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第8話
行灯の灯に照らされていた景色が消え、ほの白い街灯の光が差し込む暗い神社の境内が目に入る。
滝は突然変わった視界に目を瞬かせた。
今の記憶は、この女の過去。
滝は女に視線を向けた。
この女は、確かに罪を犯した。
若い女を殺し、最愛の男を殺し、今まで数多くの人間を壊してきた。
いくら女の過去が苦しくてもそれは決して、していいことではない。
だけど。
滝はふと、唇を噛み締めた女が何かを握りしめていることに気づいた。
黒い軸に平たい赤い丸の飾りが付いた簪。
女の記憶で見たものよりもだいぶ古びているが、これはあの時の簪ではないのだろうか。
「なあ」
振り返って背後に立つ男を見る。
「この女と話したい。喋れるようにしてくれないか?」
「うるさいだけだぞ」
「頼むから」
滝の言葉に男は鼻を鳴らして首をくいっと女に向けた。
口を開けられるようにしてくれたようだ。
「わ、私、私、私は…」
震えながら言葉を繰り返す女に滝は話しかけた。
「思ったんだけどさ」
女の握りしめる簪を指差す。
「それ、その丸い部分、あんたが大事にしていたあの傘に似てないか?」
黒い軸に赤く平たい円。
「あんた、言ってたよな。『毎日雨が降れば毎日傘を持ち歩けるのに』って。それ、雨が降らなくても傘を持ち歩けるように、ってあんたの好きな男が作ったんじゃないのか?」
「え…?」
一瞬、女の表情から感情が全て抜け落ちた。
そして次の瞬間、大きく目が見開かれる。
「え……嘘、だって、そんな」
「もともと簪屋が始めた傘屋だったんだろ?じゃあ例えば簪屋の娘とか、そこに勤める誰かに、作るのを手伝ってもらったんじゃないのか?」
今更仮説を言ったってどうしようもないかもしれない。
それにこの仮説は、女をさらに苦しめるだけで何の解決にもならないかもしれない。
それでも滝は言わずにはいられなかった。
だってこの女は言ったのだ。
『祈りはなんの役にも立たない』と。
その発言は、祈ったことがある人間の言う言葉ではないのか。
その祈りがどういうものだったのか、滝にはわからない。
「男との恋がうまくいくように」
だったのかもしれないし、
「男が傘張り職人として成功しますように」
だったのかもしれないし、
「男が早く自分の元に帰ってきますように、そして一緒に美味しいご飯が食べられますように」
だったのかもしれない。
女が両手で握りしめる簪。
この女の数百年にわたる思いの象徴だ。
滝にはわからない複雑な思い。
そんな色々な思いが少しでも軽くなるのなら、滝は女に言葉を届けたかった。
そして滝はさらなる考えを口にした。
「あと、これは完全に俺の仮説なんだけど……あんたの好きな男があそこまで頑張ったのって、あんたを幸せにしたかったからじゃないのかな。
もちろん傘を作るのが好き、っていうのもあったんだろうけど…あんた、大きな店の娘だったんだろう?
…お嬢様育ちのあんたに、少しでも裕福な暮らしをさせたかったんじゃないのかな」
滝の言葉に女は崩れ落ち両手で顔を覆った。
「それなら…それなら私はなんのために…!」
「…これはあくまで俺の仮説だから、本当のことはわからないけど…
でも、俺から見たあの男は、あんたといて、とても幸せそうに見えたよ」
「私は、ただ一緒にご飯を食べたかった、ただ一緒に一つの布団にくるまって眠りたかった、傘に油引きをして、二人で雨の日に並んで歩きたかった……それだけ…それだけだったのに……!」
慟哭する女に滝は何を言っていいのかわからない。
失われて二度と戻らないものに対して嘆く存在に、軽々しく言える言葉なんてなかった。
「答えは出たか」
その時、背後から冷静な声が響いた。
振り返ると男が凪いだ目をしてそこに立っていた。
「………」
滝は開きかけた口を閉じる。
滝は、女がここに至るまでの過去を見た。
きっと女はあれからいくつもの罪を重ねてきたのだろう。
女はその行動の責任を取るべきだ。
理屈ではわかっているのだ。
だけど、このままこの女を消してしまっていいのだろうか。
結局滝は答えを出すことができなかった。
「――お願いがあります。私を消してください」
