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第2話
彼が話していた「車」とは、駐車場に停まっていたデレクの車のことだった。なぜあんな男が、大統領選に立候補できたのかわかった気がする。黒いキャデラックのボディはぴかぴかで、傷一つ見当たらない。
ニコラはスピノーネに続いて車に近づき、何の気もなしに助手席の扉を開けたが、はたと動きを止める。
「待てよ、これって窃盗じゃないのか」
「構いません。乗ってください」
「嫌だ」
運転席側にいたスピノーネが車の前を通ってずんずん近づいてくる。ニコラは彼を押し退けようとしたが、結局、助手席のシートへと押し込められた。屈辱的なことに、子どもみたくシートベルトまでつけられて。彼は助手席の扉を閉めると、素早く運転席へ戻って乗り込み、慣れた手つきで車を発進させた。静かに車道に出たかと思うと、いきなりぐんとスピードを上げる。座席に身体が押しつけられた時、ニコラは思わず振り返って「パピルス」を見た。店の裏手で赤と青のライトが光っているのが見える。その光景も、あっと言う間に視界から消えてしまった。
「ウォルトンとは?」
スピノーネが尋ねてきたが、ニコラはその質問を無視して睨みつける。
「おい、いいか。俺はとっくに実家とは縁を切ってる。でなきゃ今後、俺自身も周りもいらんトラブルに巻き込まれるからだ。自分はマフィアボスの息子だなんて誰に言える? 十八でニューヨークを出て十年間、ずっとそのことを隠して一人で生きてきたんだぞ。なのに、お前のせいで――」
「だが奴らには隠せません。すでにあなたの居場所を把握されていました」
「奴らって誰だ。何が起こってるんだ?」
「あなたの御父上ドメニコ様が率いるスティヴァレッティ・ファミリーが、敵対ギャングのフィレーナ・ダストの解体に向けて動き出しました。抗争です。厄介なのは、ギャングリーダーのギデオンです。彼はドメニコ様だけではなく、あなたの命も狙っている」
「どうして俺が。関係ないだろ」
「ギデオンは邪魔者を消す際、その関係者も一緒に葬るんです。仲間、友人、恋人、家族に至るまで、どんな方法を使ってでも探し出して殺します」
「とばっちりじゃないか」
「そうです。だから、あなたにかかる火の粉を払うために私が遣わされたのです」
ようやくキャデラックのスピードが法定速度まで落ちる。ふとニコラは、車が西へと向かい始めていることに気づいた。
「まさかニューヨークへ行くつもりか?」
「いいえ。それは危険すぎるので、バーモント州からカナダの隠れ家へ向かいます」
「カナダ? 隠れ家だって?」
「ご心配なく。コートやブーツなどは、トランクにご用意しています」
「そういう問題じゃない。いつまでそこにいるんだ?」
「スティヴァレッティ・ファミリーが、フィレーナ・ダストを完全に解体するまで」
ふと、スピノーネがハンドルから左手を離した。ハンドルには血がべったりついている。彼のシャツはすでに袖口まで真っ赤に染まっていた。
「おい、すぐに止血しないと。弾がまだ残ってるかもしれない」
「掠っただけです」スピノーネは誤魔化すようにハンドルを握り直した。
「だとしても、そのままにはしておけないだろ。この少し先にドラッグストアがある。そこで必要なものを買えばいい。シャツの着替えも必要だ。血塗れで国境ゲートに行ったら、監査官にどんな目で見られると思う?」
