3 / 13
第3話
北に向かうにつれ、空が曇り始める。カナダへと入ったセダンはサミュエル・デ・チャンプレインブリッジを通り、冬のセント・ローレンス川を越えた。車の鼻先を西へと向け、ガラスのビルや赤煉瓦の建物が並ぶ街を横切っていく。徐々に都会の雰囲気が途切れていくと、欧州の雰囲気が漂う石造りの旧市街に出た。白っぽい外壁が、曇天の下で輝いて見える。
「ここを経由して郊外に出てから、町外れまで行きます。隠れ家はそこに」
「まだ離れるのか」
午後二時だった。広場に差し掛かった時、ニコラは、道行く人々が丈の長いダウンジャケットや、ニット帽、ブーツを履いているのを見た。彼らは一月の寒さから身を守っている。ギャングの手下から身を守る必要はない。辺りには雪が積もっていて、着膨れした子ども達が遊んでいる。道沿いにはカフェが軒を連ね、暖かい光の中で人々が食事を楽しんでいた。
「食事にしないか」独り言のように呟いた。「すぐ済ませるから」
「……いいでしょう」
セダンは左右を建物に挟まれた駐車場へ停まった。車から降りたニコラはスピノーネが用意していたダウンジャケットとブーツを身に着ける。町の喧騒が身体に染み込んでくるようだった。広場で遊ぶ子ども達の声。それを見守る親達の会話。道行くカップルの声。レストランの扉が開閉する音。近くのフリーマーケットから聞こえる客と店員の声。
焦がれていた平穏。ニコラは目を閉じてしばらくそれを味わった。
「行きますよ」
コートを着たスピノーネが急かす。ニコラが歩き出すと、彼は同じスピードで隣を歩き、辺りの建物や階段、路地裏などに素早く視線を巡らせた。その身体から発する緊張感を、ニコラもぴりぴりと感じ取る。それが心底不快だった。しかしそれも、道沿いにあるレストランに入った瞬間に忘れてしまう。
扉を開けると、温められた空気とコーヒーの芳しい香りが出迎えてくれた。店内では軽食を取っている客、コーヒーを片手に新聞を読む客、壁掛けテレビから流れるニュース番組を見ている客もいる。ニコラとスピノーネは壁際のボックス席に案内された。柔らかいクッションに腰を下ろした時、気が緩んだのか、腹がぐうと鳴った。反射的にスピノーネの方をちらと見たが、彼は店内の安全確認と観察に忙しそうだった。ニコラはテーブル横に用意されたメニュー表を掴んでページを開く。しばらくしてやって来た店員にコーヒーとランチプレートを注文し、メニュー表をスピノーネへさっと差し出す。
「お前は?」
「仕事中なので。お構いなく」
「頼むから、そういうのやめてくれ。普通に食事したいんだ」
スピノーネは少し躊躇った後でメニュー表を受け取り、コーヒーとサンドウィッチを注文した。それと見届けたニコラは、どこかほっと安心して息を吐いた。先に出されたコーヒーを飲んで身体を温めていると、ふと壁掛けテレビから女性アナウンサーの声が聞こえてきた。
『昨日、アメリカ、ニューハンプシャー州の町で起こったダイナー襲撃事件について、警察は、襲撃犯五人の身柄を確保したと発表しました。関係者からの取材によると、警察が通報を受けて到着した時、襲撃犯五人は怪我を負っていましたが、意識がある状態ですでに拘束されていたということです。店内にいた従業員や客の命に別状はありません』
ニコラははっと顔を上げる。画面に映るアナウンサーの横で、ダイナー「パピルス」のライブ映像が流れている。車が撤去された店の正面は大穴が空いたままだったが、現地で取材に答えるハロルドとサラの姿を見て、ニコラは無意識に微笑んでいた。
しかし、アナウンサーが硬い表情で続ける。
『なお、襲撃犯達は黙秘を続けており、襲撃の目的は未だ不明です。彼らはニューヨークで活動するギャング集団ファレーナ・ダストの一員であり、この組織はスティヴァレッティ・ファミリーと長く対立しています。現在この組織間で抗争が起きており、さらにこのダイナーでは、スティヴァレッティの首領ドメニコの実子、ニコラ・スティヴァレッティが勤務していたという情報があります。現在彼の行方はわかっていません。何者かが連れ出したという証言もあり、警察はニコラ・スティヴァレッティが、何らかの形で抗争に関わっていると見て調査を進めています』
