4 / 27

第4話 今日は曲じゃねぇ

仕事を終えて自宅へ戻ると、凪は先にシャワーを浴びた。 髪を乾かし、着替えと充電器を小さな鞄へ入れる。壁際からギターケースを持ち上げると、前に月城の部屋へ行った夜とほとんど同じ荷物になった。 違うのは、酒を飲むつもりがないことくらいだった。 月城玲士の部屋へ着いたのは、二十二時前だった。 呼び鈴を押すと、ほどなく扉が開く。 月城は濃い色のシャツに黒いパンツを穿いていた。昼間より肩の力が抜け、髪も少しだけ崩れている。 「仕事終わった?」 「終わらせたよ」 「俺が来るから?」 「そうだけど」 迷いのない返事だった。 凪はギターケースを壁際へ置き、鞄からノートを出した。 「何か飲む?」 「水」 月城が一瞬だけ見る。 「何」 「いや。水なんだね」 「今日は飲まねぇから」 「聞いていないよ」 「顔が聞いてる」 月城が少し笑った。 二人でソファへ座り、凪はギターを膝へ乗せた。 前に残した音を最初から鳴らし、月城の言葉が入る手前で止める。凪が音を減らせば月城も言葉を削り、合わなければ戻ってもう一度鳴らした。 締切もない。誰かへ出すものでもない。 だから、終わらせる理由もなかった。 何度目かにノートへ手を伸ばした時、月城の指と触れた。 二人とも引かなかった。 指先が重なったまま、さっきまで追っていた音だけが遠くなる。 凪は横を見る。 月城もこちらを見ていた。 「近い」 「前も近かったよ」 「今日は違う」 凪はギターへ目を戻したが、もう続きを鳴らす気にはならなかった。 「無理」 「集中できない?」 「うん」 月城が身体を引く。 離れた分だけ、凪の視線がすぐそちらへ戻った。 「何で離れんの」 「近いと言われたから」 「そういう意味じゃねぇよ」 月城の目に笑いが残る。 「難しいね」 凪はギターをケースへ戻した。 「もう終わり?」 凪は顔を上げた。 「今日は曲じゃねぇ」 部屋が静かになった。 月城はすぐには動かなかった。 「本当に?」 「何回聞くんだよ」 「大事だから」 凪は月城のシャツへ手を掛けた。 ひとつボタンを外し、そのまま身体を寄せる。 「俺がここまで来たんだろ」 「うん」 「酒も飲んでねぇ」 「分かってる」 「なら、止まんな」 月城の目が変わった。 「今日は止めるつもりはないよ」 声も低かった。 月城の手が肩へ触れ、そのまま背中へ回る。 凪が顔を上げるより先に唇が重なり、そのまま深くなる。 月城の呼吸が変わった。 「余裕ねぇじゃん」 「ないよ」 返事には迷いがなかった。 凪が動けば近づき、止まれば待つ。その慎重さが、今夜はもどかしかった。 「行くぞ」 月城は何も聞かなかった。 * 寝室へ入ると、凪はベッドの端へ腰を下ろした。 月城が近づいてくる。さっきまでより静かな部屋で、互いの呼吸だけが近くなった。 「玲士」 「うん」 「電気消せ」 月城が一瞬だけ凪を見る。 「全部?」 「いいから」 月城が手を伸ばし、寝室の灯りを落とした。 カーテンの隙間から入る街の灯りだけが、二人の輪郭をかすかに残す。 凪は月城の顔を見ようとして、眉を寄せた。 「……暗すぎる」 「君が消せと言ったんだろう」 「お前見えない」 月城が笑う。 「難しいね」 「うるせぇ」 凪は自分のシャツへ手を掛け、そのまま脱いだ。床へ落ちた布には目も向けず、月城を見る。 「来いよ」 ベッドが沈み、近づいた身体の熱に凪の呼吸が浅くなった。 月城の手が頬へ触れる。 凪はその手に頬を寄せたまま、月城を見た。 名前を呼ぶと、すぐ近くから返事があった。何度呼んでも、同じ距離から返ってきた。 凪は月城の肩へ額を寄せた。 「玲士」 「うん」 「近い」 「そうだね」 もう、その近さから離れる気はなかった。 * 朝、凪が目を覚ますと、カーテンの隙間から白い光が入っていた。 隣に月城はいない。 寝室の外から、食器の触れる音が聞こえる。 凪は起き上がり、近くにあった月城のシャツを借りた。袖が長く、手を下ろすと指先へかかる。 リビングには朝の光が広がっていた。 昨夜のノートは閉じられ、ギターケースも壁際にある。 月城はキッチンでコーヒーを淹れていた。 凪はその背中をしばらく見た。 月城はまだ気づかない。 音を立てないまま近づき、後ろから腕を回す。 月城の身体が止まった。 凪は手に力を入れ、背中へ身体を預けた。 「おはよう」 数秒遅れて返事が来る。 「……おはよう」 いつもより低い声だった。 凪が腕を解くと、振り返った月城がまだ少し意外そうにしている。 「何」 「君から来るとは思わなかった」 「昨日も俺から行っただろ」 「そういう意味ではなくて」 月城の視線が凪の格好へ落ちた。 借りたシャツ。裸足。寝起きのままの髪。 凪はキッチンへ入り、冷蔵庫を開ける。 「腹減った」 「私が作ろうか」 「いい。コーヒーやってろ」 凪は材料を取り出し、フライパンを火にかけた。 背後では月城がカップを用意している。 コーヒーの匂いが広がる。 「玲士」 「何?」 「お前、朝になると普通だな」 月城の手が止まった。 「それは悪いこと?」 「つまんねぇ」 足音が近づいた。 月城の腕が凪の腰へ回る。 背中へ体温が重なり、凪の手が止まった。 「おはよう、隼人」 今度は耳の近くから聞こえた。 「……さっき言っただろ」 「言ったね」 「料理中」 「分かっているよ」 月城の腕が緩む。 身体が離れかけたところで、凪はその手を掴んだ。 「……まだいい」 月城も動かなかった。 凪は背中に残る体温を感じたまま、フライパンの火を弱める。 「笑うなよ」 「笑っていないよ」 「絶対笑ってる」 「君はこっちを見ていないだろう?」 「分かる」 コーヒーの匂いに、焼けたベーコンの香りが重なる。 凪は月城の手を離さないまま、もう一つ卵を取った。

ともだちにシェアしよう!