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第1章

 じりじりと顔を灼く熱に耐えきれず身体を起こした。  カーテンの隙間から差し込む朝日がちょうど枕の位置にきていて、もう少し寝たかったのにと舌打ちが出る。寝覚めが良くないうえ、あの夢が脳裏にこびりついていて最悪だ。骨盤の真上にのしかかる質量。ずっしりと脂肪におおわれた女の白い腰が、前後にくねっている。緩んだ尻の肉が太ももに叩きつけられ、また離れる時の濡れた音。初めに感じていたのは確かに恐怖だったはずなのに、与えられる快楽があらゆる感情を塗りつぶしていく。やがて何も感じなくなって、いいやもう、どうなったって、と投げやりに意識を手放したところでいつも目が覚める……のだが、今日の夢には続きがあった。場面が切り替わり、大きな瓦張りの日本家屋の前に立っている。黒ずんだ木材の引き戸の隙間から、一人の男がこちらを見つめている。表情は読み取れないが、首から肩、腕にかけて、長く巻き付いた刺青が目に焼き付く。  床に転がったペットボトルや、昨夜のままの服を足先で避けながら部屋を横切る。脱衣所の蛍光灯は少しちらついていて、白い光が不規則に点滅している。蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。歯ブラシを咥えたまま、壁のタイルの目地に広がる黒い黴をぼんやりと見つめる。洗面台のボウルに水を流す。白い泡がゆっくりと分裂し、水に押し流されていく。さっきまで覚えていたはずの夢はすでに輪郭を失って、もう辿ることができなくなっていた。自分はまだ、現実と夢の境界に立っているのかもしれなかった。鏡の中から見つめ返してくる自分の姿も――切れ長の二重まぶたに落ちる前髪、まつ毛が落とす影、すっきりと薄い頬。淡い蛍光灯の光に縁取られた鎖骨、薄く筋肉の載った腕、そういうものも、どこか現実味を帯びていない。  遠くで、西武新宿線が通り過ぎていくのが聞こえる。翳りゆく部屋の中で、DMの通知音が響いた。  新宿駅東口の街は、すでに夜の体温を持っていた。巨大なガラスの壁面に映るネオンが、行き交う人々の頬を淡く照らす。  アルタ前の広場を横切る。けたたましくビートを刻むEDMやざらついた音質のアイドルソングが、押し寄せては引いていく。花火のように沸き上がる笑い声、横断歩道の音、キャッチの呼び込み、外国語——誰のものでもない新宿では、誰かの人生が常に交差している。  靖国通りを渡ると、ビルの間に立ち込める空気が変わる。TOHOシネマズのゴジラヘッドが見えてくる。その下を通ると、路地の奥から甘い香水とアルコールの匂いが混じった風に包まれる。お兄さん安くしますよ、と声をかけてくるキャッチの男を、お疲れ様です、俺も同業なんでわかります大変っすよね、の気持ちを込めてやり過ごす。区役所通りを北へ。発光するコンビニの白いLEDも、巨大なキャバクラの看板も、深夜営業のラーメン屋も、すべてが歌舞伎町という巨大なパズルのピースとなって、高い空にそびえている。視界が少し開け、トー横広場に出た。ツインテールや巻き髪の女の子たちが数名ずつ固まって、地面に座り込んでスマホをのぞき込んでいる。  萌は柱の陰に立っていた。ベージュピンクの地雷系ファッションが、ネオンの光を受けてやけに鮮やかに見える。胸元には大きなサテンリボン。スクエアネックの襟もとから覗く鎖骨を、レースのフリルが飾っている。スカートは膝上でふんわりと広がり、裾には黒いレース。猫柄のニーハイソックスの足元は、厚底10cmはあろうかというストラップシューズだ。  陽斗に気づいた萌が、手を挙げて合図した。 「はるくん、やっほー」  頬のすぐ横でまっすぐに切り揃えられた黒髪が揺れる。