周りの客達もニュース番組は見てはいるが、彼らはそのまま食事や会話を続け、やがて満足して店を出て行く。ニコラはそれが羨ましくてたまらず、期待を込めて口を開いた。
「あいつらが警察に捕まったのなら、俺達もしばらくは大丈夫だろう?」
「いいえ」スピノーネはきっぱりと言った。「我々の居場所を突き止め次第、ギデオンは新しい部下を送り込んできます。油断はできません」
「でも奴らはニューヨークで抗争中だろ。だったら、人員は減らしたくないはず」
「それでも彼らは追ってきます」
「はぁ、皆殺しが趣味のボスのためにか」
「……これは私の憶測ですが」スピノーネが見つめてきた。「ダイナーが襲撃された時の、あなたの行動は素晴らしかった。あの混沌の中で人々を落ち着かせ、すべきことを手際よく指示しました。あなたにはやはり人を動かす素質がある。ドメニコ様と同じように」
「どういう意味だよ」
「ギデオンがあなたを狙う理由はそれです。スティヴァレッティ・ファミリーが倒れるという最悪の事態になったとしても、あなたなら組織を再生させることができる。その証拠に、あなたは幼い頃からその力を発揮していたはずです」
ニコラは額から汗が滲み出てくるのを感じ、歯を食いしばった。スピノーネはそれに気づいているのか、いないのか、構わず続けた。
「資料で読みました。十八年前、ドメニコ様の不在中、スティヴァレッティ邸が敵対組織からの襲撃を受けた。火の手が上がる中、当時十歳だったあなたが、屋敷にいた者に避難指示を出し、ほとんどの人間を救い出した――」
「やめろ!」
だんと、両手でテーブルを叩いた。息を荒げながらスピノーネを睨みつける。何としてでも、彼の声を遮らなければと思った。そうしなければ息ができなくなってしまう――ニコラはふと、店内の静寂に気づいてはっとなる。じんと痛む両手が震え、思わずテーブルの下へ隠した。
そこに店員がやって来て、料理をテーブルへ置くと足早に去って行った。
ニコラはなるべく静かに溜息をついて、居心地の悪さを受け入れる。目の前のテーブルに置かれた皿には、バターの乗ったパンケーキが二枚と、目玉焼きが二つ、サイコロ状に切られたフライドポテトが盛られている。メープルシロップの入った白い小瓶も添えられていた。メープルシロップを除けば、ニコラがこれまで「パピルス」で作ってきたメニューとほとんど変わらないが、今は宝物のように輝いて見えた。
一方、スピノーネのサンドウィッチはまるで小山だ。バンズがライ麦パンなのだが、大量に盛られたスモークミートのせいで、バンズはまるで頼りなく、具材を挟むという役目を果たしていない。約束された食べ応え。肉の赤身とマスタードの黄色い層が美しい。同じ皿の中にはピクルスと、細長いフライドポテトもあった。
「食べよう。死にそうだ」
ニコラはナイフとフォークを使ってパンケーキを切り分けつつ、ちらりとスピノーネの様子を窺った。彼がどう食べるのか気になる。
スピノーネはしばらくサンドウィッチを見つめた後、手を伸ばし――ニコラは改めて彼の手の大きさに驚かされた――分厚いそれを片手で掴むと、そのまま持ち上げてしまった。
ニコラはもはや顔を上げ、彼の食事をまじまじと観察していた。
髭に覆われた彼の口元から歯とピンクの舌が覗く。大きく開いた口がライ麦パンと肉の層を捕えた。みちみちと肉を噛み切る音が聞こえる。彼は具材やソースをこぼすことなく、パンと肉の層に見事な半月型の歯形を残した。髭に覆われた頬を膨らませながら咀嚼し、やがて大きな音を立てて嚥下する。ふと、彼と目が合った。
「……なんですか?」
「別に。ちゃんと食べてるか見てただけだ」
