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第4話 今日は曲じゃねぇ
仕事を終えて自宅へ戻ると、凪は先にシャワーを浴びた。
髪を乾かし、着替えと充電器を小さな鞄へ入れる。壁際からギターケースを持ち上げると、前に月城の部屋へ行った夜とほとんど同じ荷物になった。
違うのは、酒を飲むつもりがないことくらいだった。
月城玲士の部屋へ着いたのは、二十二時前だった。
呼び鈴を押すと、ほどなく扉が開く。
月城は濃い色のシャツに黒いパンツを穿いていた。昼間より肩の力が抜け、髪も少しだけ崩れている。
「仕事終わった?」
「終わらせたよ」
「俺が来るから?」
「そうだけど」
迷いのない返事だった。
凪はギターケースを壁際へ置き、鞄からノートを出した。
「何か飲む?」
「水」
月城が一瞬だけ見る。
「何」
「いや。水なんだね」
「今日は飲まねぇから」
「聞いていないよ」
「顔が聞いてる」
月城が少し笑った。
二人でソファへ座り、凪はギターを膝へ乗せた。
前に残した音を最初から鳴らし、月城の言葉が入る手前で止める。凪が音を減らせば月城も言葉を削り、合わなければ戻ってもう一度鳴らした。
締切もない。誰かへ出すものでもない。
だから、終わらせる理由もなかった。
何度目かにノートへ手を伸ばした時、月城の指と触れた。
二人とも引かなかった。
指先が重なったまま、さっきまで追っていた音だけが遠くなる。
凪は横を見る。
月城もこちらを見ていた。
「近い」
「前も近かったよ」
「今日は違う」
凪はギターへ目を戻したが、もう続きを鳴らす気にはならなかった。
「無理」
「集中できない?」
「うん」
月城が身体を引く。
離れた分だけ、凪の視線がすぐそちらへ戻った。
「何で離れんの」
「近いと言われたから」
「そういう意味じゃねぇよ」
月城の目に笑いが残る。
「難しいね」
凪はギターをケースへ戻した。
「もう終わり?」
凪は顔を上げた。
「今日は曲じゃねぇ」
部屋が静かになった。
月城はすぐには動かなかった。
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「大事だから」
凪は月城のシャツへ手を掛けた。
ひとつボタンを外し、そのまま身体を寄せる。
「俺がここまで来たんだろ」
「うん」
「酒も飲んでねぇ」
「分かってる」
「なら、止まんな」
月城の目が変わった。
「今日は止めるつもりはないよ」
声も低かった。
月城の手が肩へ触れ、そのまま背中へ回る。
凪が顔を上げるより先に唇が重なり、そのまま深くなる。
月城の呼吸が変わった。
「余裕ねぇじゃん」
「ないよ」
返事には迷いがなかった。
凪が動けば近づき、止まれば待つ。その慎重さが、今夜はもどかしかった。
「行くぞ」
月城は何も聞かなかった。
*
寝室へ入ると、凪はベッドの端へ腰を下ろした。
月城が近づいてくる。さっきまでより静かな部屋で、互いの呼吸だけが近くなった。
「玲士」
「うん」
「電気消せ」
月城が一瞬だけ凪を見る。
「全部?」
「いいから」
月城が手を伸ばし、寝室の灯りを落とした。
カーテンの隙間から入る街の灯りだけが、二人の輪郭をかすかに残す。
凪は月城の顔を見ようとして、眉を寄せた。
「……暗すぎる」
「君が消せと言ったんだろう」
「お前見えない」
月城が笑う。
「難しいね」
「うるせぇ」
凪は自分のシャツへ手を掛け、そのまま脱いだ。床へ落ちた布には目も向けず、月城を見る。
「来いよ」
ベッドが沈み、近づいた身体の熱に凪の呼吸が浅くなった。
月城の手が頬へ触れる。
凪はその手に頬を寄せたまま、月城を見た。
名前を呼ぶと、すぐ近くから返事があった。何度呼んでも、同じ距離から返ってきた。
凪は月城の肩へ額を寄せた。
「玲士」
「うん」
「近い」
「そうだね」
もう、その近さから離れる気はなかった。
*
朝、凪が目を覚ますと、カーテンの隙間から白い光が入っていた。
隣に月城はいない。
寝室の外から、食器の触れる音が聞こえる。
凪は起き上がり、近くにあった月城のシャツを借りた。袖が長く、手を下ろすと指先へかかる。
リビングには朝の光が広がっていた。
昨夜のノートは閉じられ、ギターケースも壁際にある。
月城はキッチンでコーヒーを淹れていた。
凪はその背中をしばらく見た。
月城はまだ気づかない。
音を立てないまま近づき、後ろから腕を回す。
月城の身体が止まった。
凪は手に力を入れ、背中へ身体を預けた。
「おはよう」
数秒遅れて返事が来る。
「……おはよう」
いつもより低い声だった。
凪が腕を解くと、振り返った月城がまだ少し意外そうにしている。
「何」
「君から来るとは思わなかった」
「昨日も俺から行っただろ」
「そういう意味ではなくて」
月城の視線が凪の格好へ落ちた。
借りたシャツ。裸足。寝起きのままの髪。
凪はキッチンへ入り、冷蔵庫を開ける。
「腹減った」
「私が作ろうか」
「いい。コーヒーやってろ」
凪は材料を取り出し、フライパンを火にかけた。
背後では月城がカップを用意している。
コーヒーの匂いが広がる。
「玲士」
「何?」
「お前、朝になると普通だな」
月城の手が止まった。
「それは悪いこと?」
「つまんねぇ」
足音が近づいた。
月城の腕が凪の腰へ回る。
背中へ体温が重なり、凪の手が止まった。
「おはよう、隼人」
今度は耳の近くから聞こえた。
「……さっき言っただろ」
「言ったね」
「料理中」
「分かっているよ」
月城の腕が緩む。
身体が離れかけたところで、凪はその手を掴んだ。
「……まだいい」
月城も動かなかった。
凪は背中に残る体温を感じたまま、フライパンの火を弱める。
「笑うなよ」
「笑っていないよ」
「絶対笑ってる」
「君はこっちを見ていないだろう?」
「分かる」
コーヒーの匂いに、焼けたベーコンの香りが重なる。
凪は月城の手を離さないまま、もう一つ卵を取った。
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