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第1話
レミージョ・ヒル著「スティヴァレッティ・ファミリー 最後の戦争と終焉」
(フーズリーディング社・2024年抜粋)
『「棘の犬に連絡しろ」
男は紫煙を吐き、指に挟んだ葉巻の穂先を、窓の外で輝く一月のニューヨークの夜景に向けた。上等な黒のスーツを着込み、革張りのデスクチェアに身を沈めるその背後には、オークのデスクやソファ、書棚などの調度品が揃った部屋が広がっている。ホテルの最上階に設けられたオーナールームに相応しい豪勢な内装だが、それに背を向けている彼と、その背中を見つめて立つ私の表情は固かった。
「お言葉ですが、ドン・スティヴァレッティ」
私は、このドメニコ・スティヴァレッティ――マフィア組織スティヴァレッティ・ファミリーの首領にして、ニューヨークの陰を統べる男――の顧問として数十年仕えてきた。それでも、こうして会話をするたびに全身に緊張が走る。「彼は……『棘の犬』は今、別件で出払っています。それにファレーナ・ダストのような小規模なギャングのために、彼は必要でしょうか?」
「その小規模なギャングが、今この瞬間も、我々の縄張りを蝕んでいるんだぞ」
彼の声には六十歳を迎えた貫禄だけでない、組織と街を統治してきた者に相応しい凄みがあった。彼は葉巻を咥えて一吸いし、煙を口内で舐めてから、窓に映る自身に向かって吐き出す。
「遅かれ早かれ、奴と互いの商売で対立することは明らかだった。交渉のために遣いをやったが応じない。ドラッグは独自で開発したものだろう。回収したサンプルを知り合いに分析させたが、毒性が高すぎると報告があった――レミージョ、お前も帰りに近くの通りを見てみるといい。生きながらにして死んだ者が、昼夜を問わず死の行進をしている。その中には我々の顧客だった者もいる」
その時、ドメニコは激しく咳き込んだ。喉の奥で砂利を掻き混ぜるような音が鳴り、彼の持つ葉巻から立ち昇る煙が空中で乱れた線を描いた。私は近づいて手を伸ばしたが、彼が振り返って睨みつけてきたため立ち止まった。口の端に血が付着しているのが見え、私はスーツのポケットから清潔なハンカチを取り出すと、彼の葉巻と交換する形で手渡した。
「ご自宅で少し休まれては? もう何日もホテルに籠りきりでしょう」
「時間がない」ドメニコはハンカチで血を拭う。「今すぐ彼に連絡を取れ」
私はデスク上のダイヤル式電話機の受話器を取ると、ダイヤルを回し、受話器を耳に当てたまま、相手の応答を待つ。三度目のコール音の後、繋がった。
「ドンからです」とだけ言って、受話器をドメニコに手渡す。
ドメニコは片手に血染めのハンカチを持ったまま、もう一方の手で受話器を受け取って耳に当てる。
「私だ。久しいな。護衛を頼みたい……いや、対象は私の息子だ。ニューハンプシャーにいる。すぐ資料は送る。頼んだぞ」
そうして通話は終わった。短い会話だった。ドメニコは私に受話器を返した後、電話機の隣にある写真立てを手に取った。そこに収められているのは古いモノクロ写真――女性が一人、豊かな白髪に包まれて笑っている。ドメニコは黙ってしばらく彼女を見つめた後、裏の板を外して写真を取り出した。写真は二つ折りになっていて、女性の隣にあるはずの景色や人物は見えない。きつく折られていたせいか、折り目は白く浮いて薄くなり、今にも真っ二つに破けてしまいそうだった。
「これをブルネッラのところへ」
私は慎重にそれを受け取った。「では、始めるのですね」
「あぁ。ファレーナ・ダストを解体する」
「承知いたしました」私は頷いた後、再度ドメニコへ視線を向けた。
「ところで、なぜ『棘の犬』の護衛をあなたではなくご子息の方へ?」