少しの沈黙の末、スピノーネは言った。
「わかりました。ですが、ニューハンプシャーを出るまでは停まりません。バーモンドに入ってから店を探しましょう。そこで車も乗り換えます。ところで今、スマートフォンはお持ちですか?」
「あぁ、ここに――あっ、よせよせよせ!」
ニコラがズボンのポケットからスマホを取り出した瞬間、スピノーネがさっと奪い取って、躊躇いもなく運転席側の窓から投げ捨てた。ニコラは文句を言おうとしたが、言葉を発する前に、分厚い財布を突きつけられて口を閉じる。
「しばらくは誰にも連絡しないでください。電子決済などの履歴が残るものも禁止です。病院のデータベースに名前が登録されると居場所がばれる可能性がありますので、死にかけでもしない限り受診もできません。ご注意を。それと買い物はこれで」
言い返す気も失せたニコラは財布をひったくるように受け取ると、席に座り直し、バーモント州に到着するまでの二時間ずっと黙りこくっていた。
州をまたいだ頃、時刻は正午に差し掛かろうとしていた。
フリーウェイを降りたキャラデックは街に入り、最初に見えたドラッグストアの駐車場へ滑り込んだ。そこはスーパーマーケットも併設されており、ニコラはここでスピノーネのシャツも買えるなと思った。車が停まり、シートベルトに手をかけた時、スピノーネが口を開いた。
「十分で出発です」
「わかってるよ」
「ついていきます」
「来るな。俺は買い物、お前は車。急ぐんだろ? 小遣いをどうも!」
スピノーネを残して車を降りると、ニコラは足早にドラッグストアへ入った。ガラス張りのドアを開け、漂ってきた清潔な匂いを胸一杯に吸い込いこむ。商品棚がずらりと並ぶ店内、耳障りにならないくらいの音楽、買い物かごを片手に歩き回る客、暇そうなレジ店員。見慣れた景色なのに、今やそれも白昼夢のように見えた。ニコラは歩みを止めず、棚から商品を取り出して腕に抱える。縫合用テープやガーゼ、包帯、消毒薬、ピンセット。アスピリンも。急いで会計して店を出ると、次は隣のスーパーマーケットへと移動する。
あと五分。
店の隅にあった衣服コーナーへ向かい、円状のハンガーラックに吊るされた白いシャツを一枚手に取る。レジへ行こうとしたその時、通路の途中に設置された姿鏡に自分が映ったことに気づく。白かったはずのシャツは薄汚れ、髪は乱れ、顔には生気がなく、やつれている。
「俺は何をしてるんだ……」
呟いた時、何もかもが馬鹿らしく思えた。ふと鏡に、店の裏口が映っていることに気づく。ニコラは入り口の方をちらと見た後、持っていたシャツを近くの棚へ乱暴に押し込む。踵を返し、店の裏口へと歩き出した。このまま姿を消してしまえばいい。マフィアとギャングの抗争になんて関わりたくない。十年もの間、何もかも偽って、静かに、孤独に、ひたむきに努力してきたんだ。まだ大丈夫だ。きっと、また一人でやっていける。
あと二分。
ニコラは扉を目前にして立ち止まった。足が重たくなり、動かせなくなる。罪悪感を乗せた冷たい血液が全身を巡っていた。肩から出血し、二時間以上も平気な顔をしている男のことが頭をよぎる。
「くそ……」
彼の怪我は自分のせいだ。
あと一分。
くそくそくそ!
