石灯籠の影が見える。
月城も向かいへ座った。
「飲む?」
「水」
「酒と言わないんだね」
「腹減りすぎると、先に飯」
「合理的だ」
「お前に言われると腹立つ」
水と一緒に、小鉢と漬物が運ばれてきた。
肝吸いの香りが少しだけ先に届く。
凪は水を一口飲んだ。
「……生き返る」
月城が小鉢へ箸を伸ばす。
「今日、良かったね」
「ライブ?」
「それも」
凪の手が止まった。
「そういう言い方すんな」
「本音だよ」
「黙れ」
月城はそれ以上続けず、白和えを少し食べた。
凪はその手元を見る。
「食うの遅くねぇか」
「そうかな」
「そうだろ」
「君が早い」
「腹減ってんだよ」
「それは知っている」
「知ってるなら食え」
月城が凪を見る。
「私に言っている?」
「お前に言ってる」
「食べているよ」
「見てる時間の方が長い」
「よく見ているね」
「うるさい」
凪は小鉢を少し月城の方へ寄せた。
「残すなよ」
「厳しいね」
「放っとくと食わねぇ顔してる」
月城は少し笑い、そのまま箸を取った。
鰻重が運ばれてくる。
蓋を開けると湯気が上がり、甘いタレと炭の香りが広がった。
凪はしばらく黙って中を見る。
月城が笑う。
「気に入った?」
「まだ食ってねぇ」
「顔が答えている」
「見るな」
凪は箸を入れた。
柔らかい身の端にだけ香ばしさが残り、濃すぎないタレが飯へ染みている。
一口食べ、続けてもう一口。
「何だよ」
「食べるね」
「うまいからだろ」
「安心する」
「何が」
「ちゃんと食べているから」
「失礼すぎるだろ」
月城が声を立てずに笑った。
凪は山椒を少し振りながら、向かいの重箱を見る。
「お前も食えよ」
「食べているよ」
「減ってねぇ」
「見られていると食べづらい」
「いつもお前がやってることだろ」
月城は何も言わず、鰻を一口食べた。
凪はそれを見てから、自分の箸を動かす。
しばらく二人とも黙って食べていると、窓の外で庭木が風に揺れた。
ライブ会場で鳴っていた音はもう遠く、今は器と箸の音だけが近い。
月城が水を飲む。
「明後日から、シンガポールへ行く」
凪の箸が止まった。
「……また海外かよ」
「三日ほど」
「三日で済む顔じゃねぇ」
「どういう顔だい」
「飯食わない顔」
月城が少し笑う。
「今は食べているよ」
「今日だけだろ」
「信用がないね」
「ない」
凪は鰻重の端を少し崩した。
「向こうで何すんだよ」
「アジア向けの配信展開とタイアップの確認。現地で、いくつか詰めることがある」
「Blue Hour?」
「それも含む」
凪が月城を見る。
「勝手に広げんなよ」
「広がり始めたものを、雑に扱いたくない」
凪は返さなかった。
窓ガラスには、石灯籠の影が薄く映っている。
月城は続ける。
「君が歌ったものだから、私の都合だけで動かすつもりはない」
「もう動いてんだろ」
「だから、止め方も進め方も考える」
「めんどくせぇ」
「そうだね」
凪は少し黙ってから、鰻重の蓋を横へ寄せた。
「でも、雑にされるよりはいい」
月城がわずかに目を伏せる。
「ありがとう」
「礼言うな」
「では、食べる」
「そうしろ」
月城がもう一口食べる。
凪もそれを見届けてから、自分の箸を動かした。
食事が終わる頃には、凪の肩から少し力が抜けていた。
肝吸いを飲み、器を置く。
「戻ったら」
「うん」
「ちゃんと食えよ」
月城の箸が止まる。
「命令かな」
「確認」
「厳しいね」
「放っとくと食わねぇだろ」
月城はすぐには返さなかった。
凪が見る。
「ほらな」
「否定する隙がなかった」
「する気なかっただろ」
月城が笑う。
「君も、次は名古屋だろう」
「行く」
「忙しいね」
「お前ほどじゃねぇ」
「そうかな」
「そうだよ」
凪は残っていた飯を食べきり、箸を置いた。
「戻ったら連絡しろ」
「会えるとは限らないよ」
「連絡しろって言った」
月城は凪を見た。
「分かった」
「すぐ従うな」
「では、従わない方がいい?」
「それは腹立つ」
「難しいね」
食後の茶が運ばれてきた。
凪は湯呑みを両手で持ち、少しだけ椅子へ身体を預ける。
月城は会計を済ませた。
凪が財布を出そうとすると、月城が目だけで止める。
「ここは私が」
「出た」
「何が」
「高い店の顔」
「顔で決めるんだね」
「さっきからずっとそうだろ」
月城は小さく笑った。
店を出る頃には、夜風が少し冷えていた。
暖簾の奥から、炭の匂いがまだ薄く流れてくる。
凪は小さく息を吐いた。
「……うまかった」
「それはよかった」
月城がスマートフォンを取り出す。
「車を呼ぼうか」
「いらねぇ」
「どうして」
「歩く」
月城は画面を閉じた。
「了解」
凪が横目で見る。
「……すぐ従うと腹立つ」
「さっきも聞いたよ」
二人は並んで路地を歩き出した。
海の方から強い風が抜け、凪のまだ少し湿った髪が乱れる。
月城は何も言わず、その歩幅に合わせて隣を歩いた。
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