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第1話 今日は、何も決めなくていい
「俺が決めます」
そう言った瞬間、会議室に張っていた空気が少し緩んだ。
企画は三案。そのうち一案を通す。
遅れている工程には人を回す。
今朝届いた追加要望は次のフェーズへ送る。
部長も部下も、最後は俺を見る。
だから俺、佐伯玲司が決める。
「二案目で行きます。追加要望は今回は外してください。先方には俺から説明します」
返事が重なり、みんなが動き始める。
これでいい。
俺はプロジェクト責任者だ。
判断して、責任を取る。
それが俺の仕事だった。
会議室を出ると、同期の蒼井が壁にもたれていた。
「また言ってたな」
「何を」
「俺が決めます」
「仕事だからな」
「昨日は昼飯の店。その前は飲み屋。帰りのタクシーもお前が決めた」
「誰も決めねぇからだろ」
「休日も全部そう?」
俺は足を止めた。
「お前、俺のこと見すぎじゃない?」
蒼井は笑った。
七年の同期。
今では俺と同じ規模の案件を持つ責任者。
そして、Dom。
俺はSub。
お互い知っている。
会社でそれを持ち込んだことは一度もない。
「玲司。土曜、家いる?」
「いるけど」
「行く」
「何しに」
「それくらい俺が決める」
妙に胸が騒いだ。
「勝手に決めんな」
「ほら」
「何が」
「決められるの嫌そうにしてるくせに、ちょっと嬉しそう」
「殴るぞ」
蒼井は楽しそうに笑っていた。
****
土曜の朝。
目を覚ました瞬間から、洗濯、買い物、月曜の資料、クリーニングの順番が頭に並んだ。
あと二十分寝るか。
いや、その間に洗濯機を回した方がいい。
考えているところでインターホンが鳴った。
玄関を開けると、蒼井が朝飯を持って立っている。
「何時間寝た?」
「四時間半」
「それ寝たって言わない」
「寝ただろ」
「朝飯は?」
「今から何食うか――」
「はい。また考えた」
紙袋を持ち上げられる。
「今日は俺が決める」
「調子乗んな」
「Sit」
身体が先に反応した。
俺は椅子へ腰を下ろしてから、蒼井を睨む。
「……今のずるい」
「効いた?」
「知らん」
「Look」
反射的に顔を上げた。
蒼井の目が楽しそうに細くなる。
「ほんと素直」
「会社で言ったら殺す」
「言わない。俺だけ知ってる方がいい」
胸が跳ねた。
こういうことを平然と言うから困る。
午後、俺が仕事用PCへ手を伸ばした時もそうだった。
「Stay」
指が止まる。
「メール見るだけ」
「見たら返信する」
「緊急なら」
「今日は俺のせいにしろ」
「馬鹿じゃねぇの」
「今だけ預けろよ。やるか、やらないかも、俺に」
そんな理屈が通るわけがない。
なのに。
肩から力が抜けた。
蒼井がそれを見逃さない。
「Good」
「……っ」
「今、声出た」
「出てない」
「出た」
「うるさい」
「Good boy」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
俺は睨んだ。
蒼井は笑った。
完全に分かっている。
それが悔しくて。
嬉しかった。
****
夕方。
映画を見ながらソファに並んでいるうち、俺は蒼井の肩に寄りかかっていた。
「眠い?」
「少し」
「寝れば」
「映画見る」
「もう内容入ってないだろ」
額に触れられ、そのままキスされた。
最初は軽い。
唇が触れて、離れる。
俺から追えば、蒼井が笑った。
「玲司から来るんだ」
「嫌ならやめる」
「誰が嫌って言った」
今度は蒼井から深くなる。
背中へ腕が回り、髪を撫でられる。
耳の後ろへ触れられた瞬間、肩が跳ねた。
「そこ弱い?」
「知らない」
「じゃあもう一回」
「っ……試すな」