ニコラは足早に衣服コーナーへ戻り、棚に押し込んでいた白いシャツと、その近くにあった青いシャツを掴んだ。会計を済ませ、買い物袋を抱えて店の外へ出る。スピノーネの姿はなかった。辺りを見渡した時、駐車場の端にある公衆トイレに目が留まった。頭の中で様々な考えが巡る。ニコラはそちらへ歩き出した。トイレの前までやって来たその時、背後から白いセダンが鼻先を寄せてきた。
「何をしているんですか。もう出ます。早く乗ってください」
運転席からスピノーネが顔を出す。
「降りろ」
「何ですって?」
「いいから降りろ!」
ニコラは運転席側の扉を開け、スピノーネの腕を掴んだ。咄嗟に掴んだのが怪我を負った左腕だと気づいたが、彼を車から引きずり出すのには必要な強引さだったようだ。わずかに眉間に皴を寄せたスピノーネの腕を引き、もう片手で買い物袋を持つニコラはトイレの中へと入る。
「何をする気ですか?」
「ここで傷を見る。これ以上ほっとけない」
「時間がないんです。着替えるだけでいいでしょう」
「お前な……」
トイレ内には連なった手洗い場が三つあり、幅広の鏡が壁に一枚設置されている。ニコラはスピノーネを振り返った。無機質な声音とは裏腹に彼の顔色は明らかに悪く、赤い巻き毛と髭で見えにくいが、うっすら汗もかいているようだった。にもかかわらず彼はトイレ内を見渡すと、個室の列に近づいて、全ての扉を開けては中を確認していく。
呆れも心配も通り越して、ニコラはいよいよ腹が立ち始めていた。
確認を終えたスピノーネは鏡の前まで戻ってくると、蝶ネクタイを外し、ベストとシャツを脱いだ。こちらの言うことを聞く気になったかと思い、ニコラは手伝おうとしたが、彼は血で汚れていない手だけで器用に脱いでいく。そうして露わになったのは余分なものを削り取って、実用的な筋肉を鍛え上げた身体――それと無数の傷痕だった。縫い傷、銃創やケロイド、皮膚を移植した形跡もある。処置が甘かったのか、皮膚の至るところが引き攣っていた。さらに、彼の首と手首には蛇のような線状痕が巻きついている。ニコラはぎょっと目を見開いた。
「ひでぇな。今まで誰が傷の手当てしてきたんだよ」
「私以外に誰がやるんですか」
「下手くそめ。俺がやる。腕を見せろ」
「着替えるだけでいいです。服をありがとうございます」
「やらねぇぞ」こちらに伸びてきたスピノーネの手を避け、ニコラは持っていた買い物袋をひょいと身体の後ろへ回した。
「俺が縫う」
「自分でできます」
「冗談はよせ。そんな傷痕を見せられた後で、任せられると思うか」
ニコラはスピノーネを壁際まで追い込むと、身体を押しやり、一番端の手洗い場の淵に座らせる。彼の左腕から血が滴って足元のタイルを汚していた。ニコラは傷口を覗き込み、はっと目を見開く。裂けた皮膚の中、血に染まった場所の底の方に白っぽい層が見えている。
「何が少しかすっただけだ! こんなの、テープじゃ間に合わないじゃないか!」
「だから自分でやると言ったんです。ベストの中に縫合用の針と糸がありますから」
「それを早く言え、馬鹿。借りるぞ」
スピノーネが持っているベストに手を伸ばした時、彼はそれを遠くへ放った。
瞬間、ニコラの頭の中で何かが切れた。
「スピノーネ! さっさとそのベストを渡せ! でないと傷口に指を突っ込むぞ!」
怒声がトイレ内に響き渡り、彼の目が大きく見開かれた。ニコラは息を荒げながらその目を見つめ返し、相手がどう出るか身構える。叫びの残響が消えてから、スピノーネは静かにベストを拾うと、内側のポケットから薄型の半透明のケースを取り出した。
「よし」
ニコラはケースを受け取って開ける。中には湾曲した細い針と、巻かれたナイロンの糸が入っていた。それを見てニコラは一瞬だけ顔をしかめたが、針に糸を通し、その端を口に咥え、空いた手で買い物袋を漁ってピンセットと消毒液を引っ張り出す。
「やるぞ」