萌ちゃんごめん待ったよね、と声をかけると、「ううん、全然平気」と笑って萌は、差し出した手を握り返してきた。  今日は、ネオンの煌めく石造り風のホテルに入ることに決めた。バニティケースに入った仕事道具をサイドテーブルに置き、BGMの音量を調整した。やがて水音が止み、ガウン姿の萌が浴室から現れた。隣に立った萌の首筋から、湿ったボディソープの香りが立ちのぼって鼻腔をかすめた。 「いつもの感じでいい?」  小さく頷いたのを確認してから、頬を手のひらで包み込み、ゆっくりと唇を塞ぐ。萌は、優しくされるのが好きだ。キスをしながら、服を脱がされるのも。 「照明、このままでいい?」  ベッドに誘導し、押し倒しながら確認すると、返事とも喘ぎ声ともつかない返事が返ってきた。  うつぶせに横たわった萌の身体をほぐしていく。服は脱がさないでほしいというのが萌の希望だ。彼女の身体がある程度ほぐれたところで、そっと細い腰に手を添え、身体を仰向けにさせる。ぼんやりと焦点の定まらなくなった目つきが、まるで小さな動物みたいだと毎回思う。唇を塞いで開かせ、舌を押し入れる。萌の舌を引き出して絡め合いながら、スカートをたくし上げる。萌の引き締まった脚の付け根に、薄いサテン生地の下着が引っかかっている。その隙間から頭を出している勃起した亀頭に指が触れる。萌はキスが好きだ。だから、気持ち執拗に吸ってやるだけですぐに濡れてくる。指に絡みつく先走りの蜜がにちゃ、と音を立て、指が濡れる。声を低く抑えて、 「おい、何だこれ……」  ちゅぱ、とわざと音を立てて唇をついばむ。 「ココ、こんなにして……恥ずかしくねぇのかよ……」  肉茎を握り込み、ゆるゆると上下に扱く。萌は顔を真っ赤に染めて、浅い息を吐いている。このくらい濡れてきていれば、強めに責めてもいいはずだ。下着を抜き取り、脚を開かせる。脚の付け根を羽でなぞるように辿ると、快楽を訴えて、ペニスが触ってほしそうに跳ねた。 「すっげぇ淫乱……こんなに可愛いのに」  下着を抜き取る。ワンピースも、ニーハイソックスも穿かせたままだ。適合手術をまだ受けられていないトランスジェンダーの萌は、そこらの女よりずっと女っぽい願望を秘めている。だから萌は、いつも必ず着衣でのプレイを希望する。薄い生地の白いフリルの下着を押し下げ、透明な蜜を溢れさせている先端に息を吹きかける。くねる腰を両手で押さえつけて、そのままペニスを咥えた。 「ああぁんっ……♡」 「ちんぽしゃぶられて喜んでんじゃねえよ、女のくせに……」  尻尾を振る犬のように萌の腰が嬉しそうにくねり、肉茎が口の中で質量を増す。唾液をまとわせて、じゅぷ、じゅぷ、と音を立てて吸い立てる。  片方だけ下着を引っかけた状態で、脚を大きく開かせる。「イキたい?」と聞くと萌は首を振った。今日は額面通りに受け取り、陽斗はサイドテーブルに置いていたローションを引き寄せた。たっぷりと指に取り、入り口に中指を潜り込ませる。少しずつ指を奥に進めて、ソコを押し拡げていく。 「あ……!」  萌が声を上げて、腰を大きく揺らした。その箇所をひっかくように指で刺激してやる。 「やぁ、あっ……あぁ♡ っだめ、そこ……ッ」  じれったそうに腰を前後に揺らす。指を入れたまま、萌に重なるように身体を倒す。耳元に唇を持って行き、「どうしてほしいか言ってみ」とささやく声に多めに吐息を混ぜる。 「んん……っ、い、いれて……」 「何をだよ……ほら、言えよ」 「ぅ……っ、はるくん、のぉ、……おっき、おちんぽ、ほしい……のぉ、」 「本番したら俺、店に怒られちゃうなぁ……」  空いた手をサイドテーブルに伸ばす。避妊具を手探りで探しあてる。 「でも、萌がこんなに可愛かったら、止まんないよ……、いいの? 入っちゃうよ」  片手で避妊具を着け、後孔に先端を押し込んだ。 「あぁぁんっ……♡」  半分まで腰を沈めて、ゆっくりと引き抜く。