「ギャングリーダーのギデオンは、邪魔になり得る者と、その関係者も全員殺す。この狂人がどうして今まで身を潜められていたのかはわからないが――とにかく、そうなれば奴は真っ先に私の息子を狙うはずだ。他に誰がいると言うんだ」
ドメニコは私が持つ写真へちらりと視線を向けた後、デスクチェアに座ったまま背後の窓へくるりと向き直った。暗いガラスに映る自分自身へ鋭い視線を向けている。
「息子はもう、火の粉を払うすべを忘れているだろう」』
ニューハンプシャー州は一月の厳しい寒さと雪に見舞われているが、月末に控えた予備選挙に向けて活気づいていた。毎年この時期になると、選挙の候補者達ははるばるこの北東部までやって来てダイナーに顔を出したり、熱いスピーチを披露したりしている。州間高速道路九十三号線近くにある町のダイナー「パピルス」は、まだ静寂を保っていた。
「ニコラさん! 大変です!」
厨房でポークビーンズの入った鍋を温めていたニコラは、突然の悲鳴に振り返った。
ホールと厨房を隔てる銀色の扉がまだ前後に揺れている。その扉の前で、ウエイトレスのサラが立ち尽くしていた。ニコラと同じ白いシャツに赤いチェックのエプロンを着て、ニコラとは対照的な細い腕で銀色の盆を抱えている。彼女の目は助けを求めていた。
きっとろくでもないことだぞと思いつつ、ニコラは落ち着いた声音を心掛ける。
「サラ、もしまた料理に黒髪が入っていたっていうクレームを受けたなら、本日、厨房には長い白髪のイタリア系アメリカ人しかいませんと言うんだ。ヘアネットもしていると伝えてくれ。それかミセス・キーンのところの孫兄弟がまた殴り合いの喧嘩をして、決着がつかないから俺に審判をしてくれって頼んでいるのなら、二人共もう十歳になったんだから自分達で解決しなさいと言うんだ。前みたいに、どっちかが転んだ拍子におでこをざっくり切ったっていうなら応急処置するが――」
「あの! お客さん同士が、お店の中で喧嘩を始めちゃったんです!」
堪えかねたように声を上げた彼女の視線が、ふいに居心地悪そうに逸れた。「その、こういうことが起こったら、ニコラさんに対処してもらえって、ハロルドさんが……」
「なるほど。すぐ行くよ」
ニコラは溜息を噛み殺した。そして店長のハロルドのことを考えた。ドーナツとフライドチキンでこさえた太鼓腹と一緒に事務室に籠もり、現場の仕事をしない男。不満が込み上げてきたが、それどころではないと自分に言い聞かせる。ニコラはコンロの火を止め、長い白髪を押し込めていたヘアネットを外そうと頭に手をかける。そこでふとサラを見た。
「君は何もされてないか? 大丈夫か?」
「あ、その」サラはまた視線を泳がせた。「こういうトラブルはいつもニコラさんにお任せしていたから、申し訳なくて。だから一回くらい自分でなんとかしようと思って……だけど……怒鳴られちゃって、それで……」
彼女は胸に抱えていた盆をゆっくりと降ろした。赤いエプロンの胸元に、黒っぽい大きなシミができている。コーヒーの匂いがした。
サラは力なく笑う。
「だけど、冷めててよかった」
「わかった。君はここにいてくれ」
涙を拭うサラの横を通り過ぎながら、ニコラはヘアネットを脱ぎ、豊かな白髪を解放する。二十八歳にしては威圧的である自覚はあった。眼窩の陰に沈んだブルーの瞳、鋭い目つきに、少し尖った鼻先。髭を顎の先に残している。元より体格がよい上、週に二回ほど仕事終わりに深夜のジムに通っているため、筋肉もそれなりについていた。だから、こういうことを頼まれるのは仕方ない。
ニコラは扉を押し開けた。