針と糸、ピンセット、自分の手、スピノーネの肩の傷へと消毒液を振りかけた。肩からの血が消毒液と混ざり合い、スピノーネの腕を伝い落ちていく。ニコラはピンセットで針を掴むと、一度目を閉じ、やがてふっと息を吐いて目を開けた。傷口に近い皮膚から針を入れ、一針ごとに丁寧に縫合していく。一本の糸で連続的に縫っていくこともできたが、この男のことだ、きっとまた無茶なことをするだろう。それでは糸が切れる。縫っている間、呼吸が止まっていた。手早く、だが手堅く。そうして催眠にかかったように一つのことに集中していると、次第に手が勝手に動き出す。頭の中が不思議と軽くなり、鮮明な、走馬灯にも似た記憶のスライドショーが始まる――一年前だ。あの日は夜のひどい吹雪の後で、街中が雪にのしかかられて身動きが取れずにいた。歩いて店に出勤したニコラが、がらんとした店内から外の道路を眺めていても、車の一台さえ通過しなかった。そこに駆け込んできたのがミセス・キーンの孫息子二人だ。冬休み中だった彼らは公園で遊んでいるうちに喧嘩になり、取っ組み合いの末、兄貴の方が道の縁石に額を打ちつけて皮膚がぱっくり切れたのだ。顔中を血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした兄と、狼狽しきった弟は助けを求め、自宅よりも近い場所にある『パピルス』へやって来たのだ。ニコラはまず清潔なタオルで傷口を圧迫したが、出血が止まらない。救急車を呼んだが、雪で道が塞がれて到着に時間がかかると言われた。そこでニコラは自前の救急ポーチを持ち出した――それは洋服のボタンが外れかけたり、袖がほつれたり、布地に小さな穴を見つけた時、準備のいい人々が嬉々としてポケットから出してくる小さな裁縫セットに似ている。しかしニコラのそれには絆創膏が数枚と、小瓶入りの消毒液、そして縫合テープと縫合用の針、ナイロン糸が入っていた。
医者でもないニコラが縫合針と糸を持ち歩き、さらに子どもの額の傷を一人で縫ったと知られたら、傷害罪で訴えられても文句は言えない。しかしそんな不安よりも、兄の傷を何とかしたいという気持ちの方が強かった。ニコラは髪をまとめ、厨房に常備しているゴム手袋の箱から新しいものを取り出して装着する。そのゴムの匂いを嗅ぎつけ、鋭い針先を見た兄は顔面蒼白になっていたが、ニコラは彼に「男を見せろ」と言って鼓舞した――それは自分自身の尻を叩くための言葉でもあった。すると兄はしゃくり上げながらも、やがて覚悟を決めたように頷く。ボックス席のソファに深く座らせ、後頭部を背もたれにしっかり当てて、ぐらぐらと動くのを防ぐ。弟は隣に座って不安げに兄の顔を見ていたが、不安はやがて尊敬の眼差しへと変わった。兄は額を縫った。目をきつく閉じ、片手で自分の服をぎゅっと掴みつつ、もう片方の手で弟の手をしっかり握りながら。ニコラはテーブルに尻を少し乗せた体勢で、少年の柔らかい額に針を通していく。施術の間、ニコラはひたすら声をかけ続けた。「さぁ、やるぞ。ゆっくり息をしろ」「頑張れ、頑張れ。いい調子だ」「あぁ、痛いな。だけどよく我慢してる。偉いぞ」「なぁ、お前の兄ちゃんはすごいな。強い男だ。お前もよくここまで連れて来てくれた。よくやった」「さぁ、あと少しだ。もうちょっと頑張れ」
頭の中で響いていた過去の己の声が、現実を生きるニコラの唇を無意識に動かす。
「大丈夫だ……もうすぐ終わるぞ……さぁ、もうひと踏ん張りだ……」
ようやく最後まで縫合を終えると、ニコラはまた買い物袋を漁り、そこから取り出したガーゼを患部に貼りつけて、その上から包帯をぐるぐると巻いていく。
「よし。さぁ、これでいい」
包帯の清潔な白を見た時、身体から一気に力が抜けた。額にじっとりと汗をかいていることに気づいた。まさかこの数年で二度も人の傷口を縫うとは。思わずはぁと溜息をつくと、どっと疲れが出て頭の中が霞んでいく。
「いい子だ。よく頑張ったな」
無意識にスピノーネの髪を掻き上げ、額にキスをしていた。
瞬時に違和感に気づいて顔を離したが、彼はぽかんとした表情でこちらを見つめている。縫合中に麻酔はなかったが、スピノーネは呻きもせず、少し身体を強張らせるだけで静かだった。当たり前だ。あれだけの傷を負いながらも、タフに生きてきた男だ。痛みには慣れているに決まっている。そんな奴に俺はガキにするみたいにご褒美のキスなんか!