ねっとりと腰を使いながら、萌のペニスに手を添えた。奥を突き上げた時に、腹がペニスに擦れるように手で位置を、萌の声がひときわ高くなった。 「んあ、ぁぁ、っや、……っ、すご、気持、ちい……ッ……」 「すげぇ可愛い……可愛いよ、もえ……」  握り込んで上下に激しく扱く。細い腰が、びくん、と大きく反った。 「ぁ、あぁ、あぁぁだめ、っイク……ッ……——!」  身体を大きくそらして、萌は手の中で果てた。  行為が済んで、できるだけ甘い声で風呂に誘導したのだが、ベッドで過ごしたいと引き留められた。 「はるくん、好き」  萌が首筋に、嬉しそうに頭を擦りつけてくる。ぽんぽんと頭をたたいてやると、ふふ、と幸せそうな含み笑いが聞こえた。 「萌には、はるくんだけなの」  いつもはホテルの前で別れるのに、今日は萌が後をついてきた。深夜一〇時。ホテルの並ぶ通りを新宿駅に向かって歩いていくと、やがて大久保公園が見えてくる。ネオンの残光が芝生の端を薄く照らしている。陽斗よりやや背の高い萌が、腕に絡みつくように身体を寄せてきた。 「まだ一緒にいたいなあ」  普段なら本音は隠す余裕があるのに、ごめん明日バイトだから、と距離を取ってしまった。あ、と思って見下ろした萌は、寂しそうに目を伏せていた。 「そっか……次はいつ会える?」 「いつでもいいよ、萌ちゃんのためなら、予定空ける」 「ありがと、またDMするね」  萌は満足したように笑い、手を振って、公園の奥へ消えていった。  人波をかきわけて駅の方角へ歩いていくと、ビルとビルの隙間にはめ込まれた縦長の雑居ビルが見えてくる。その3階に『新宿ギルド』の事務所がある。エレベータを降りてすぐ右、スチールのドアを開けた。パイプ椅子がいくつかと、デスク、オフィスチェアが数セット置かれているだけの殺風景な空間。煙草の煙がしみ込んだ壁は赤茶けていて、手がけている女性用風俗という業態のイメージとはあまりにもかけ離れている。部屋の奥には帳簿やパソコンが山積みになっているデスクがあり、佐野とウタが何かを話し込んでいた。 「お疲れ様です」  会釈をして近づいていくと、「お疲れ、陽斗」と、佐野が手を挙げた。佐野は女性用風俗店の系列『ギルド』の新宿支店の店長だ。明るいブラウンヘアにマッシュルームカットの重たい前髪、いつもベージュのスーツに暗い色のシャツを合わせている。  陽斗は空いたデスクの上にバックパックを置き、中から書類を取り出した。佐野は書類を受け取り、ひととおり吟味した。業界では珍しく、性病検査費用は事務所持ちだ。『ギルド』系列で、検査費用を持つ支店は他に聞いたことがない。一度でも「陰性」が出れば、日付をいじるだけでいくらでも改ざんできそうなものだが、佐野はそういう不正を許す男ではない。今年二十一歳の陽斗より、佐野は一回りも年上で、陽斗は佐野を、実の兄以上に尊敬している。  佐野は書類から目を上げると、体調は悪くないかとか、身の回りで変わったことがないかとか、陽斗に尋ねてきた。特にないです、と言いかけて陽斗は、 「あ……そういえばこの間」  陽斗は佐野に、女と偽って指名を入れてきた男の話を聞かせた。佐野は黙って話を聞いていたが、話を聞き終えると真剣な面持ちで言った。 「その男とは、その後は」 「いや、……それっきり何も」  男の容姿を思い出す。浅黒い肌、いかつい見た目。この街には不似合いなくらい澄んだ瞳。 「ブロックした? そいつのアカウント」  陽斗が首を振ると、佐野は声を硬くして、「ブロックしろ、今すぐ。絶対に連絡するな。今回は、たまたま何もなかったかもしれないが、危なすぎる。あまりにも」 「俺がすげえ違和感を感じるのはさ、」横で聞いていたウタが、腕を組んで言った。「そいつの目的だよ。もしそいつがゲイだったのなら、ゲイの専門店を探せばいいことだろう。選択肢がないわけじゃないんだ。