「あなたこそ食べてください。食事をしたいと言ったのはあなたですよ」
「あ、あぁ……」
ニコラがパンケーキを口に運ぶと、スピノーネもサンドイッチをまた一口かじる。ニコラは彼から目を離せなかった。まるで見知らぬ生き物の食事を見ているようで、どうしても気になってしまう。するとややあって、スピノーネが呆れたような視線を向けてきた。
「勤めていたダイナーでも、そうやって人が食べているところを見ていたんですか?」
「いや、違うけど……」ニコラは自分の皿に視線を落とす。
「私は決まった時間で食事をとっています。今回は色々と予定が狂ってしまいましたが」
「なら、お前の方が腹減ってたんじゃ――って、おい、もう食べ終わったのか!」
顔を上げた時、スピノーネはすでにサンドウィッチ食べ終えていた。皿に残っているのはフライドポテトとピクルスのみ。もっとよく見ておけば良かったと悔やむニコラはふと、スピノーネの髭に黄色いマスタードがぽつんとついているのに気づく。
腹の底が、くすぐられたようにひくついた。
「くく、くくく……」
「なんで笑うんですか。行儀が悪かったですか? きちんとした食事の席では、ナイフとフォークも使いますよ。その辺りのマナーはドメニコ様に仕込まれましたから」
真剣な表情のスピノーネに耐えきれず、ついにニコラはテーブルに伏して笑い声を抑えないといけなくなった。ストレスから逃れるための病的な笑いかもしれない。だがとにかく、愉快なものが喉を震わせて溢れてきた。止める理由も思いつかない。
「やはりあなたのことがわからない。資料にこういったことは書いていなかった」
「こういったことって?」
「危機感がない。ドメニコ様のご子息なら、それなりの振る舞いができると思っていました」
ドメニコの名前が出たことで、ニコラの笑いの発作は治まっていった。プレートに視線を戻し、冷め始めたパンケーキにメープルシロップをどぼどぼかける。切り分けていた一かけを、フォークで刺して口に入れた時、その甘さのおかげで、少し気分が落ち着いた。
「食事が終わったら、少し広場を歩かないか」
テーブル端のケースからナプキンを数枚引き抜くと、スピノーネの口元に押しつけた。
レストランを出たニコラとスピノーネは広場にやって来た。
ニコラの隣を歩くスピノーネは相変わらず辺りを警戒しているが、そのぴりぴりとした空気は、今や子ども達のはしゃぎ声で薄まっている。雪の積もった広場では子ども達が雪合戦や雪だるま造りに励んでおり、奥のスケート場でも悲鳴と歓声が上がっている。
「俺のことがわからないと言ったな」ジャケットのポケットに手を突っ込んでニコラは白い息を吐いた。「危機感がないとも」
「はい。それに、あなたは私の予想に反した行動を取ることが多々ある」
「どんな予想をしていた?」
「護衛対象者は自身の安全を積極的に優先し、私はそれに応えて仕事をする。だが、あなたは時折、自分の安全をないがしろにする」
「別にないがしろにしてるわけじゃない。俺はただ、マフィアとかギャングとか抗争とか、そういう物騒なことが嫌いなんだ。ドメニコの息子であることも、彼の面影があることも、トラブルに巻き込まれて他人が死んでいくのも、もう二度とごめんだ」
「二度と、ということは、一度目があったんですね」
ニコラは立ち止まった。「二度と」という言葉を口にしたことすら気づいていなかった。
「十八年前のことですか?」
本当に、こいつは思い出したくないことばかり思い出させる。隣で立ち止まった男に苛つく一方で、ニコラの胸の中でふと何かがよぎった――こんなこと誰にも話せない。きっと怖がられるし、絶対に理解されない。話してはいけない。正体を知られたら、この場所にいられなくなる――そうしていつしか石のように固くなった胸の奥が今、痛みを伴って疼き始めている。
彼になら、話せるかもしれない。
彼にしか、話せないのではないか。