ホール内は明るい。道路に面した壁はガラス張りで、そこから朝の光がたっぷりと差し込んでいる。白黒のチェッカーフラッグの床に一列に並んだカウンター席と、ボックス席が窓際に五つ、ホールの奥に五つ。赤い革張りのソファに客達が座っている――常連の老夫婦、小さな子どもを連れた母親、夜勤明けらしい男、旅行中らしいバックパックを傍らに置いているカップル――彼らの固い表情は朝食にはそぐわない。原因は、元より控えめなボリュームで流れる店内の音楽を掻き消す二つの怒号だ。
「あぁ、よかった。ニコラ」
扉に一番近いカウンター席からミセス・キーンが歩み寄って来た。六十歳後半にしては艶やかな黒髪が白いブラウスに映えているが、ホール中央を差す指は細く、震えていた。
「あそこよ」彼女は声を潜めて言った。
ニコラが視線を向けると、ボックス席で二人の男が何やら言い合っていた。くたびれたキャップ帽子に、ごつい上着、髭面から覗く皮膚は真っ赤。立ち上がって胸元を掴み合う彼らに挟まれたテーブルには、倒れたままのコーヒーカップが中身を垂れ流している。
「きっと酔っ払いよ。いつまで経っても終わらなくて」
「わかりました。あなたはここにいてくださいね」
ニコラは穏やかな口調で囁き、ミセス・キーンを近くの席に座らせた。
あの中に割って入るのか。
ニコラは男達の方へ歩き出した。一歩踏み出すごとに、胃の下辺りがずんと冷たく、重たくなってくる。逃げ場のない断崖絶壁へと近づいていくような気分だ。それでも表情には出さず、ついに彼らに声をかけた。
「お客様」
「あぁ? なんだよ、てめぇ!」
「邪魔すんじゃねぇよ!」
「お引き取り願います。他のお客様のご迷惑になりますので」
途端に、男達は結託して怒りの矛先をニコラへと向けてきた。二人ぶんの怒声と唾液と呼気――アルコールの匂いがする――を浴びながら、ニコラはこのストレスから逃れる手順を辿る。こういう状況になると、決まって頭痛が起こる。頭の中に盲目の生き物が囚われていて、狭く暗いそこから出ようと、あちこちぶつかりまくっているみたいな痛みだ。痙攣し始めた瞼を閉じ、朝食を楽しみに来た客達と、扉からこちらを見守っているサラのことを考える。すると痛みの奥の方で、何かがすっと冷えていく感覚がやって来る。やがて頭痛が治まる。鼻から息を吐きながら目を開け、男達を見据える。
途端に彼らの怒声が途絶える。そう、いつも、大概こうなのだ。
「どうされましたか?」
男達は目を大きく開いたまま固まっている。アルコールという仮初の鎧が消え、ようやく彼らの世界に、体格のいい強面のイタリア系アメリカ人が目の前に立っているという事実が追いついてきたようだ。ここで畳みかけるのがいつもの手だ。
「出て行っていただけますか?」
「あ、あぁ、悪かった……」
「わかったよ、行くよ、行くから……」
男達はニコラの一挙手一投足を凝視していた――目を離した瞬間、殺されるとでもいうかのように。彼らは同じタイミングで後退りしながらボックス席を離れ始める。先ほどまで喧嘩をしていたとは思えない、双子のような動きだった。
「お勘定を」
ニコラが言うと、男達ははっとした表情でズボンのポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになった紙幣と小銭をテーブルに放った。小銭の一枚が跳ねて、空になったフライドポテトの容器へと入る。
「毎度どうも」
男達は踵を返して走り出した。他のテーブルにぶつかりながら出口へと急ぎ、ドアベルを激しく鳴らして外へ飛び出す。ニコラは身じろぎもせず、ベルの残響と、駐車場の砂利を踏む音、車の扉が開いて閉まる音、エンジン音、そして二台の車が急発進してタイヤが地面を擦る音を聞いていた。やがて音が遠ざかり、店内に控えめなボリュームの音楽と静寂が戻って来た頃、ようやく肩の力を抜いて深く息を吐いた。それと同時に、血の気が引いて冷たくなった脳内に、一気に血が流れ込んで来たような頭痛がぶり返してきた。