歌舞伎町には掃いて捨てるほどあるんだから、ウリセンの店なんてのは……。それでも、そいつはあえて、お前を指名してきた。つまりそれって、絶対にお前じゃなきゃいけない理由があったってことだろ」  ぞっ、とした。背筋に氷を押し付けられたように心臓がすくむのを感じた。佐野が近寄ってきて陽斗の背中をたたいた。 「まあ、今後そいつに近づかなければ、怖いことはないさ。あ……でも念のため暗い道は使うなよ。うちの大事な大事な稼ぎ頭に、何かあったら俺困っちゃうからな」  刺青だらけだったあいつの背中を思い出す。女のフリをして風俗に申し込んでくるという挙動からして、やべぇやつで確定なのに、不自然な引っかかりを感じていた。もしあいつが、評判通りやべぇやつなのだったら、狂った人間特有の勢いも、覇気も感じられなかった。俺に拒絶された後も、食い下がるとか逆ギレするとか、そういう自己中心性は一切なく、すぐに謝ってきた。サービス提供を拒否されたのに、あいつは金まで握らせてきたのだ。歌舞伎町には不似合いな、どちらかというと地方都市的な「牧歌的人の良さ」を感じさせるというか。  陽斗は目を伏せた。刺青だらけのあの男の解釈について、まるでパズルのピースを合っていない場所に無理やり嵌め込んだときのような、強い違和感を覚えていた。  スマホが震えた。SNSの黒いアイコンの横に「新着メッセージがあります」の文言。「やべぇやつ」に支配された脳裏に、萌の残像が浮かび上がってくる。  西武新宿線のガード下を歩いていく。明け方の新宿の空には太陽は確かに出ていて、夜の闇はいなくなっているはずなのに、星が一つも見えない。 ふっと画面が暗くなって、画面に「兄」の文字が浮かび上がった。 「もしもし」と、聞きなれた低い声が鼓膜を揺らす。「元気か?」 「うん。兄貴は?」 「相変わらずだよ。母さんも」  まだ生きてるのか。 「最後の抗がん剤が終わったから、来週退院。体調が良ければ仕事に戻れるってさ」 「ごめん……そっち、帰れなくて。兄貴だって仕事休むの大変だろ」  兄は高校を出てから短大に進学し、この春からは地元の企業で働き始めている。初任給が出た頃、高卒の同期と大して変わらない給与に文句を言っていたけれど、実家住まいの彼の生活費は、都心で暮らす陽斗のそれとは比にならないので、やっていけているはずだ。 「いいさ、そんなこと。それより金の方の面倒をかけて、ごめんな」  二時間客を取れば、手取りは一万円。毎日女に買われてようやく三〇万円だ。アルバイトの時給と合わせたものが収入で、そこから生活費を差し引いた金額を、俺は兄に仕送りしている。 「平気だって。俺は学校行ってるわけじゃないし。その日がとりあえず食えればいいって感じだから。今月は少し多めに送れると思う」 「……ありがとう。光」  本名で呼ばれるとくすぐったい。バイト先ではタイミーさんとしか呼ばれないし、あとは全員、源氏名の「陽斗」で通しているからだ。そういえば、東京には友人らしい友人はいない。もっとも、東京で友人を作るつもりなんかないけれど。 「光、本当に、こっちのことは気にしなくていいから。無理に帰って来なくてもいいし」  兄はいつもそうだ。こっちの心の重さをわかっているかのような言いぶりをする。全部話したわけじゃないけど、俺と母との確執を、兄貴は察している。そんな先回りな配慮が嬉しい時もあれば、ちょっとうざったい時もある。よくできた兄なのだ――だから母が可愛がったのも、常に兄の方だった。 「母さんには会わなくていいけどさ……俺はたまには一緒に飲みたいから。たまには顔見せに来い」  兄の言葉に、適当な返事をした。悪いけど俺は、東京を離れるつもりはない。  北関東の地方都市で、母は女手一つで俺を育てた。そのことに対して、感謝していなくはない。けれど、あの頃のことはもう考えたくない。