日の当たらない世界に仕え、非日常を生きるこの男になら。
それに話したところで、もう自分に失うものはない。そうだ、何もないのだ。
迷いが胸から剥がれると、ニコラは地面を見下ろし、こちらに向いているスピノーネの爪先を見下ろす。彼の顔は見ず、口を開いた。
「あの夜、母を殺された」
十八年前の冬の夜。ニューヨーク郊外のスティヴァレッティ邸は、突然の襲撃を受けた。ドメニコや、組織の構成員達は仕事のために出払っており、屋敷にはニコラと母のセラフィーナ、数名のメイドと警備員しかいなかった。襲撃犯達はまず警備員を殺害し、屋敷に火を放った。
「母はセラと呼ばれていた。元娼婦で、美しく気丈な女性だった。だけど、俺を産んでからは病気がちになって、移動には車椅子が欠かせなくなった。あの夜、俺は一階にいたメイド達を外へ逃がした後、母が降りてきていないことに気づいて、二階の寝室へ行った。階段や廊下は黒煙に満ちていて、ほとんど周囲が見えない状態だ。だが、寝室からメイドの声が聞こえてきた」
当時十歳のニコラは寝室へ駆け込み、ベッドに座っている母と、そのそばに立つメイドを見つけた。二人に声をかけ、部屋の隅に倒れていた車椅子を取りにベッドから離れる。
「その時、敵の構成員が現れたんだ。二十代くらいの若い男で、右手の甲に骸骨のタトゥーがあった。男は母に銃を向けていた。だが彼女は静かに構えていて、決して俺の方を見なかった。煙だらけの部屋の隅で、車椅子の陰にいた俺は、まだ構成員に姿を見られていなかったんだ。視線を動かせば、俺がいることがばれると思ったんだろう」
構成員の男はセラに、お前はドメニコの妻かと尋ねた。
するとセラは笑い、「坊や、そんなこともわからないまま乗り込んできたのかい?」と聞き返した。すっかり痩せてしまっていたが、シーツの隙間から出た足は艶めかしく、強気な娼婦時代の面影を滲ませている。ニコラは、構成員の男がたじろぐのを見ていた。
「次に構成員の男は、息子はどこだと聞いてきた。息子の居場所を教えたら助けてやると言った。セラは答えなかった。メイドも彼女の意図を察したようで、震えながらも黙っていた。だけどこのままじゃ二人共殺される。何とかしたかったけど、俺は怖くて動けなかった……その時、発砲があった。撃ったのは母だった。腕の筋力が落ちたせいで弾道が逸れて当たりはしなかったが、構成員の男は部屋から逃げ出していったよ。その後で俺は母を車椅子に乗せ、メイドと一緒に寝室を脱出した。エレベーターが故障していたから、メイドと俺で車椅子を左右から持ち上げて階段を下りたよ。一階に到着した時には息が上がって、呼吸の度に喉と肺が焼かれるようだった。だが屋敷の出入り口は開いていたし、まだ火が通り道を塞いでいなかったから、すぐ外に出られると思った――だけど出入り口に差し掛かる寸前、天井から梁が落ちてきて俺達に直撃したんだ。下敷きになった俺は少しの間意識を失っていた。後から聞いた話だが、母の車椅子を押していたメイドは頭に梁が落ちてきて、その瞬間に即死していたらしい」
ニコラは一度言葉を切る。吐き気がしてきた。だが、もう全て話してしまいたかった。
「意識が戻った時、目の前に、さっき逃げ出した構成員の男がいた。彼は目の前にしゃがみ込んで、母と喋っていた。話し声はほとんど聞き取れなかったが、突然、男は絶叫して母を撃った。奥歯が痛むほどの耳鳴りを覚えてる。構成員の男は俺にも銃を向けたが、炎の勢いが増してきて退散していった。放っていてもいずれ焼け死ぬと思ったんだろう。俺は潰れた肺に鞭打って、必死に母の名前を呼んだ」
耳鳴りのせいで自分の声など聞こえていなかったが、それでもニコラは叫び続けていた。母の死に顔は白髪が垂れていたせいで見えなかったが、その髪が血塗れの床に広がって、毛先が燃えて縮れていくのは見た。その後、屋敷が焼け落ちる寸前で消防隊員が駆けつけ、ニコラだけが救助された。