首筋へ唇が移る。
俺は蒼井の服を掴んだ。
「玲司」
「何」
「感じてる?」
「ふざけるな」
「ほんと?」
「うるさい」
まだ余裕がある。
言い返せる。
蒼井も笑っている。
ベッドへ移ってからも、最初はそんな調子だった。
キスをして、抱き合って、触れられた場所から少しずつ熱くなる。
俺も蒼井の弱いところを探して、反応すればからかう。
「お前も結構弱いじゃん」
「黙れ」
「Dom様、余裕ない?」
「今に見てろ」
「怖」
笑いながら、また唇が重なった。
そこまでは普通だった。
****
俺がもっと近づこうと腰を寄せた瞬間。
「Stay」
身体が止まった。
恋人として抱かれている最中に、不意にDomの声が差し込まれる。
それだけで、熱の質が変わった。
「……今それ使う?」
「使う」
「ずるい」
「Look」
目を合わせる。
蒼井は俺の反応をじっと見てから、少し笑った。
「ははーん」
「何」
「もっと深い方が好き?」
「ば、馬鹿。違う」
「どうかな」
ぐっと強く抱き寄せられる。
さっきより深く届く感覚に、身体が勝手に跳ねた。
「あっ♡」
声が漏れた。
蒼井の目が一気に楽しそうになる。
「今のいい声」
「言うな」
「Good boy」
「あぅ♡ ……それ、重ねんなって」
身体で感じたところへ、Rewardがそのまま重なる。
胸の奥まで甘く痺れた。
「ほら。好きじゃん」
「違……」
「Look」
「……っ」
「俺の目見て、もう一回言ってみろよ」
目が合う。
蒼井がわざと同じところを攻める。
「あっ♡」
否定する言葉が飛んだ。
蒼井が笑う。
「正直」
「バカ……」
「Good boy」
「っ♡ だから、それ今言うな」
余裕が少しずつ削れていく。
さっきまでなら「うるせぇ」で返せた。
今は、声の途中に喘ぎが混じる。
「玲司、もっと欲しい?」
「……知らな、い♡」
「俺は知ってる」
「勝手に決めんな」
「今日は俺が決める日だろ」
「それ、今まで有効なのかよ」
「有効」
また深く抱かれ、俺は蒼井の肩にしがみついた。
「っ、あ♡」
「いい?」
「……うるっせぇ♡」
「可愛い?」
「自分で言うな♡」
蒼井が笑う。
俺も笑いたい。
でも、もう余裕がない。
****
「玲司」
声を掛けられる。
返事をしようとしても、呼吸が先に乱れる。
「……なに」
「まだ強がる?」
「うるさ……」
「Stay」
身体を止められる。
そのまま焦らされる。
もう少し。
あと少し。
欲しいのに、蒼井が決める。
「蒼井」
「ん?」
「……もう」
「もう何?」
「分かってるだろ」
「分かってる。でも今日は、お前がどこまで欲しがるか見たい」
ひどい。
俺の隠しているところを、こいつは全部引っ張り出そうとしている。
「……意地悪」
「嫌?」
「嫌じゃ……ない♡」
「Good」
「っ♡」
また。
Rewardが刺さる。
もう会話が続かない。
「蒼井、俺……やばい」
「何が?」
「いきそう」
「まだ」
「だ、ダメ♡ 無理、いく♡」
「Stay」
「むり……っ♡ お願い」
「お願い?」
「お願いだから……♡」
自分でも信じられない。
普段の俺なら絶対言わない。
仕事で誰かに「お願い」なんて言う前に、自分で決める。
でも今は。
蒼井に決めてほしい。
もっと焦らしてほしい。
もっと俺が欲しがっているところを当ててほしい。
頭がふわふわして。
恥ずかしいという感覚まで薄くなる。
これがSubspaceなのだと、どこか遠くで思った。
でも、その名前すらどうでもいい。
蒼井が欲しい。
それだけだった。
****
「玲司」
蒼井の声が近い。
「Look」
ぼんやり目を開ける。
「何してほしい?」
もう、考えない。
考えられない。
だから。
本当に欲しいことだけが口から出た。