「ニコラさん、いつもありがとうございます。助かりました」
「ありがとね、坊や」
振り返ると、サラとミセス・キーンがこちらを見ていた。申し訳なさそうな表情を浮かべる彼女達の背後で、他の客達は安堵の表情で拍手をしている。その音が、痛む頭の中でばりばりと響く。ニコラは今、自分がどんなに険しい表情をしているかわからなかった。だが、とにかく微笑み返さねばと思った。しかし、頭痛は激しさを増していき、猛烈にアスピリンが欲しくなったニコラは、厨房に逃げ込もうと一歩後ずさった。
その時、再びドアベルが鳴った。
「あー……もう入っても大丈夫そうかね?」
見ると、半分だけ開けた扉から男がひょっこりと顔を出し、店内の様子を窺っていた。こんな田舎では目立つぱりっとしたスーツと真っ赤なネクタイ、整髪剤でしっかり固めた髪に、不自然なほどに白い歯――店内にいた全員がぽかんとしていると、男はそれを自分への注目だと受け取ったようで、意気揚々と中へ入ってきた。
「皆様、お早うございます! ほらほら、拍手を続けて!」
ぱらぱらと散るような拍手の中、男に続いてぞろぞろと人が入ってくる。テレビ局の人間らしきカメラを持つ者、マイクなどの機材を抱えた者、アメリカ国旗がプリントされた垂れ幕を持ち込む者など。垂れ幕には「デレク・サミュエルに投票を!」と書かれていた。
そこでニコラはようやく、彼らが大統領選挙の立候補者とその関係者で、予備選挙のための挨拶に来たのだと気づいた。
音響機器のセットが完了したようで、咳払いをしたデレクがマイクを持って喋り始めた。
「いやはや、さっき外から見ていましたが、お見事でしたね!」
いきなり指を差され、ニコラはぎくりとした。逃げ出したかったが、ずいと迫ってきたカメラとマイクのせいで動けなくなる。誰か助けてくれと視線を彷徨わせていると、ふと、集団の最後に店内へ入ってきた男に気づいた。
デレクはめざとく、ニコラの視線の動きに気づいて言った。
「あぁ、彼は私の護衛ですよ! 嘆かわしいことに、最近、私の選挙活動は度々妨害を受けていましてね。用心のためです。 いや、全く、物騒な世の中ですな!」
デレクの言葉を無視し、ニコラは男に見入っていた。彼は奇妙な雰囲気を纏っていた。背が高く、やや痩せ型。赤い巻き毛、長い睫毛に縁どられた目は瞬きをしていない。もみあげから頬、鼻の下、口元から顎の先まで髭が覆っていて表情が読み取れない。喉元まできっちりボタンを留めたシャツに、上品なオリーブ色のベスト、ブラウンの蝶ネクタイを締めている。彼は蝶ネクタイと同色のスラックスに包まれた足を肩幅に広げ、その前で右手の拳を左手で覆うように組んでいた。その両手は粗く削られた岩のようで、ごつく、大きく、傷だらけだった。護衛というよりも、痩せっぽちのヴァイキングに、窮屈な英国紳士の服を無理矢理着せたように見える。年齢はニコラと同じくらいだろうか。
ふとまた頭痛がひどくなるのを感じ、ニコラは彼から視線を外して歩き出そうとした。
「失礼、そろそろ仕事へ戻りたくて……」
「いやいや、ぜひ一緒に写真を!」
「いや、本当にもう――」
しつこいデレクを、いよいよ本気で突き飛ばしてやろうかと思ったその時だった。
だんっと、床を鋭く蹴る音がした。
その音の出どころを探る前に、ニコラの思考は様々なものに引き裂かれる。
ガラスが砕ける音、猛回転するモーターの轟音と破裂音。
世界が速度を失っていく。
不意に、ニコラは身体に衝撃を感じた。自らの意思とは関係なく、身体が横へ傾いていく。自分の白い髪の毛先が宙を舞っているのが見えた。何かが横から突進してきて、ニコラの身体を床へ押し倒しているらしい。だが、何が?