母には正直、いろいろな思いがあって、産んでくれてありがとうなんて絶対に言いたくない。しかし現状、実際、母の面倒を見ているのは兄なのだ。母のことはどんなに憎くても、兄の力にはなりたい。  そんな身の上話を、涙を流して聞いてくれたのがさとみさんだ。セラピスト「陽斗」の、初めての常連客になってくれたさとみさんは、どうやら俺より二〇歳ほど年上らしい。「性的なマッサージは要らないから、とにかく話を聞いてほしい」、と言い出すので、経験の多いセラピストではなかった当時、「いいんですか、それで」とかなり面食らった覚えがある。自分の親の介護が始まり、職場では責任ある仕事もどんどん増えていって、独身で誰も話を聞いてくれる人がいない、と彼女の愚痴を一通り聞いて、せっかくなのでと俺が自分の話をしたら、ダムが決壊したみたいに泣き出して、「大変だったんだね」と洟を垂らしながら同情してくれたのだ。俺よりも大変なのはあなただと思います、と伝えたのは伝わったのかどうなのか定かですらないが、少なくともそれ以来、定期的に指名を入れてくれるようになった。  何度も会ううちに、さとみさんは「年下わんこ系の男に言葉で責められるプレイ」が好きな人だと察知した。なので、今日もそういう感じで責めて、何度も彼女を絶頂に導いた。 「陽斗君、すごくうまいよね。私がしてほしいこと、全部叶えてくれる」  行為後、ラベンダー色の湯船に浸かりながらさとみさんが言った。背の低いさとみさんの身体は、俺の腕の中にすっぽりと収まる。 「そりゃあ、プロだから……でも、さとみさんにいつも指名してもらって、応援のレビューをたくさん書いてもらってるから、今の俺があるんだよ。俺を育てたのは、さとみさんだ」  そう言ってもらいたいんだろうな、と察知したことを、自分の本音より優先して口にする。すると、思った通りさとみさんはくすぐったそうに笑ってくれた。思った通りの反応が嬉しいはずなのに、「ちょろいよな」と冷めた目で俺を見つめるもう一人の自分がいる。  さとみさんは、ふっくらした白い身体を俺のほうに預けて、「おしゃれなシーシャバーがあるんだけど、行かない?」と誘ってきた。 「シーシャって、煙草っすよね。俺そういうの、吸ったことないんですよ」 「試してみたら?一回くらい」  煙草には抵抗があった。勢いで拒みかけてから、それも客商売の一環かもしれない、と考え直す。さとみさんのつむじのあたりを見ながら、「まあ、興味なくはないっすね」とはぐらかす。 「ねえ。行こうよ今度。雰囲気のいいところがあるの。オーナー、私の昔からの友達なんだ。『ギルド』のデートプラン、三時間パックのやつ、いれるからさ」  そのバーは、新宿ゴールデン街の二階にひっそりと息をひそめていた。急な階段を上がると、外のざわめきがふっと遠のき、夜の温度が一段深くなる。黒い扉を開くと、甘い果実の香りと、ほのかに湿った煙の匂いがゆっくりと流れ出してきた。  店内は、薄暗い照明がガラス瓶の群れを照らし、光が瓶の中の色水に反射して揺れている。赤、青、琥珀、翡翠――色とりどりのシーシャの瓶がずらりと並び、まるで小さな水族館のように静かに光を抱えていた。壁には古いネオンサインが滲むように輝き、低い音量のチルな音楽が、煙の流れに合わせてゆっくりと脈打っている。  カウンターの奥の大柄な男が、さとみさんに向かって片手をあげた。真っ青に染め抜かれた長髪刈り上げツーブロック、蛍光色の拡張ピアスを耳に垂らしたひげ面。太い両腕にはびっしりとサンスクリット語のタトゥーが入っている。とんでもなくいかついのに、店内の柔らかな煙の中で、視線が穏やかなのが印象に残った。  小柄なさとみさんはカウンターによじ登るようにして座り、両肘をカウンターに載せた。「長尾さん、いつものね」 「はい……お連れの方は?」  