「悪い……」それしか言えなかった。心臓の鼓動がトイレ内に響き渡っている気がする。
「ありがとうございました。あとは片付けるので、車に乗っていてください」
スピノーネは手洗い場から降りて床に跪くと、古いシャツを拾い、辺りに滴った消毒液混じりの血を拭き始める。ニコラは彼に何か言おうとしたが、傷だらけの大きな背中にかける言葉が見つからず、黙って手を洗って自分も新しい服に着替えた。
セダンは駐車場を出てフリーウェイに戻り、再び北へ向かって走り出した。
疲れ果てていたニコラは助手席でうつらうつらとしていたが、ふと車体ががたんと揺れて目を覚ます。はっと顔を上げた時、胸元に垂れていた髪が突然ぴんと張って頭皮に鋭い痛みが走る。またかと思いながら視線を落とすと、自分の手が髪の束を握り締めていた。
「それ、寝ている時の癖ですか?」
ハンドルを握るスピノーネが言う。新品のシャツにオリーブ色のベスト、ブラウンの蝶ネクタイまできっちり身に着けている。ニコラも仕事着のシャツから青いシャツに着替えていた。汚れた衣服は全てトイレのごみ箱に捨てた。
「今、何時だ?」ニコラは彼の質問を無視し、強張った手をどうにか開いて髪を離す。
「午後一時を過ぎたところです。まだ眠っていても構いません」
「いや、もういい」手で顔を撫で下ろし、溜息をつく。「傷の具合はどうだ?」
「おかげさまで。出血は止まり、痛みもましになりました」
「そうか、よかったよ」
彼はキスのことは言及しなかった。心の内でほっとしたニコラは、車窓の向こう側を流れる世界へ視線を向ける。冬の陽光が世界を照らしていた。あそこに戻れるのなら、全てを捧げてもいい。しかしそれらはいつしか後方へと消えていき、セダンは「八十九号線 ノース スワントン/カナダ」の標識を通り過ぎていく。
「あと数分で国境ゲートに着きます。ダッシュボードの中にあなたの身分証明書があるので、それを監査官に提出してください」
「俺の?」
ニコラは眉間に皺を寄せた。身分証明書の入った財布は店のロッカーに入れっぱなしだ。スマホもスピノーネに破壊されたため、ほとんど身一つで逃亡しているものだと思っていた。いつの間に回収したんだと思いながら、目の前のダッシュボードを開ける。そこには運転免許証が入っていた。手に取って見ると、顔写真はニコラのものだが、苗字も名前が全く違う。苗字はウォルトンとなっていた。
「偽造じゃないか!」
「あなただって、職場で偽名を使っていたじゃないですか」
「わけが違うだろ! そもそもどうしてこれが作れたんだよ! 俺の偽名を知ったのは昨日だろ!」
「いいえ。あなたのことは事前に調べてあります。偽名のこともわかっていました」
「じゃあなんで、苗字のことを聞いたんだ」
「ただの確認です」
「なら、ウォルトンって名前が、別れた男の名前から取ったってことも知ってるんだろ」
「それは初耳ですね」
「どうしてお前はいつも、思い出したくないことばかり思い出させるんだ!」
「静かに。もう着きました」
スピノーネがくいと顎を上げる。前を見ると、目の前に五つのゲートが現れていた。ゲートの頭上には発進と停止を示すライトが灯っており、すでに別の車が何台か入国審査の順番待ちをしている。セダンは迷うことなく、一番左のゲートへと入った。
ニコラは思わず振り返り、すでに後ろに他の車が並んでいるのを見て絶望する。先程の怒りなど消し飛んでしまった。偽の運転免許証を握る手が震え出す。もし偽装だとばれたら。拘束されて身元を調べられて、今まさにニューヨークで抗争中のスティヴァレッティ・ファミリーのドンの息子だと知られたら。もうニューハンプシャーのような日常は取り戻せない。