「きゃああああっ」
甲高い悲鳴が、世界のスピードを元に戻した。いつの間にか床に倒れ伏していたニコラは、誰かが上に覆い被さっていることに気づく。見上げると、それはデレクの護衛だった。彼は身体を低くしたまま、テーブルの陰から辺りの様子を注意深く窺っている。
ニコラは彼の下で倒れたまま、辺りに視線を走らせた。
店内は粉塵が充満し、それは膜のようになって東からの朝日を薄く遮っている。
「何が……」
聞こえるはずもない枯れた声で呻くと、デレクの護衛が身を屈めて、髭に覆われた口を近づけて囁いてきた。
「厨房の裏口から外へ。早く」
「わからない……何が起こって……」
「今すぐです。でないとあなたは殺される」
ニコラが振り返ると、至近距離で男と目が合った。淡いブラウンとグリーンの入り混じった瞳がこちらを見つめている。こんな状況だというのにその美しさに驚いて呆然としていると、護衛はさっと立ち上がり、どこかへ走り去ってしまった。
我に返ったニコラは身体を起こす。そうだ、何が起こったにせよ、今は動かなければ。よろめき、歩き出そうとしたその時、前方にサラが倒れているのが見えた。
「サラ!」
ニコラは駆け寄り、彼女の身体を抱き寄せた。頭から血が出ている。呼吸はあるが意識がない。誰かに助けを求めようと辺りを見渡した時、ニコラは言葉を失った。店内のあちこちに人が倒れている。血に塗れながら寄り添う老夫婦、泣く子を抱き締めている母親、がくがくと震える夜勤明けの男、店の正面を呆然と見つめるカップル、パニック状態で叫ぶデレクとその関係者達――血と瓦礫が散乱している。店の正面ガラスはなくなっており、代わりに漆黒のバンが一台、ボックス席を押しのけて鎮座していた。ニコラはその金属の塊から発せられる熱を感じ取った。
「事故だ……大変だぞ。サラ、少し動くからな」
ニコラはサラを抱えて厨房の扉へ向かい、中に入ると彼女を床に寝かせた。その時、奥にある事務室の扉を少しだけ開いてこちらを見ているハロルドと目が合った。ぎょっとして顔を引っ込めた彼にニコラは怒鳴った。
「来てください、ハロルドさん! ホールにいる人達を避難させないと!」
「一体何があったんだ! サラも君も怪我をしているじゃないか! まずは説明を――」
「いいから来いって言ってるんだ!」
怯えるハロルドを強引にホールへ連れ出した時、先ほどまで倒れていた人々のうち何人かはすでに動き出していた。ニコラは動ける者に声をかけて回る。
「厨房へ避難しろ! 動ける者は怪我をした者を連れて行くんだ!」
互いに肩を貸し合って歩く人々を見守りながらニコラは、逃げ遅れた者がいないか探した。すると瓦礫の陰に倒れているミセス・キーンを見つけた。急いで駆け寄る。
「ミセス・キーン。もう大丈夫ですからね。避難しましょう」
「あぁ、ニコラ……どうしましょう、足が……足が動かないの」
飛んできた瓦礫が当たったのだろう。彼女は足首の辺りを押さえて呻いた。
「大丈夫ですよ。一緒に移動しましょう。ほら、背中に掴まれますか? さぁ」
震える彼女を背負って立ち上がった時、目の前の粉塵の中から護衛の男が姿を現した。ニコラは驚いて彼を見つめる。彼もこちらを見つめていた。やや苛ついているようだった。
「なぜまだここに留まっているんですか。早く出ろと言ったでしょう」
「全員ここから避難させる。お前も手を貸してくれ」
「あなただけでいい。すぐに逃げてください」
「何を言うんだ! どうして俺だけ――」
言いかけた時、突然男が拳を握り締めて殴りかかってきた。咄嗟のことにニコラは動けず、反射的に目を閉じる。耳のすぐ横で、質量が高速で移動していく風圧を感じた。
直後、背後からぼぐっという音が聞こえた。
恐る恐る目を開けたニコラが振り返ると、後ろの床に見知らぬ男が倒れていた。昏倒している。鼻を殴られたらしく、顔が血塗れになっていた。脱力した片手に握られた銃を見て、ニコラの呼吸はひどく浅くなっていく。しかし、目を逸らせない。
「何だよ、なんで銃なんか……」
「さっさとここから出てください。まだ一人います」
ニコラは呆然となり、護衛の男へ視線を戻した。彼の両方の拳にはメリケンサックが嵌められている。血に塗れていても、かなり使い込まれているのがわかる。金属の突起は摩耗し、指を通す穴も薄くなっているようだ。英国紳士風の服装にはかなりアンバランスだが、大きな手にはしっかり馴染んでいる。護衛の男は辺りに視線を巡らせ、溜息をついた。