急に話を振られて、笑って見せたけれどぎこちなかっただろうかと気になる。 「この子は陽斗君。シーシャ初体験」 「それはそれは……いらっしゃいませ」  長尾は陽斗の前に、透明なガラスのボトルと長いホースのついた器具をそっと置いた。瓶の中では水がゆらりと揺れ、上に乗った金属の皿には小さな炭が赤く灯っている。 「シーシャは」  長尾はチェロのように低い声で話す。 「もともとは中東の文化なんです。昔は王様や貴族が、果物や花の香りを楽しむために吸っていたんですよ。煙草っていうより、“香りを味わう道具”に近い」  陽斗は瓶を覗き込んだ。 「吸い方は簡単です。肺にぐっと入れなくていい。口の中で香りを転がすみたいにして、ゆっくり吐く。そうすると――」  長尾は指先で瓶を軽く叩いた。水が小さく鳴る。陽斗はホースの先をそっと持ち上げ、長尾の言葉どおりにゆっくり吸ってみる。甘い香りがふわりと広がり、胸の奥に静かな温度が灯った。店内の薄い煙が、まるで夜の海の波のようにゆっくりと揺れている。 「……苦くない」  長尾の目尻に、ふっと皺が寄った。 「煙草の苦みを、水がやわらげてくれるんです。苦味も、痛みもね。水が優しく包み込むから、苦みも、自分のものに落とし込める。……ごゆっくり」  暗く抑えた照明と立ち込める煙の向こうで、ぼんやりと人影が揺れていた。店の端で、アシスタントバーテンダーが客の注文を受けているらしい。照明の青と炭の赤が混ざり合う中、その輪郭だけがゆっくりと浮かんだり沈んだりしていた。長尾がさとみにシャンディガフを差し出し、ふと陽斗の方へ視線を向ける。 「陽斗君、何か飲む?」 「……ああ、じゃあ、ハイボール」  了解、と長尾は背中側の棚からグラスを取り出し、氷の入ったバケットに手を伸ばす。その間に、陽斗フロアに出ていたアシスタントが戻ってきた。陽斗は頬杖をついたまま、ぼんやりと煙の流れを追っていた。  その男が陽斗の背後を通った瞬間――ふっと、嗅いだ覚えのある匂いがした。 (ドタキャンされて暇になっちゃったんだよね、)  あの時、背中越しに香ったオードトワレ。「アナザー」。 (……え)  頬杖をついていた手が、自然にほどけて落ちた。まさか、そんなこと――と頭のどこかで思う。ひどく目が乾いて、瞬きを忘れていたことに気づく。  煙の向こうの男が、ゆっくりと形を持ち始める。短髪の黒い髪。厚みのある胸板。浅黒い肌。肩から肘の下まで巻き付く蛇のタトゥー。特徴がひとつずつ、煙の中から現れてくる。陽斗の胸の奥で、何かがはっきり音を立てた。 「……え」  その瞬間、長尾が男に声をかけた。 「葵ぃ、バックバーのフレーバー並べ直しといて。減ってるやつの補充も頼むね」  DMの文面を思い出す。 (アオイ)  陽斗はぼんやりと煙を見つめた。くゆる煙の向こうで、顔をわずかに向こうへ向けた葵が、カルーアの瓶の蓋を開ける。とろりとした光沢のある酒を、銀のシェイカーに注ぎ入れる。高い金属音をさせて蓋を閉め、振り混ぜる。まくり上げた腕の筋肉が、暗い照明に隆起している。  さとみさんの笑い声が聞こえた。暗いイチジク色の唇から吐き出された煙に、葵の姿がぼやける。ありがとう陽斗くん明日も連絡してねまた指名するからね、といくら言ってたって、次の日には煙のように行方をくらまして、連絡がとれなくなるようなやつも決して珍しくない。そんな夜の世界で、どうしてもあの男はかみ合わない。  葵がカウンターのドアを押し開けカウンターを出ていった。三人組の客のテーブルに歩み寄り、盆に載せたカクテルを差し出す。無駄のない動作がきれいだ。今は白いカッターシャツを身に着けているが、その下には蛇の刺青があるのだ。  葵は、一度も陽斗に話しかけることはなかった。

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