「事件後、俺は乳母に引き取られた。縫合とか、怪我の応急手当のやり方は彼女から教わったよ。俺には今後、大怪我をし得る人生が待ち構えていると教えられたようだった。病院で治療を受けながらどうにか小学校の卒業試験を受けて、中学校へ進学、高校も卒業した――その間、ドメニコが俺を訪ねてくることは一度もなかった」
「その間、彼は何を?」
「詳細は知らない。襲撃の主犯だった男を見つけ出して処刑したっていうのは聞いた。だが、残党達までには手が回らなかったらしい。皆、報復を恐れて姿を消したんだ。ドメニコは敵を大勢この世に解き放ったことになる。敵は、そこら中にいる……」
話し終えた時、ニコラはポケットに突っ込んでいたはずの片手が、また自分で髪を掴んでいることに気づいた。離す意思はあるが、手が固く強張って動かない。意識よりも先に、身体の方へパニックの波がやって来ているのがわかった。冷静であろうとする努める意識すら徐々に蝕まれていく感覚がして、恐怖が頭をもたげる。ついには震えたまま、黙り込んでしまった。くそ、こんなことになるなら話さなければよかった。パニックに陥るなんて情けないと思われているはずだ――
その時、ニコラの片手がスピノーネの両手に包まれた。
ニコラはびくっとして、彼を見る。
スピノーネは少し前かがみになると、ニコラの手を包んでいる自分の両手に顔を近づけ、指の隙間からふうと息を吹き込んできた。大きく、厚く、傷だらけの掌、太い指、硬い皮膚はざらざらと荒れていて、少し鉄臭い。そこにじんわりとしたぬくもりが――この男から与えられるとは思っていなかったぬくもりが――冬の枯れ枝のように強張った手をほどいていく。しかしニコラはぽかんとして、スピノーネの真剣なまなざしを縁取る長い睫毛をただ眺めていた。
「すみません、手をすっかり冷やしてしまって……手袋も用意しておくべきでした」
「はは……だな」
ニコラは力の抜けた笑みをこぼした。彼の両手と吐息で温められた手はすでに髪を離していたが、ニコラは何も言わずにしばらく黙っていた。不意に、呟くように尋ねる。
「どうして殺さなかったんだ?」
「え?」
「さっきのニュース。ダイナーの襲撃犯達は死んでないって。殺してほしかったわけじゃない。だけど、どうしてだ?」
するとスピノーネがするりと手を離した。避けるような仕草にニコラは内心どきりとしたが、彼の手を追いかけはせず、自分の手を再びジャケットのポケットの中にしまった。
今度はスピノーネが黙り込む番だった。しばらくして彼は溜息をついて口を開いた。
「私はドメニコ様と契約を結んでいます。命を賭して護れ。されどその道、屍で汚すなかれ――不殺の契約です。誰も死なせるな、殺すなということです」
「なぜマフィアのボスがそんな契約を?」
スピノーネは眉間に皴を寄せた。
「私の弱さが原因です。長くこの世界で仕事をしていますが、昔から私は敵を殺すまでに至れない。例えそれが必要な状況であっても――物心がついた時から私は傭兵に育てられていたのですが、その中にいた一人の男が、私に殺しを教えようとしました。彼は、人がそれぞれの沸点を超えて怒るように、私にも殺しの沸点があり、それが気が遠くなるほど高いところにあるのだと言いました。本当のところはどうなのかわかりません。結局、私は彼の教えに従えず、最後は部隊を追い出されました。その後、仕事を求めて各地を転々としていた時、ヨーロッパでドメニコ様に出会ったのです」
ニコラは話を聞きながら、ドメニコが彼と出会ったのは、屋敷とセラが焼失し、息子を乳母に預けていた時期だろうと思った。
「真夜中の街でした。ドメニコ様は商談を終えてレストランから出てくるところで、当時の私は偶然そこに通りかかっただけのホームレス。彼は部下を一人連れていましたが、あの瞬間、私だけが、通りの角からやって来る二人の刺客に気づきました。それは交渉に負けた商談相手が送り込んだ殺し屋でした。路地裏に座っていた私は、彼らがシャツの下から銃を取り出すのを見て――いっそこれで撃たれて死んでしまおうと思った。そして彼らの間に割って入り――だけどドメニコ様が、撃たれた私を病院へ連れて行ったことで、私は生きながらえた」
