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第0章

「どーも、ご指名ありがとうございます。『新宿ギルド』の陽斗で……す」  その瞬間、陽斗を襲ったのはまずは驚きだった。その驚きが通り過ぎると、次にわきあげて来たのは自己嫌悪。 (まっ、間違えた……?)  俺としたことが。この道三年目にしてまさか、客と待ち合わせの部屋を間違えるだなんて。  こっちをじっと見つめている男にくるりと背を向け、陽斗は手の中にあるスマホのDMを覗き見る。 俺:ホテル先入りですね、了解しました。部屋の番号、教えて。   アオイ:五〇二号室で待ってます。  首を曲げて、点滅している部屋番号表示に再度、目をやる。スマホを見て、もう一度部屋番号を確認して……何度見てもここは「五〇二」だ。陽斗は首をかしげながら男に尋ねた。 「……ここのラブホって、『アフロディーテ』で良いんすよね」  男がうなずく。 「アフロディーテの、五〇二」  再度、うなずく。 「え、……と」  理解が追い付かない。俺はDMでやり取りしていた女性客と待ち合わせていたはずだ。待ち合わせ場所のラブホに、なんで男がいるんだ。  三秒ほど考えて、やがて陽斗はある結論に至った。ああ、そういうことか。プレイを見てくれってやつか。俺と彼女の。あるんだよなあ、そういう依頼。見かけによらず、変態なんだな。  俄然、合点がいった陽斗は、「失礼しました」と軽めの会釈をし、部屋の中に入った。  過去に何度も使ったことのある、この界隈では平均的なランクのホテルだ。見慣れた大きなベッドと照明の操作盤、ソファ、テレビセット、最低限のアメニティ。部屋の真ん中付近まで進んで、背中からバックパックを下ろした。中から質問票の入ったファイルを取り出す。希望のプレイやオプションの希望などを聞き取るためのものだ。二回目以降のリピーターには、前回の内容を覚えていって当日の施術に盛り込むと、とても喜ばれる。趣味嗜好、情報が多いほど、いい接客に繋がる。そうやって、ナンバーワンに上り詰めた。  ふと、陽斗が顔をあげた。妙だった。部屋では冷蔵庫が低く唸り続けている以外、物音がしない。いるはずの女の子の気配が、一切しないのだ。 「あの……彼女さん、とかは」 「いないよ。俺ひとり」  弾かれたように立ち上がっていた。頭をフル回転させる。確か、入り口に靴は一組しかなかったはずだ。他に誰もいないはずだが、奥の風呂場に仲間が隠れている可能性もある。  唾を飲み込む。喉がひどく乾いていた。さっきから何かが胃をせりあがってきていて、心臓が暴れている。陽斗は目だけを動かした――ベランダ、男、ベッド、ベッドの奥の脱衣所、エントランス、そしてまた男に焦点を戻す。こいつ、目的は何だ?部屋に上がり込んでしまった自分の愚かさを呪いながら、最悪の場合にはすぐに逃げ出せるように、玄関に背を向けて立つ。  男の瞳は、凪いだ海のような静けさをたたえていた。荒れた夜の街の光を吸い込んだにしては、あまりに濁りなく清冽で、その色彩を見た瞬間、陽斗は胸の奥が変にざわつくのを覚えた。直感したのだ――誰かを追いかけて、誰かを見失って、それでもなお“光”を探し続けてきた人間の目だと。太い首に視線が落ちる。ずっしりと重たそうなチェーンのシルバーネックレス。黒いシャツの襟元から覗く浅黒い肌。半袖から覗くたくましい腕に、日本人離れした螺旋状の刺青がびっしりと彫られている。 目を閉じる。怖い想像が一瞬で脳裏にわいてくる。歌舞伎町に来て三年、それなりに危険な目にもあってきて、それなりに切り抜けてきたけれど、とうとう終わりか……。まあ、特段惜しいものもないけどな。別に大事にしているものもないし、人生流されるように生きてきたんだ。金が稼げたら、ちょっとは兄貴のためになるかなって思ってたんだけど。まあでも、別に俺が生きてたって死んでたって、誤差みたいなもんだしな。ていうか、この後どうなるんだろう俺。薬漬けにされて臓器を抜かれて売られんのかな。 「あの」  覚悟を決めて、男のほうを向き直る。後ろに逃げ道を確保する。「俺を指名したの、お兄さんってことっすか」  どうしゃべるのが正解かわからなくて、変な敬語が出てしまう。うなずいた男が何か話そうとするのをさえぎって、 「困るんですよ、そういうの」  陽斗が言い放った瞬間、男の瞳が一気に色を失った。青く突き抜けた晴れ空に突然、夕立の雲がかかったときの夏の翳りそのものの、あからさまな曇りよう。陽斗は少し面食らって、 「いや、その、うちの店は女性を想定しているんで……サービス的にちょっと男性の方の対応は、ちょっと……難しいっていうか、何ていうか、その」 「わかった」男は低く呟いた。「すまなかった。余計な手間をかけさせてしまって」  男は歩み寄ってきて、いきなり俺の手を掴んだ。とっさに身を引いたが、掴まれた腕はびくともしない。男は万札を数枚、俺の手に握らせると、手を離し、踵を返した。 「帰ってくれ。俺が悪かった……もういいから」  男は陽斗に背を向け、ベッドに腰かけた。大きな背中がしおれたヒマワリのようにうなだれていて、見ているだけで気の毒になる。陽斗は男にそっと近づき、ベッドに片膝をついた。スプリングが沈み、男がぱっと頭をもたげる。そのまま、陽斗は背中に身体を寄せた。 「俺さ、今日の仕事、急にドタキャンされちゃってさ……」  歌舞伎町に来て三年も経つのだ。男と寝た経験もないわけではない。男の背中は真昼の海のように広く血が通っていて、触れたところから沁みてくるぬくもりに、陽斗は不思議なくらい安らいだ。 「だから、今だったら時間あるんだよね。話聞くよ、俺でよかったら」  男はしかし、陽斗のほうを見もしないで、回された腕を振り払い、荷物を引っ掴んで出て行ってしまった。

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