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第1話

『お裾分け』 第一話 ボルシチ  午前六時。  鈴木はじめは、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。 「んー……。」  布団の中でしばらくゴロゴロ、伸びをして、枕元のアラームが鳴り始めたスマートフォンに手を  伸ばす。六時二分。 「あら。二分負けたわねぇ。」  誰に言うでもなく呟いて、起き上がった。  カーテンを開ける。  九月に入ったとはいえ、朝の光はまだ夏の名残を残している。  稲毛海岸駅から歩ける距離にある、ごく普通の賃貸マンション。  その一室。六畳の部屋と、小さなダイニングキッチン。  四十八歳の男が一人で暮らすには、はじめにとって充分だった。 「さて。今日は……午前中に一件納品。修正が来たら午後。洗濯して、お買い物して……。」  口に出しながらキッチンへ向かう。  冷蔵庫を開け、卵と納豆を取り出した。  冷凍庫からは、小分けにしてある自家製の味噌玉。  湯を沸かしながらフライパンに卵を落とす。味噌玉を椀に入れ、乾燥わかめを少し足す。  豆腐とオートミールで作った、ご飯代わりのものを電子レンジへ。  六時半には、いつもの朝食ができあがった。 「いただきます。」  パソコンの画面でニュースを眺めながら納豆を混ぜる。

 いつものモーニングルーティンだ。  食べ終わったら紅茶を淹れる。  パソコンから、動画が流れ始めていた。内容は聞き流してるし、画面も観てない。  七時を少し回ったところでシャワーを浴びる。  Tシャツとニットトランクス。  外へ出る予定がない時間なら、これで十分だ。  七時半。  洗濯機を回す。  その音を背中で聞きながら、コロコロでカーペットの上を軽く掃除。 「よし。」  そして愛用のMacBook Neo、艶消しメタリックなピンクが気に入っている。  画面に向かい合う。  いつもの一日が始まった。      *  午前七時。  隣の部屋で、晴田 輝(はるた きらり)は目を覚ました。 「…………。」  目の前に、段ボール箱があった。  何が入っている箱だったか思い出そうとして、その横にも箱があることに気づく。  さらに、その向こうにも。 「……あ。」  スマートフォンを見る。 「やばっ!」  跳ね起きた。  引っ越して、まだ日が浅い。  勤務先が用意してくれた部屋はありがたかったし、稲毛海岸という場所も気に入っている。  埼玉で育った輝にとって、歩いて海へ行けるというだけで、なんだか得をした気分だった。  ただし。 「練習着、どこ入れたっけ……!」  生活は、まだ完成していなかった。  段ボールを一つ開ける。  違う。  二つ目。  これも違う。 「昨日ここに入れたよな……?」  正確には、自分で入れたのだから誰にも文句は言えない。  ようやく目的のものを見つけ、慌ただしく着替える。  冷蔵庫から水を取り出して一気に飲んだ。  朝食はどうする。  考える。  考えている時間がない。 「途中で買おう。」  そう決めてバッグとヘルメットをつかみ、玄関を飛び出した。      *  廊下へ出たところで、ドアが開いた。 「あら。」 「あっ。」  隣の住人だった。  何度か顔を合わせている。  小柄で、少しふっくらしていて、いつも柔らかい話し方をする男性。 「おはようございます!」 「おはよ〜。早いのねぇ。」 「はい。ちょっと寝坊して」 「あら大変。気をつけて行ってらっしゃい。」 「ありがとうございます! 行ってきます!」  輝は頭を下げ、そのまま廊下を駆けていった。

 しばらくして、スクーターのエンジン音。SUZUKIのZOOMERだ。  はじめは、その後ろ姿を見送った。 「あら、良い趣味してる。元気ねぇ。」  手には、ゴミ袋。  二人の出会いは、最初、それだけだった。      *  午前九時半。  洗濯物を干す。  十時から、もう一度パソコンに向かう。  十一時。 「はい、終わり。」  データを送信して、MacBook neoを閉じた。  修正依頼が来るまでは自由だ。  少し動画を見て、十二時になったら昼食。  電子レンジでパスタを作る。早茹でパスタとスープの素とお湯、具材を入れて、4分。