「それがきっかけか」
ニコラが言うと、スピノーネはこちらに視線を戻して見つめてきた。
「彼に雇われることになった際に、私は自分の弱さについて説明しました。過度な期待はさせたくなかった。すると彼はこう言ったんです。時に、殺すより生かす方が残酷だと」
スピノーネの目の冷たさに、ニコラは思わずぐっと口をつぐむ。温められたはずの手が、また少しずつ冷えていくようだ。沈黙が二人の間に流れる空気を凍らせていく。
「きゃー! 風船!」
その沈黙を破ったのは、子どもたちの歓声だった。
ニコラとスピノーネは同時に、広場の方へ視線を向ける。
空の雲は移動しつつあり、細々とではあるが陽光が差し込んでいた。このタイミングを待っていたのか、風船売りの老人が、色とりどりの風船をくくりつけたワゴンを押して現れる。その周りに子ども達が集まり、風船をねだられた親達も集まり始めていた。
するとニコラの目の前に、ピンクの風船を持つ少女が現れた。彼女は片手に風船の紐を、もう片手で作りかけの雪だるまに触れようとしている。雪だるまに気を取られた瞬間、その手から風船の紐がするりと抜けていった。
「おっと!」
ニコラは反射的に駆け出し、少し飛び上がって風船の紐を掴む。冷えた手にビニール紐の感触がした時にはほっとした。地面に着地してから足元を見ると、びっくりした表情の少女がこちらを見上げていた。さすがに驚かせたなと反省しつつ、ニコラは彼女の身長に合わせてしゃがみ込んだ。そして風船の紐を差し出す。
「ほら、しっかり持ってなさい。手首にくくっておいた方がいいかな?」
「うん。ありがとう、おじちゃん!」
少女は屈託のない笑顔でそう言うと、小さな腕をさっと差し出してきた。ニコラは手早く、彼女の手首へ風船の紐を軽くくくりつけてやる。そして少女と共に、ぷかぷかと浮かんでいるピンクの風船を見上げた。
「よし、これでいい。もうどっかに行ったりしない――」
ぱんっ。
乾いた音と共に、風船が空中で弾けた。
何が起こったか理解する前に、ニコラは本能的に少女の腕を掴んで胸に抱えていた。それとほぼ同時にスピノーネに背中を掴まれ、ワゴンの裏へと引っ張り込まれる。強く肩を抱き寄せられ、彼の胸に頭を押しつけるような体勢になる。銃声は立て続けに聞こえ、広場の雰囲気は一変した。悲鳴が渦を巻いている。地面に映る風船の影が、銃声が聞こえる度に少しずつ小さくなっていく。
「襲撃です! 怪我は?」
スピノーネが声を張って尋ねる。呆然としていたニコラはすぐには答えられなかった。
「怪我は!」
「あぁ、ない! どうする?」
「あの路地です!」
逃げ惑う人々の隙間をスピノーネが指差す。建物に挟まれた細い路地が見えた。あそこへ逃げ込めれば銃弾を避けられるだろう。十数メートルの距離を、無傷で駆け抜けることができればの話だが。
「あなた達をあの路地へ送り届けたら、私は狙撃犯を捕らえに戻ります。制圧できたら車を回してきますので、路地の先で落ち合いましょう。あなたは、その少女を」
「わかった。だけど、どうやってあそこまで?」
「それは……」
また頭上で風船が割れた。瞬間、ニコラの頭の中でひらめきが弾けたが、口に出すのを躊躇った。馬鹿なアイデアかもしれないという不安がよぎる。しかし、響き渡る銃声がその不安を掻き消す。
「なぁ、風船の束を切り離して、その影の中に入ったまま移動すれば、俺達を隠したまま移動できるんじゃないか? 狙い撃ちにはされないだろう。どうだ?」
「あぁ、そうですね。それしかない」
スピノーネはニコラの肩を抱いていた手を離すと、ズボンの裾を捲り、足首のホルスターから小型のナイフを引き抜く。もう一方の手で、ワゴンにくくりつけられた風船の紐の束を掴んだ。彼はニコラと少女の方を振り返る。