「もう遅い。私の後ろへ」
ニコラは彼の言う通りにした。今、このダイナーでは自分の理解を超えることが起こっている。その脅威から逃れるためには、同じく理解を超えているこの男の言うことを聞くしかない。
その時、前方の粉塵のカーテンから、銃を構えた男が躍り出てきた。
ニコラは今更ながらはっとなる。メリケンサックが、銃に勝てるわけがない。途端に恐怖心に駆られ、気づけば走り出していた。その瞬間、背後で銃声が響く。
「ぐっ」
聞き慣れない低い呻き声に、ニコラは思わず振り返る。そこには護衛の男の背中があった。彼のシャツ――左肩辺りが見る見るうちに赤く染まっていく。
「あ……」
声が漏れた。心臓を殴られたように息が詰まる。ミセス・キーンを支える腕が震えた。
撃たれた――本当に撃たれたのだ。
しかし、護衛の男に慌てた様子はない。彼はふっと短く息を吐くと、床を蹴り、目の前の男との間合いを一気に詰める。銃を持つ男の手を掴み上げると、天井に向けて無駄撃ちさせ、そのまま腕を捻って銃を取り落とさせる。ついに無防備になった男の身体のど真ん中へ拳を叩き込む。男は短い悲鳴を上げ、大きく開けた口から粘ついた液を吐いて床に倒れ伏した。
「何なんだ……」
ニコラはミセス・キーンを背負ったまま床に座り込んだ。
男を制した護衛の男は終始落ち着いた様子で、拳からメリケンサックを外すと、ベストの懐から取り出したハンカチに包んでまたしまった。彼は血で染まった左肩をちらと見た後――さほど気にしていない様子だった――ニコラの方へ視線を移した。
「終わりました。早くここから逃げましょう」
「逃げるって、一体どこへ」
「車の中で話します。その女性は置いてきてください。一緒には連れていけない」
「くそっ……」
ニコラは立ち上がると、よろよろと厨房へ向かった。肩で扉を押し開けると、そこには床の上にダイナーの常連、デレクの関係者全員が座り込んでいた。意識を取り戻したサラの姿もある。彼女は目を大きく見開き、立ち上がって歩み寄って来た。
「ニコラさん! 大丈夫ですか!」
「サラ、ミセス・キーンを頼む。足を怪我してるんだ」
ミセス・キーンを託した時、ふとニコラは、サラが自分の背後を凝視していることに気づいた。振り返ると、すぐ後ろに護衛の男が立っている。シャツの左肩を赤く染め、指先からは血が滴っていた。ニコラが慌ててサラの方へ向き直ると――彼女だけではない、意識がある者全員が自分と護衛の男を見ていた。
「ニコラさん、その人は誰ですか?」
「いや、俺にもよくわからなくて……」
「私はあなたの御父上ドメニコ・スティヴァレッティ氏の命により、あなたを護衛するため派遣された者です」
背後から淡々と告げられた言葉に、ニコラの全身は凍りつく。
するとハロルドが声を上げた。
「スティヴァレッティだと? ニコラ、君の苗字はウォルトンじゃないのか!」
「ドメニコ・スティヴァレッティって、まさかニューヨークの――」と子どもの母親。
「マフィアだ。マフィアのボスの名前だよ!」とカップルの男。
厨房内に漂う空気が、容赦なくニコラを突き刺す。嘘で築き上げた平穏が、目の前でがらがらと音を立てて崩れていった。耐え切れなくなり、ニコラは無言でエプロンを脱ぎ捨てると、厨房から出て行こうと彼らに背を向ける。護衛の男はすでに、ホールへ繋がる扉の前で待機していた。すると今度はデレクが絶叫する。
「おい、スピノーネ! お前は私の護衛のはずだろう! お前を雇うために大金を払ったんだ! なのにどうして犯罪者の息子なんか守った? 答えろ!」
スピノーネ。そう呼ばれた護衛の男は、扉に手をかけたまま振り返る。
「お前は客だ。ボスじゃない。私はボスの指示に従う」
それだけ言って、彼は出て行ってしまった。
ニコラは背後からデレクの怒号を浴びながら厨房を出た。誰も追いかけはしなかった。
ホールに戻ると、残骸だらけの店内に五人の男達が倒れ伏していた。皆、両手を身体の後ろに回され、手首と足首を黒い結束バンドで締め上げられている。
「これ、全部お前がやったのか」
「はい。早く行きましょう」
スピノーネは彼らの横をすたすたと通り過ぎていき、その道中に落ちていたデレクのカメラを鋭く蹴りつけて破壊する。そしてまた歩き出し、かつて扉があった場所から外へ出て行った。
ニコラは彼を追いかけた。他に選択肢があるか? くそったれ!
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