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第7話

 女は、大店の娘だった。  裕福な家に生まれ容姿にも恵まれた女は、周囲から大事にされて育った。  そんな女は、ある時恋をした。  相手は貧乏な旗本の次男だった。  男は禄もなく、傘張り職人として生計を立てていた。  その日、お使いの途中で雨に降られた女が軒下で止むのを待っていると、格子戸がわずかに開き、傘が一本差し出された。  驚いて振り返ると、そこにはくたびれた冴えない男が傘を持って立っていた。  女が小さく目を見開くと、男は 「どうぞ」  ともう一度傘を差し出す。  綺麗に油引きされた赤い蛇目傘はまだ新しいように見えた。 「でも、これは新しいものなのでは?」 「いいんです、いいんです。それよりもまだまだ止みそうにないですから、どうぞ持っていってください」 「でも…」 「どうぞ使ってやってください。ほら、どんどん雨足が強くなってきましたよ。道中、お気をつけてお帰りください」  男は女に傘を押し付け、小さく頭を下げて格子戸を閉めた。  女はしばらく傘を握りしめて呆然とした後、深く頭を下げて傘を広げた。  雨で滲む空にぱっと赤い花が咲く。  綺麗な、傘。  女はどこか落ち着かない気分を抱え、小さく微笑みながら家路を急いだ。  女が男に惹かれるのはとても自然なことだった。  それから女は毎日男の家を訪れるようになった。  傘は返そうとしたが受け取ってもらえなかった。  あの時借りた傘が、その日出来上がったばかりの傘と知ったのはだいぶ後のことだった。  それを知ってから赤い蛇目傘は女の宝物となった。 「毎日雨が降れば毎日持ち歩けるのに」  そう言うと男は照れたように笑った。  女はますます男が好きになった。  しばらくして、女と男は夫婦になった。  大店の娘とろくに稼ぎのない傘張り職人。  当然ながら女の父親は大反対した。  駆け落ち同然で夫婦の暮らしを始めた二人には、隣の夫婦の声まで筒抜けになる狭い長屋暮らしでも、麦が数粒とくず野菜を煮込んだだけの質素な食事でも、それでも十分に幸せだった。  特に好きだったのは綿がほとんど入っていない煎餅布団に夜着をかけて二人でくるまり、声を潜めて話すことだった。  男は女のたわいもない話をよく聞いてくれた。  女が話して、男が笑う。  主に話すのは女だったが傘の話になれば男は雄弁だった。  楽しそうに話す男が、女は好きだった。  ある日、出かけた男が嬉しそうに帰ってきた。  聞けばどこかの大店が新しく茶屋を始めるとかで、大きな野点傘(茶屋や街道沿いに添えられた大きな傘)を数本所望しているのだという。  完成を急いでおり、複数の職人が共同で作ることになったそうだ。  腕のいい男は、その大役に抜擢されたというのだ。  女は飛び上がって喜んだ。  男が本当に傘を作ることが好きなのを知っていたから。  その日は「よかったね、よかったね」と言い合いながら奮発して大根飯とくず野菜の味噌汁でお祝いした。  普段滅多に味噌汁を作らない女は、味噌を入れすぎてしまったがそれも二人で「しょっぱいね、ちょっとしょっぱい」と笑いながら食べた。  次の日から男の仕事が始まった。  毎日朝早く出かけ、夜遅く帰ってくる。  男は楽しそうだった。  同じ傘張り職人同士、共に仕事をすれば得るものが大きいのか男はよく仕事の話をした。  下事(したご。傘の骨組みを作る作業)は誰々が丁寧、油引き(和紙に植物性油を塗り撥水性を高める作業)だったら誰々がむらなく塗る、と嬉しそうに話す。  女はそれを笑いながら聞いた。  茶屋での仕事が評判となり、男は親方がいる大規模な作業場で働くこととなった。  給金は安定し、明日の飯に困るようなことはなくなった。  大根飯は白米となり、漬物に豆腐の入った味噌汁が食べられるようになった。  しかし食べ物の質が上がるにつれ、男が家にいない時間が多くなっていった。  本当に忙しく、充実した日々を送っていることはわかっている。  だから女はそろそろ油引きをしなくてはいけない、赤い蛇目傘のことを言い出せないまま日々は過ぎていった。  ある日、内職の草履作りをしていた女は、夜半に居眠りから目を覚ました。  はっとして目を開けば行灯の灯りが頼りなく揺れた。  男は今日も帰ってこない。  頑張っているのは知っている。  男が傘作りにかける思いも知っている。  だがふと、女の思考に魔が差した。  本当に仕事だけなのだろうか。  慌てて女は首を振った。  馬鹿げている。  あの人はそんな男ではない。  信じている。  なのに。  煎餅布団で夜着をかぶりながら笑い合った夜があまりにも遠く感じた。 「早く帰ってきて…」  小さな声は誰に届くことなく闇に紛れて消えた。  今日も男は帰って来ない。  今日だけじゃない。  昨日も。  その前の日も。  その前の日も。  男の作る傘は評判が良く、今では男を指名した仕事も多く入ってくるようになった。  何日か前に、 「忙しくて目が回りそうだよ」  と笑いながら出て行ったきり男は帰ってこなかった。  女は草履を編む手を止めてぼんやりと思う。  本当に、仕事なのだろうか。  あの日一度胸に湧いた疑念は簡単には消えてくれなかった。  忙しいのはわかってる。  