「もっとして♡」
蒼井の目が変わる。
「もっと?」
「うん♡」
「どこまで?」
「もっと深く♡ 俺の奥まで♡」
「……玲司」
「お前の好きにしていいんだから♡ もっと、もっとして♡」
言った瞬間。
蒼井が息を呑んだ。
今までの余裕が、一気に消えた。
「やばい」
「なに……♡」
「お前、それ反則」
「なんで」
「こんな可愛く頼まれて、平気でいられるわけないだろ」
声が掠れている。
それが嬉しい。
俺だけが崩れているんじゃない。
俺の本音を引きずり出した蒼井自身が、その本音にやられている。
「可愛い。ほんと無理」
「……もっと言って♡」
「Good boy」
「あっ♡」
「俺に全部任せてる玲司、最高に可愛い」
「もっと♡」
「Good boy」
「ぁ♡ それ、好き……♡」
もう隠さない。
ドMだって思われてもいい。
こいつになら。
「蒼井、もっと♡」
「うん」
「俺の好きにしていいって言っただろ♡」
「それ、俺に言わせる?」
「早く……♡」
蒼井が笑った。
でも余裕はなかった。
「こんなの、たまんねぇ」
「蒼井……♡」
「俺のSub、可愛すぎ」
「……うん♡」
その返事で、蒼井まで完全に崩れた。
****
最後は、どっちがどっちを煽っているのか分からなかった。
俺が「もっと」と言えば、蒼井が応える。
蒼井が「Good boy」と言えば、俺の理性がさらに飛ぶ。
互いの息が乱れて、抱く腕が強くなる。
「玲司」
「ん♡」
「もう無理」
「俺も……♡」
「一緒に?」
「一緒に♡」
蒼井が俺を強く抱き締める。
「Good boy!」
その声に追い打ちされて、俺は完全に限界を越えた。
「いくぅ……っ♡」
蒼井も同時に崩れる。
二人とも余裕なんて残っていなかった。
****
しばらく。
蒼井は離れなかった。
俺も、離れようとは思わなかった。
呼吸が少し戻ってきてから、蒼井が髪を撫でる。
「可愛かったぞ」
「……お前、ちょっとやりすぎ」
「でも?」
「……良かった♡」
まだ声に甘さが残る。
蒼井が嬉しそうに笑った。
「Good boy!」
「あっ♡ バカ、今また言うな」
「まだ効く?」
「効くから怒ってんの」
「じゃあ、また欲しくなっちゃえよ」
「最悪」
蒼井が俺の顎を軽く上げる。
「Look」
目が合う。
さっきまでなら、それだけでCommandとして身体が反応した。
今は。
少しだけ余裕が戻っている。
「……意地悪♡」
「好き?」
「……好き」
蒼井が笑った。
「俺も」
キスする。
今度はCommandでもRewardでもない。
ただ。
好きな男とするキスだった。
それでも。
さっきよりずっと甘かった。
****
翌朝。
コーヒーの香りで目を覚ました。
リビングへ行くと、蒼井が朝飯を作っている。
「パンと米、どっち」
「パン」
「了解」
ちゃんと自分で決める。
俺は決められない人間じゃない。
仕事でも。
生活でも。
ただ。
好きな男と二人の時くらい。
自分で隠しているものを、こいつに暴いてほしい。
「蒼井」
「ん?」
「今夜も」
「またしたい?」
「……うん」
「どうしたい?」
少し恥ずかしい。
それでも、昨日みたいにもう誤魔化さない。
「途中から、お前が決めて」
「了解」
「あと」
「何」
「……昨日みたいに、ちゃんと俺の本音当てろ」
「難易度高いな」
「Domだろ」
「任せろ」
蒼井が笑う。
俺も笑った。
好きだと言うだけでも、いつかはここまで来られたのかもしれない。
でも。
俺にはDomの恋人がいた。
だから。
隠していた一番恥ずかしいところまで。
思ったよりずっと早く。
この男に見つけてもらえた。
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