 電子レンジから、完了の音楽が流れた。取り出した容器に、シュレッドチーズをひとつかみ  入れて混ぜ混ぜ。これが美味しいのだ。  食べ終わった容器にパンを一切れ。  残ったソースを拭うようにつけて食べた。  デザートは作っておいたカスピ海ヨーグルトと、マルチビタミンのゼリー。
 錠剤のサプリメントを友人に勧められたが、体質に合わなかったようだ。  洗い物まで終えて、十三時。  午後も二時間ほど仕事をする。  十五時を過ぎた頃には、すっかり今日の仕事は片付いていた。  洗濯物を畳み終え棚に入れる。そこから、はじめは冷蔵庫を開ける。 「さて。今日どうしようかしら。」  キャベツが少し残っている。  にんじんもある。  玉ねぎ。  普段は買わない牛肉。特売だったのだ。  しばらく考えて、冷蔵庫の野菜室をもう一度見る。 「あ。ビーツの水煮があったわね。」  数日前、やはり安くなっていたので買っておいたものだ。 「じゃ、ボルシチにしましょ。」      *  買い足したのは、足りない野菜とちょうど切らしていたハーブ。そして赤ワイン。  これははずせない。  十六時半。  鍋に火を入れる。  玉ねぎ。  にんじん。  キャベツ。  大根。  ビーツ。  食べやすい大きさに切った肉。  水を入れて、ローリエを二枚。 「はい。あとは、のんびり待ちましょ。」  弱火で煮る。  途中で灰汁を取り、コンソメを加える。  塩。  胡椒。  味を見る。 「んー……。」  もう少し。  はじめは醤油の瓶を取った。  ほんの少しだけ。  鍋に落とす。  もう一度味を見る。 「うん。これね。」  別に、ロシア料理に一家言あるわけではない。  ただ、この味が好きだった。  一時間半ほど煮ると、鍋いっぱいのボルシチができあがった。 「……また作りすぎたわねぇ。」  鍋を見下ろす。  一人暮らしなのに、煮込み料理を作るといつもこうなる。  明日も食べればいい。  冷凍してもいい。  そう思ったところで。  ふと、朝の青年を思い出した。 「……お隣さん、帰ってるかしら。。。」      *  輝が帰宅したのは、十九時を少し過ぎた頃だった。  シャワーを浴びる前に、冷蔵庫を開ける。 「……何食おう。」  自炊はできる。  競技を続けている以上、食事についても自分なりに考えてきた。  鶏肉を焼くか。  卵もある。  野菜も――。  ピンポーン。 「はい?」  インターホンを見る。  隣の人だった。  ドアを開ける。 「あ、こんばんは。」 「こんばんは〜。ごめんなさいねぇ、突然。」  はじめは、保存容器を一つ持っていた。 「あのね。ボルシチ作ったんだけど、作りすぎちゃって。」 「ボルシチ?」 「そう。もし嫌いじゃなかったら、食べる?」  輝の表情が変わった。 「えっ、いいんですか?」 「もちろん。お裾分けよ。」 「俺、ボルシチ好きです!」 「あら、そうなの?良かった。」 「大学のとき、ロシアの選手と仲良くなって。そいつに連れってってもらった店で、  初めて食べたんです。」 「へえ〜。じゃあ、お口に合うかしら?あたしの、だいぶ家庭料理だけど。」 「食べたいです!」  あまりに迷いのない返事に、はじめは笑った。 「ふふ。じゃあ、どうぞ。」 「ありがとうございます!」  容器を受け取る。  まだ温かい。 「今日食べるなら温め直して。ご飯でもパンでも合うから。」 「はい!」 「じゃあ、おやすみなさい。」 「おやすみなさい!」  ドアが閉まる。  輝は手の中の容器を見た。 「……うまそう。」      *  電子レンジで温め直すと、部屋の中に匂いが広がった。  赤いスープ。  柔らかく煮えた野菜。  牛肉。  輝は大きめの器によそった。 「いただきます」  一口。 「……うま。」  もう一口。 「うまいな、これ。」  大学時代に食べたものとは、少し違う。  でも、ちゃんとボルシチだった。  それに、どこか馴染みのある味がする。 「なんだろ?」  考えながら食べる。  結局、分からなかった。  パンがなかったので、ご飯と一緒に食べた。  練習後の身体には、それもよかった。  気づけば、器は空になっていた。  保存容器も洗う。 「明日返そう。」      *  翌朝。  午前六時。  はじめはいつも通り目を覚ました。  朝食を作って、ニュースを見て、シャワーを浴びる。  七時半。  洗濯機を回そうとしたところで、インターホンが鳴った。 「あら、こんなに早い時間に誰かしら?」  モニターを見る。  輝だった。 「はーい。」  玄関を開ける。 「おはようございます!」 「おはよ〜。どうしたの?」  輝が、昨日の保存容器を差し出した。 「これ、ありがとうございました!」 「あら。わざわざ朝からいいのに。」 「昨日、全部食べました。めっちゃうまかったです!」 「ほんと?」 「はい!」  その顔を見て、はじめも笑った。 「良かったわ〜。」 「あの、なんか普通のボルシチとちょっと違いますよね?」 「あら、分かった?」 「何か入ってます?」 「ふふ。」  はじめは容器を受け取る。 「お醤油。ほんのちょっとだけね。」 「醤油!?」 「そうよぉ。入れすぎたら台無しだから、ほんの少し。」 「へえ……。」  輝は感心したように頷いた。 「今度、自分でもやってみます。」 「あら、料理するのね。」 「一応。競技やってるんで、食事は自分でも作ります。」 「へえ〜。偉いじゃない。」 「いや、普通っすよ。」 「ふふ。じゃあ今度、何かおすすめ教えてね。」 「はい!」  輝は笑った。 「じゃ、行ってきます!」 「はい。行ってらっしゃい。」  ドアを閉める。  はじめは、きれいに洗われた保存容器を見る。 「……律儀な子ねぇ。」  キッチンへ戻り、容器を棚へしまった。  洗濯機のスイッチを押す。  いつもの朝が続いていく。    隣の部屋が空になり、また夜になれば住人が帰ってくる。  昨日までと、何も変わっていない。  ただ。  棚には、一度隣へ行って帰ってきた容器があった。  ただ、それだけの日常だった。

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