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第1話 俺が行く
夕方、凪隼人がマンションへ戻ると、エントランスの奥でエレベーターが開いた。
外はすでに暗く、ガラス扉にはエントランスの灯りが映っていた。
降りてきた男は、黒い楽器ケースを肩に掛けていた。ステージで見る時より髪も服も力が抜けていて、凪はすぐには名前が出てこなかった。
向こうが先に立ち止まる。
「……凪さん?」
そこでようやく分かった。
「澄川?」
澄川律も驚いた顔をしていた。
凪は澄川の後ろにあるエレベーターを見る。
「何してんの」
「ちょっと出るところです」
「ここから?」
「はい」
返事を聞いてから意味が追いついた。
「住んでんの?」
「凪さんも?」
「そうだけど」
仕事で顔を合わせることはある。所属は違うが、VERTEXで一度会い、ライブも聴いた。
それでも、ここはステージでもスタジオでもない。
帰ってきた人間が、それぞれの部屋へ戻っていく場所だった。
「ここ、防音いいですよね。夜でも音出せるので」
「俺もそれで決めた」
「じゃあ、条件似てたんですね」
凪はエレベーターのボタンを押した。
「虫出にくいのも?」
「それは条件に入れてないです」
「入れろよ」
「今のところ見てないので」
「ならいい」
澄川が少し笑った。
「じゃあ、また」
「おう」
数歩進んだところで澄川が振り返る。
「同じ建物なら、また会いそうですね」
「会わなくていい」
「ひどいですね」
「音楽のやつと家でまで会いたくねぇんだよ」
今度ははっきり笑って、澄川は外へ出ていった。
扉が閉まり、姿が街へ紛れる。
仕事でしか知らなかった人間が、急に生活の景色へ入ってきた。
凪はガラス扉の向こうへ目をやる。
そこへ黒い車が停まり、後部座席から月城玲士が降りてくる光景が浮かんだ。
最近では、月城がこのマンションの車寄せへ来ること自体をほとんど意識しなくなっていた。
エレベーターが着く。
「……やべぇな」
小さく言ってから中へ入った。
部屋へ戻り、ギターケースを壁際へ置く。
ローテーブルには、午前中から出したままのノートがある。
月城と作り始めた、まだ名前のない曲だった。
三週間ほど触っているのに完成していない。
Ridgelineのアルバム『Afterimage』は、もう制作を終え、音源も映像も公開へ向けて進んでいる。
けれど、この曲には締切がない。
凪が音を変えると月城の言葉が合わなくなり、月城が一行削れば、空いた場所へまた何か置きたくなる。
終わらせる理由がないまま続いていた。
スマートフォンには、少し前に届いたメッセージが残っている。
《二十一時頃なら行けるよ》
まだ一時間以上あった。
窓の外はすでに暗く、ガラスには部屋の中と街の灯りが重なっている。
澄川に見られたところで困ることはない。月城との関係を隠しているわけでもなかった。
それでも引っかかる。
凪は月城へ電話をかけた。
数回の呼び出しで繋がる。
『凪?』
まだ会社にいるらしい。
「玲士。今日、来なくていい」
『予定が変わった?』
「違う」
「これから俺ん家来るの禁止」
電話の向こうが静かになった。
『……私が?』
「お前が」
『何かしたかな』
「してねぇよ」
凪はノートを見る。
「澄川、同じマンションだった」
『澄川律?』
「さっき下で会った」
少しして、月城が聞く。
『私が君のところへ出入りしているのを、見られたくない?』
「違う」
凪はソファへ深く座り直した。
「お前と俺が近いのは別にいい」
ノートに残る月城の文字を見る。
「でも、音までそこに混ぜられんのが嫌」
月城は黙って聞いていた。
「海外の話も、VERTEXの仕事も、お前と近いから来たって見られたくねぇ。俺が何鳴らしても、その後ろにお前がいるみたいになるのは違うだろ」
しばらくして、月城の声が返る。
『分かったよ』
「早ぇな」
『君が嫌だと言っているのに、続ける理由がないからね』
凪は少し黙った。
「あの大袈裟なラスボス車も」
向こうで小さく息が漏れた。
『その呼び方はまだ続いているのかい』
「分かりやすいだろ」
『では、君の部屋へは行かない。車も行かせない』
「うん」
欲しかった答えだった。
それなのに、電話を切る気にはならない。
少しして、月城が聞く。
『今夜の曲は?』
「やる」
『どうやって?』
凪は立ち上がり、ギターケースを見る。
「俺が行く」
電話の向こうが静かになった。
『こちらへ?』
「うん」
『今日?』
「今日やる予定だっただろ」
凪はケースを持ち上げ、ノートもバッグへ入れた。
「二十一時でいい?」
『私は構わないよ』
少し間があった。
『ただ、君が自分から来ると言ってくれるのは嬉しいね』
靴を出しかけていた凪の手が止まる。
「そういうこと言うな」
『なぜ?』
「行きづらくなる」
『もう準備しているんだろう?』
凪は玄関に置いたギターケースを見る。
「……してるけど」
『では、待っているよ』
凪は靴へ足を入れながら眉を寄せた。
「玲士」
『何?』
「調子乗んな」
返事の代わりに、笑う気配がした。
凪は通話を切った。
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