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第2話 泊まるつもりかい

月城玲士の部屋へ着いたのは、二十一時を少し回った頃だった。 高層階の廊下には人の気配がなく、凪が降りたあと、エレベーターは静かに下へ戻っていった。片手にはギターケース。肩には小さなバッグを掛けている。 呼び鈴へ指を伸ばしたところで、内側から扉が開いた。 「早いな」 月城はもう仕事着ではなかった。薄いシャツに黒いパンツ。昼間きちんと整えられていた髪も、少しだけ崩れている。 「君が来ると言ったからね」 「待ってた?」 「そう見える?」 「見える」 月城は否定せず、身体を引いて凪を中へ通した。 ギターケースを壁際へ置き、肩のバッグを下ろすと、月城の視線がそこへ落ちる。 「明日休み」 「それで着替えまで?」 「遅くなるかもしれねぇだろ」 少し間があった。 「泊まるつもりかい?」 「駄目?」 月城は凪を見たまま答えた。 「駄目とは言っていないよ」 「じゃあいいだろ」 「君が自分から泊まる準備をして来るとは思っていなかったからね」 凪はバッグへ手を掛けた。 「帰ろうか?」 「それは困る」 返事が早かった。 凪は少し笑い、バッグから手を離した。 ノートをテーブルへ置く。 まだ名前のない曲だった。 「やるぞ」 「その前に何か飲む?」 「酒」 月城の手が止まる。 「珍しいね」 「明日休みだし」 「弱いのに?」 「一杯で酔った話、いつまで引っ張るんだよ」 月城は笑いながらキッチンへ向かった。 戻ってきた時には、酒の入ったグラスが二つと、水が一つ増えていた。月城は何も言わず、水を凪の近くへ置く。 「まだ酔ってもねぇけど」 「先に置いておく」 「信用なさすぎだろ」 「信用と備えは別だよ」 凪は酒を一口飲んだ。冷たさのあとに、少し甘さが残る。 「これなら飲める」 「よかった」 月城もグラスを持ち、凪の隣へ座った。向かいではない。ソファがわずかに沈み、肩の近くに月城の体温が増える。 間にあるのは、ノート一冊だけだった。 凪はギターを膝へ乗せ、最初から鳴らした。 言葉が入る少し手前で止める。 「ここ、短くしたい」 「言葉を?」 「音」 響きを少し早く切ると、月城も一行の後ろへ線を引いた。 もう一度鳴らす。 さっきまで埋まっていた場所に、短い静けさが残る。 「そっち」 「私もそう思う」 それから何度か同じ場所を合わせた。凪が音を減らし、月城が言葉を削る。締切もなく、誰かへ提出するものでもない。 グラスの中身だけが少しずつ減っていった。 凪が酒へ手を伸ばしたところで、月城の指が手首へ触れ、代わりに水を渡される。 「まだ酔ってねぇよ」 「今のうちに飲んで」 「お前、俺のこと子どもだと思ってる?」 「酒に強くない大人だと思っている」 「同じだろ」 月城が笑った。 凪も水を飲み、ギターへ戻る。 指は動くし、音も間違っていない。 それでも隣にいる月城が視界へ入った。シャツの袖。グラスを持つ指。ソファへ預けられた肩。 凪は途中で弦から手を離した。 「今日はここまで」 月城も何も言わず、ノートを閉じた。 * 凪はギターをケースへ戻し、ソファへ深く身体を預けた。 月城が酒のグラスを少し離れた場所へ置く。 「勝手に片づけんな」 「もういいだろう?」 「俺が決める」 「では、水を飲んでから決めて」 凪は呆れながら水を飲んだ。 グラスを戻すと、月城がこちらを見ている。 「何」 「見てるだけ」 「またそれ?」 月城は視線を逸らさない。 凪は窓へ目を向けた。ガラスには夜景と一緒に二人の姿が薄く映っている。 そちらでも月城と目が合った。 「玲士」 「何?」 「何でそんなに見んの」 「見たいから」 凪はガラスの中の月城から、隣にいる本人へ視線を戻した。 「お前、そういうこと普通に言うよな」 「聞かれたから答えただけだよ」 会社では見ない薄いシャツ。少し崩れた髪。昼間より力の抜けた肩。 凪も、さっきからずっと見ていた。 月城がソファの背へ腕を置いた。凪の後ろへ伸びるが、まだ触れない。 「近い」 「そうだね」 月城は離れず、凪も動かなかった。手を伸ばせばなくなる程度の隙間だけが残っている。 「お前、余裕あるよな」 月城の表情から笑いが薄くなった。 「そう見える?」 「見える」 「なら、君は私をあまり見ていないね」 凪はそのまま身体を起こし、月城のシャツへ指を掛けた。 「じゃあ、見せろよ」 少し引くと、月城の身体が近づいた。ソファが沈み、呼吸の距離まで狭くなる。 月城の顔が、あと少しで触れるところで止まった。 「何で止まんの」 月城の視線がテーブルのグラスへ向く。 「酒を飲んでいるから」 「酔ってねぇよ」 「分かってる」 それでも来ない。 凪はまだシャツを掴んでいた。 「びびってんの?」 月城の目が少し細くなる。 「煽らない方がいい」 声が低かった。 「今日は止まるよ」 凪は手を離さないまま言った。 「じゃあ次、酒飲まねぇ」 月城の目が止まる。 「何」 月城は静かに息を吐いた。 「それは、かなり困るね」 「何で」 「止まる理由がなくなるから」 凪の指に、わずかに力が入った。 月城はそれ以上近づかず、水のグラスを渡してくる。 「飲んで」 「……性格悪」 「知ってる」 「自覚あんのかよ」 「君の前ではね」 凪は水を飲んだ。 足元には、持ってきたバッグがある。着替えも充電器も入っている。 少し身体をずらすと、膝が月城へ触れた。 月城は離れず、凪も戻らない。 しばらく、そのままでいた。 テーブルの上では、二人で閉じたノートの隣に水のグラスが残っていた。

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