「準備はいいですか? 全力で走ってください。影からは出ないように」
「わかってる……」ニコラは少女を胸に抱いて頷く。
「走って!」
スピノーネがナイフを素早く横に振った。瞬間、自由になった大量の風船は塊となって空へ昇っていく。広場の地面に大きな影が滑っていく。ニコラは少女を抱いてワゴンから飛び出すと、散らばりつつある影の中に駆け込んだ。相変わらず銃声は聞こえてきたが、すぐ後ろを走るスピノーネの足音へ意識を向け、すくみそうになる足を必死に動かした。路地の入口の壁を片手で掴み、通り過ぎそうになる身体を引っ張り込む。路地に入った瞬間、後ろからスピノーネが抱きついてきた。
「大丈夫ですか?」
「あぁ……」
胸を喘がせながら息をしていると、ふとスピノーネが離れていった。少女を地面に降ろして振り返ると、すでに彼は路地から走り出ていた。
「スピノーネ!」
ニコラは路地から身を乗り出した。降り注ぐ銃弾がスピノーネの足元の石畳を削り、白っぽい塵を飛び散らせる。その塵を切り裂いて駆けるスピノーネのスピードにニコラは目を見張る。まるで訓練を受けた犬のようだ。彼はあっと言う間に広場を抜け、狙撃犯がいる建物の中へと侵入する。狙撃犯の焦りが弾道に表れる――流れ弾がニコラの顔のすぐ横を掠めて壁に当たった。慌てて顔を引っ込めたニコラは、今度は少女の方を見た。彼女は浅い呼吸を繰り返しながら呆然としており、もう二度と浮かぶことのない風船の紐をまだ握り締めていた。
ニコラは地面に膝をついて、彼女の肩に手を置く。
「いいかい。この道を通って、真っ直ぐ家に帰るんだ。そうすれば何もかも元通りだ。わかったね? 君は大丈夫だ」
少女は震えながら頷いたが、突如、その小さな口から甲高い悲鳴が炸裂する。その原因を探る前にニコラは首に鋭い痛みを感じて、頭を仰け反らせた――背後から髪を掴まれ、後ろへ引き倒された。
「腹ばいになれ!」
男の怒声と共に腹を蹴られた。反射的にうつ伏せになると、すかさず背中に乗り上げられた。息苦しさに顔をしかめた時、遠ざかっていく少女の泣き声と足音が聞こえた。こんな状況だというのにそのことにほっとしていると、突然背中に痛みが走って目を見開く。
「うああ!」
「暴れるんじゃねぇ! 神経は避けて刺してやろうと思ったのによ!」
身体の熱を乱暴に押しのけて、冷たい異物が肩甲骨の辺りから体内へ入ってくるのがわかる。太い針だ――皮膚に注入された液体の冷たさ、圧迫感、鋭い痛みで呼吸が乱れる。心臓の鼓動が頭の中にまで響いて、一瞬何も聞こえなくなる。やがて針が引き抜かれた。
「心配すんな、五分後には車が来る。その頃には少しは楽になってるだろ」
男が相変わらず背中に乗っていて起き上がれずにいると、ふいに顔のすぐ横へ、空の注射器が投げ捨てられた。プラスチックの容器の中に、青色の薬液がわずかに残っている。それから目を離せずにいると、再び後頭部の髪を掴まれてぐいと上を向かされる。
「ううぅああぁあ……」己の口から這い出てきた声にぎょっとした。
「はは、すっげ。もう効き目が出ちまうんだな。呂律が回ってねぇぞ」
髪をぱっと離され、ニコラは顔面を地面に打ちつけた。痛みより、戸惑いの方が大きかった。目をきょろきょろと動かすことしかできない。何だ、何が起こってる? 全身に力が入らない。すると男が背中から降りた。だが、ニコラは動けなかった。力任せに肩を掴まれ、仰向けにされても抵抗できない。ようやく姿の見えた男は黒の防寒着の上に防弾チョッキを着込んでおり、肩まで伸びた小汚い黒髪が顔の周りで揺れていた。
「ニコラ・スティヴァレッティ。本物は初めて見たぜ。厳つい顔の割には綺麗な髪してんなぁ。母親の遺伝か? 娼婦だった母親と同じように、お前も股開いて商売したらどうだ?」
男の手が、ニコラの胸に流れた髪の一筋をすくい上げた。全身の肌が粟立つ。