「大丈夫です。落ち着いて」
スピノーネに肩を叩かれ、ニコラはびくっと我に返る。隣の彼は片手でハンドルを握ったまま、真っ直ぐ前を見据えていた。ニコラとは違い、汗一つかいていない。
「自然にしていてください。監査官とやりとりするのは私だけです」
「お前は自然にできるだろうよ。こんなこと、今までに何度もやってきてんだろ」
「勿論」
スピノーネはベストの懐から自分のパスポートを出してきた。
それを見てニコラは首を傾げる。もし彼がアメリカ人ならパスポートを出す必要はない。
「お前、アメリカ人じゃないのか」
「おそらく、そうでしょうね」
「なんだよ、それ。出身はどこなんだ?」
「さぁ」
「さぁって……あのな、こんな状況で正体不明の男と一緒に行動する俺の気持ちを――」
「残念ながら、昔のことはよく覚えてないんです」
彼は心底どうでもよさそうに言った。いよいよセダンが動き出す。スピノーネはセダンをブース内に入れると、全ての車窓を開けた。押し入って来た一月の冷気にニコラが身震いしていると、外のブース内に設置された小部屋から、制服を着た監査官の男が現れた。
「身分を証明するものを」
スピノーネは先にパスポートを出すと、振り返り、ニコラの方へ手を差し出してきた。ニコラは彼の手に運転免許証を手渡す。監査官はスピノーネの手からパスポートと免許証を受け取ると、顔写真と、車内のニコラ達の顔を確認し始める。厳しい顔つきだった。
「入国は二人だけ?」
「はい」スピノーネが驚くほど穏やかな声音で答える。
「入国の理由は?」
「休暇をこちらで過ごそうと思って」
「滞在期間は?」
「一ヶ月です」
「滞在場所は?」
「モントリオールに私の親戚がいるので、二人で彼らの家に泊まります」
「そうか……」
監査官はそこで言葉を切り、スピノーネからニコラへと視線を移してきた。見られている。ニコラは顔が引き攣りそうになるのを必死に我慢しながら、なるべく自然に微笑んでみせる。
監査員の視線は依然として鋭かった。
「クリスマスも終わったこの一月に、一ヶ月も休暇か」
「あ……その」
何か答えねばと思ったが、口の中が一気に干上がって、何も言えなくなってしまう。監査員の視線が鋭さを増した。もう駄目だと思ったその時、スピノーネが身体を乗り出して監査員の視界を遮った。
「リフレッシュ休暇ですよ。可哀想に、彼はクリスマスもずっと働き詰めで。ようやく長期休暇が取れたから、自然の多い街で静かに休もうということになったんです。それも、できるだけ早くね」
その声には恋人を気遣うような甘さと、監査員に対する静かな苛立ちが現れていた。
ニコラは彼の声の変貌ぶりに驚きつつ――嘘であるとわかっていても――その声の甘さには思わずどきりとした。仮初めだ。しかし、守られているという安堵を覚える。
監査員も何か感じ取ったらしかった。彼は小部屋へと入っていき、やがて戻ってきた。
「お待たせしました。どうぞ良い休暇を」
「どうもありがとう」
パスポートと運転免許証を受け取るスピノーネの頬が、髭に覆われていてもわかるくらい高く引き上げられているのをニコラは助手席から見ていた。やがて車は発進してゲートから遠のいていく。充分に離れたところで、ようやくニコラは口を開いた。
「お前なんか大嫌いだ」
「よく言われます」
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