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第3話 音を聴く人
数日後、アトラボ五階ではRidgelineのセッション確認が続いていた。
同じ箇所を何度か鳴らしては止め、音の重なりを少し変えてまた合わせる。
凪隼人は二番へ入るところだけ、どうしても気になっていた。少し早い。自分でも分かっている。
相沢涼の声と紫月颯の低い音が近づくところへ、自分のギターまで一緒に寄ってしまう。大きく崩れているわけではない。それでも、三人の音が一度に狭くなる。
『Afterimage』の制作はすでに終わっていた。
今確認しているのは、その先へ出すためのセッションだった。
Ridgelineを海外へどう見せていくか。完成されたライブ映像だけではなく、三人で音を合わせる短いセッションも残し、作り込みすぎない距離までどこまで外へ出すのか。
Aurora LabelとVERTEXの間で、その確認が続いていた。
音が止まり、凪はガラスの向こうを見る。
月城玲士が座っていた。
今日はVERTEX側の打ち合わせも兼ねて来ている。濃い色のスーツにジャケット。手元には資料がある。
数日前、薄いシャツのまま凪の隣へ座っていた男と同じ人間だった。
「もう一回いける?」
相沢の声が飛ぶ。
「二番?」
「そこから」
凪はギターへ手を戻した。
紫月が短く言う。
「少し早い」
「分かってる」
「低い方に寄りすぎてる」
凪が返そうとしたところで、ガラスの向こうの月城が何か言った。少しして、その声がこちらへ届く。
「二番へ入るところだけ、もう一度聴きたい」
凪はそのまま待った。
「どこが気になる?」
相沢が聞く。
月城は少し考えてから答えた。
「相沢の声は、そのままでいいと思う。紫月の低い音も残した方がいい」
「じゃあ何」
月城の視線が凪へ向く。
「凪のギターだけ、少し待った方がいい」
凪は黙って聞いた。
「三つとも同じところへ寄ると、急に狭く聞こえる。低い音と声はそのままで、ギターだけ少し後ろから入れば距離が残ると思う」
その言い方なら分かった。
低音を薄くする必要はない。相沢の声も動かさない。
自分だけ少し待つ。
「もう一回」
同じところから合わせる。
紫月の低い音が残り、その上に相沢の声が続く。
凪は少しだけ待った。
二つの音が残る場所をひとつ挟んでから、ギターを置く。
さっきより狭くならない。
演奏が止まった。
凪はガラスの向こうを見る。
「玲士」
月城が顔を上げる。
「今の?」
「今の方がいい」
「どこ」
「相沢の声が残ったまま、ギターが入ってきた」
凪は少し眉を寄せた。
「分かりづらい」
「でも分かっただろう?」
「まあ」
相沢が笑う。
「二人とも感覚で説明しすぎなんだよ」
紫月がすぐに返した。
「相沢に言われたくない」
「俺は歌う側だから」
「もっと理由になってない」
凪はギターを少し下げた。
さっきよりいい。
相沢の声も紫月の低い音も残り、その後ろへ自分のギターだけが少し遅れて入る。
月城が今日どの立場で座っているかは、もう気にならなかった。
休憩に入ると、凪はスタジオを出た。
廊下は中より少し冷えている。自販機で水を買い、壁際のベンチへ腰を下ろしたところで、奥から月城が歩いてきた。
「お疲れさま」
「まだ終わってねぇよ」
「知っているよ」
月城は隣へ座らず、少し離れたところで止まった。
仕事の場所では、その距離になる。
凪は水を一口飲み、さっきの音を頭の中へ戻した。
「本当にあれでいい?」
「いいと思う」
「VERTEXとして?」
月城の目が少し細くなる。
「音を聴く人として」
凪はキャップを閉めた。
「何それ」
「今日はVERTEX側の確認もある。でも、私の耳まで会社のものになったわけではないよ」
凪は月城を見る。
仕事の資料を持ち、きちんとした服を着ている。
それでも、音を聴く時の目は変わらない。
「当たり前だろ」
「なら、聞かなくても分かるはずだけど」
「確認」
月城が少し笑った。
その顔を見た瞬間、数日前の夜が短く戻る。
ソファの近さと、テーブルに残った水。
触れそうなところまで来て、それでも止まった月城。
凪はボトルへ視線を落とした。
月城は何も聞かなかった。
廊下の奥から声をかけられ、そちらへ身体を向ける。
二歩ほど進んだところで足を止めた。
「凪」
「何」
「次も、紫月の低い音はそのままでいいと思う」
凪は少し考えた。
「俺だけ待つ?」
「うん。相沢の声も動かさない方がいい」
「分かった」
月城はそのまま戻っていった。
凪は残った水を飲み、立ち上がった。
スタジオへ戻ると、次の確認が始まった。
凪はギターを持ち、相沢と紫月の音を聞く。
「いける?」
相沢が聞く。
「いける」
演奏が始まる。
一番を抜け、二番へ近づく。
相沢の声は動かさない。
紫月の低い音も、そのまま残す。
凪だけが少し待った。
二人の音が残る場所をひとつ挟んでから、ギターを重ねる。
さっきより空間は狭くならない。三人の音が近づきすぎず、それでも同じ曲の中にいる。
凪は顔を上げた。
ガラスの向こうで、月城がこちらを見ていた。
濃いスーツのまま、手元には仕事の資料がある。
凪はその視線を避けなかった。
ギターをそのまま、次の小節へ送った。
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