「俺が最初の客になってやろうか。大人しくしていれば痛くはしねぇよ。まぁ、痛い方が好みだってんなら話は別だが」
男の手がニコラのジャケットを剥ぎ、シャツのボタンを外していく。ニコラはせめてもの抵抗で顔を逸らしたが、力の入らなくなった唇の端から唾液が垂れてきた。これから何が起こるのか想像したくない。だが、想像してしまう。何かの奇跡で身体が動くようになって、男を殴り飛ばすという想像よりずっと容易だからだ。ニコラは歯を食いしばり、目を固く閉じて耐えようとした。
「ははは! あのドメニコの息子がこのざまかよ! 全く情けな――」
男の声が不自然に途切れる。身体から男の重みが消えた。驚いたニコラは目を開け、視線を動かして辺りを見回す。何が起こっている? 自分の爪先の方へ視線を向けた時、そばにスピノーネが立っているのがわかった。彼の背中が見える。
「あ……」
呼ぼうとしたが、声すら消えかけていた。
するとスピノーネは地面にしゃがみ込み、腕を振り上げては降ろすという動作を繰り返し始めた。肉がぶつかるどっという音が数秒続き、そこに骨が砕ける音が混じる。手に嵌められているメリケンサックが血に汚れて、輝きを失っていく。彼の身体の下で伸びている一対の足が、スピノーネの腕の動きに合わせて力なく揺れている。彼が何をしているのか――自分の足元で何をしているのか――理解するのが恐ろしかった。ニコラは視線を逸らし、路地裏から見える鉛色の空を仰ぐ。その空をじっと見つめながら、胸を内側から叩く心臓に急かされるように呼吸をしていた。
やめさせないと――
「スピノーネ……」
徐々に硬い管と化していく喉で彼を呼ぶ。
「スピノーネ……もうよせ……」
すると人体の破壊音が止み、靴の底が石畳の地面を擦る音が聞こえた。恐る恐る視線を向けると、彼はゆらりと立ち上がっていた。深く規則正しい呼吸を繰り返す身体は大きく膨らみ、まるで怒り狂った雄牛のようだ。横顔は血に塗れ、目はぎらついている。
しかし、ふと彼の表情が変化していく。大きく見開かれた目の中で瞳が不安定に揺れ、一定のリズムを保っていた呼吸が乱れ始めていた。まるで壊れる寸前かのように――
「……スピノーネ?」
蚊の鳴くような声で呼んだ時、彼はこちらを振り返った。
「ニコラ、大丈夫ですか? 立てますか?」
スピノーネは人間らしい顔つきに戻っていた。駆け寄って来た彼に抱き起こされた瞬間、ニコラの中にあった恐怖や戸惑いはぼやけて消えていく。しかしそれらが感情の堤防だったらしく、途端に噎せ返るほどの恐怖が溢れ出してきた。
「駄目だ、立てない……」
「何をされたんですか?」
「背中だ、背中に何かを……注射されて……」
「背中ですね、わかりました。ちょっと見せてください」
抱き寄せられたニコラは地面にぺたんと座り、垂れた頭をスピノーネの肩に頭を預ける体勢になった。もはや糸の切られた操り人形だ。ぐにゃぐにゃと不安定な身体をスピノーネの腕に支えられながら、彼の手が背中に触れてくる感触と温もりに縋る。何とか落ち着こうと試みるが、パニックはニコラを逃がしてくれなかった。頭の中で極彩色の渦が巻く。呼吸に意識を向けていたが、徐々に気道が狭まっていき、は、は、と喘ぐようになる。身体が痙攣し始めると、とうとうパニックに飲み込まれた。
「はぁっ、はっ、お、おれは、はっ、しぬっ?」
「いいえ。少し身体の自由が利かなくなるだけです」
「もう、いきが……できない……」
「大丈夫です。落ち着いてください」
「だめだ、もう、だめだ――」
「ニコラ」
両肩を掴まれて身体を引き剥がされる。ニコラはスピノーネと真正面から見つめ合った。ブラウンとグリーンの瞳に覗き込まれた時、頭の中を滅茶苦茶にしていた渦が消え、恐怖に支配されていた心臓の鼓動が一瞬だけその旋律を変えた。
「あなたは死なない。私が死なせません」
射貫くような目に見守られ、ニコラは安堵と共に意識を失った。
ともだちにシェアしよう!