本当に仕事が好きなこともわかってる。  けれどもし、どこかに飲みに行っていたら?  他の女と会っていたら?  最近は手先が器用で繊細な傘を作る男に、女性の固定客が多くついたと聞く。  その女達と会っていたら?  いや、今日会わなくても明日会うかもしれない。  明後日会うかもしれない。  私には、この油引きもされていない古びた蛇目傘しか残っていないのに。 「いやよ…いや…」  そんなことは、認められない。  気がつくと女は町を徘徊していた。  ゆらゆら。  ゆらゆら。  あの人はどこ?  何をしてるの?  誰といるの?  ゆらゆら。  ゆらゆら。  そうしながら彷徨っていると、  夜中に井戸に水を汲みにきた女と目が合った。  最初ぽかんと口を開けていたその女の目が恐怖で見開かれる。 「きゃああああ!生首――!!」  大きく響く金切り声に女は我に返り、辺りを見回した。  二人で暮らす、狭い長屋。  今のは夢だったのか。  なんだかずいぶんと遠くまで行っていた気がする。  息をついてふと、鏡台を見やった女は凍りついた。  女の首は不規則にゆらゆらと揺れ、長く伸びていた。  今日も男は帰って来ない。  今日だけじゃない。  昨日も。  その前の日も。  その前の日も。  雨と蝿の羽音が低く響いた。  目を細めれば小蝿が数匹、昨日の夜作ったままの膳に湧いている。  梅雨の時期は食の傷みが早い。  このまま放置すれば虫が増える。  片付けなければいけない。  そうは思うものの女は動くことができないでいた。  あれから味噌汁だって上手に作れるようになった。  具もくず野菜ではなく、良い豆腐や青菜、芋だって入ってる。  もうしょっぱいだけの味噌汁ではない。  なのに、あの人は食べてくれないのだ。 「おいしいね、おいしいね」  そう笑いながら一緒に食べたいだけなのに。  ふと、部屋の隅に打ち捨てられたように置かれている赤い蛇目傘が目に留まった。  膝で這うように近づき傘を手に取る。  早く油引きしなければ、紙が乾燥して破れてしまう。  こんな雨の日こそ、一緒に傘をさして歩きたいのに。  ぼんやりと傘を久しぶりに広げる。  女は目を見張った。 「あ、あ、あ、あ………」  長く油引きされていなかった赤い蛇目傘は開いた瞬間、複数の骨組みに沿って破けていった。  壊れてしまう。  赤い蛇目傘、あんなに綺麗だったのに。  女は傘を閉じ胸に強く抱きしめた。 「どうして…」  どうして、あなたはここにいないの――!  涙を流す女の首はゆらゆらと長く揺れていた。  壊れた蛇目傘を抱えた女は町を歩いた。  朝からの長雨が続く夜、人々は固く戸を閉ざし、外にいるものは誰もいない。  しとしとと降る雨が女を濡らしていく。  雨で乱れた髪が顔に張り付くのをそのままに歩く女の首は、不自然なほど長く伸びている。  男のいる新しくできた作業場は、簪屋が新しく立ち上げた傘屋のために作ったものだ。  確か大通りから裏に入った通りにあったはず。  記憶を辿りながら歩くと、見た覚えのある看板が目に入った。  簪屋と、その隣に傘屋。  やはり戸は固く閉ざされている。  裏手に回るとそこには作業場らしき小屋があった。  少し開いた窓からわずかに漏れる灯りと密かな声に気づいた女は、首を伸ばして覗き込んだ。  その瞬間、女の瞳孔が大きく開いた。  男はいた。  その手に赤い飾りがついた平打ちの簪を大事そうに抱え、隣にいる女に話しかけている。 「――!!」  女は抱えた傘をぎゅっと握り込み閉じられた格子戸を叩いた。  話し声が止み、ややあってから若い女の声が響く。 「はい?」  扉が開いた瞬間女はその若い女のすっきりとした白い首筋に噛みついた。  いつのまにか鋭く伸びた歯は若い女の動脈を食い破っていた。  赤い血が吹き出し女の顔を赤く染める。  言葉を発することなく若い女は絶命し、ずるずると女にもたれながら倒れていった。  遮るものがなくなった視線の先で、男は驚愕に目を見張り女を凝視した。  その手には黒い軸に赤い飾りが付いている簪が握られている。  つやつやと光る簪は、まだ真新しいもののように見えた。 「お前……なんで…」 「……この女には綺麗な簪をあげるのね。私にはこの壊れた傘しかなかったのに」  固まる男に女は首を伸ばし噛みついた。 「ああああああ憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い……!!!」  男の手から簪がこぼれ落ちた。  艶やかな黒い軸が血で赤黒く染まっていく。  我に返った女がそれに気づいたのは、男が絶命してからだいぶ経った頃のことだった。  絶命してしまった男の顔をまじまじと見る。  連日の疲れのせいか目の下にはクマができ、顎下には無精髭が生えている。  そして目は驚愕に見開かれていた。  これが最期に見る男の顔になるなんて。  こんなはずじゃない。  こんなことをしたかったわけじゃない。  私はただ、二人で美味しいご飯を食べて、雨の日に傘を差して並んで歩いて、薄い煎餅布団に二人で転がって笑い合いたかっただけなのに。  たった、それだけだったのに。  女は男を抱きしめながら泣き崩れた。

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