女の静かな声が響いた。
その言葉に驚く滝に女は笑った。
「私ずっと苦しかったの。悲しかったの。憎かったの。――そして、戻りたかったの。
あの、二人で布団にくるまって笑い合った頃に。
だけど、それを私は自分で壊してしまった。
言えばよかったのにね。もっと一緒にいたいって。
そうすれば……そうすれば違った未来が待ってたかもしれないのに――。
そして私は許されないことをした。
あの女の人も、たくさんの人間も……愛する男も、この手で殺めてしまった。
これは、決して許されることではない」
見つめることしかできない滝に女は目を細めた。
「あなたの言ってくれた言葉が、本当のことかどうかはわからない。
だって、私が壊してしまったから。
それでも、あなたの言葉に私は救われた。
これでやっと終われる。
ありがとう――。
ああそうだ、最期に一つだけ。
あなたには私の名前を覚えていてほしいの。
私がこの世に存在した唯一の証だから。
私の名前は―――。
ああ、駄目ね、私はあまりにも長く憎しみに囚われすぎて、自分の名前すら忘れてしまった」
諦めたように笑って女は男を見上げた。
「お願いします」
「その願い、聞き届けよう」
掲げられた男の手のひらから舞う、無数の小さな白い光が女を包み込んだ。
女の「本当の終わり」を表すその光景はなぜかとても美しかった。
滝はたまらず叫んだ。
「夕日――!」
「え……?」
「夕日って、どうかな。あんたの名前。
初めて会った時の夕日も綺麗だったし、赤い傘も、簪も、夕日みたいに綺麗だから……だから――!」
女は花の様に微笑んだ。
その笑みは、女が男に蛇目傘をもらった時の笑顔ととてもよく似ていた。
「ありがとう……夕日…これが、私の名前……素敵な名前。ふふ、最期にとても素敵なものをもらってしまったわ。ありがとう」
そして女は消えた。
光の残滓がきらきらと月明かりを反射して輝く。
とても綺麗だ。
ふと足元を見れば、そこに一本の簪が落ちていた。
夕日の簪だ。
簪を拾い上げ、滝は夕日であったものの残滓を眺める。
見上げながら滝は思う。
思ってしまった。
羨ましいと。
男と滝は、確かに鎖を結んだ。
だけど、男はあの時こう言ったのだ。
「お前に刻まれた業は、『未来永劫の転生を繰り返しその度惨めに生き惨めに死ぬこと』だ」
と。
滝は男と鎖を確かに結んだ。
これからは他者とも鎖を結ぶことができると言う。
きっと滝の人生はこれから変わっていくのだろう。
だけど
『未来永劫輪廻転生を繰り返しその度惨めに生き惨めに死ぬこと』
この業は消えないのではないだろうか。
男もこの先どうなるかわからないと言っていた。
色々な人と鎖を結び、人生が変わったとしてもこの業からは永遠に逃れられないのだとしたら――。
その時、自分はどうなってしまうのだろう。
「なあ」
滝は男に話しかけた。
夕日の残滓はもうすでに消えかけている。
「なあ、もし俺が大きな――輪廻の輪に戻れないくらいの大きな罪を犯したら、お前が俺を消してくれるか?」
「そんなことはない。俺がさせない」
「それでももし――もし、俺が罪を犯したら」
薄く水の膜を張ったような大きな瞳に滝の顔が映る。
25年生きてきた、そしてこれからも生きていく白水滝の顔だ。
その首には乳白色の首輪が輝いている。
見つめる滝に男は宣言した。
「約束しよう。その時は、俺がお前を消滅させる。輪廻の輪に二度と戻れないように」
それを聞いて笑った滝に男は言った。
「おい、俺に名前をつけろ。
お前が俺を現世に縛り付ける名だ」
「名前?」
「お前が名前をつけてこの契約は初めて成立する」
「名前……」
夕日の最後の残滓が消え、男の姿が闇に浮かび上がる。
滝は思う。
この先、たとえ消えない罪に押しつぶされそうになって、全てを終わらせたいと思う日が来ても、きっとこの夜を思い出す。
この、男と交わした約束を。
逃れられない罪を犯した滝を、最後に救ってくれる約束を。
だから滝は男の名前を呼んだ。
この黒よりも黒い夜を従えた男の名を。
「夜束(やつか)」
それでもどうか最後はあなたに救ってほしいのです
第一章 おわりとはじまり 完
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