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第2章
長尾から連絡を受けたのは、それから一週間後のことだった。
明け方、歌舞伎町公園に四時三〇分。空はわずかに白み始めているのに、地面には昨日の湿度が貼りついている。夜露とタバコの匂いが混じった歌舞伎町特有の空気が漂っている。石段はまだ温かく、陽斗の背中にじんわりと熱を移していた。
薄い朝焼けに照らされた影が、路地の奥からゆっくりと伸びてきた。輪郭だけが先に現れる。襟の伸びたヴィンテージのTシャツにくすんだバギーデニム。仕事からそのまま歩いてきたらしい長尾は、陽斗を見つけると、まっすぐ歩いてきた。
「ごめんね、呼び出しといて待たせて」
隣に腰かけた長尾が、缶コーヒーを差し出した。ささくれ立った長尾の指先はざらついていて、顎髭からは煙草の匂いがした。
「全然平気っす。長尾さんもお仕事お疲れ様です」
「陽斗くんもね……今日は遅番だったの?」
「はい、今終わったとこっす」
「大変だねお互い」
遠くで、酔いの残った誰かの笑い声が、シャボンのように弾けて消えた。そろそろ始発が動き出す時刻だ——青い朝の空気に浄化されて、歌舞伎町が静かに死んでいく。
長尾が訊いた。
「陽斗くんってさ、何の仕事してるんだっけ」
「フリーターっす。でも決まった仕事場があるわけじゃなくて、日雇いです。デリバリーの配達員とか。長く同じ場所に勤めるのが苦手なんすよね。だから今は、副業で始めたセラピストのほうが、稼働時間も稼ぎも多いっす」
へえ、と長尾は眉毛を持ち上げた。「セラピストか……事務所はどちらさんで?」
『ギルド』だと告げると、長尾がもう一段階驚いた表情をした。「ギルド……じゃあ、佐野のとこか」
今度は陽斗が驚く番だった。「知ってるんすか、佐野さんのこと」
長尾が遠くを見るような眼をした。「佐野は、俺が前の店で世話になってたオーナーの後輩で、店にもよく来てくれてたんだ……そうか」
長尾が、一気に缶コーヒーをあおった。陽斗は少しだけ声を低くした。
「佐野さん、煙草吸わないっすけど」
「そうなんだよ。あいつは煙草嫌いだよね。俺は好きだけど」
缶の底を指先で軽く叩きながら息を吐く仕草に、夜を徹した人間特有の疲れが滲んでいた。
「もう十年……くらい前かな」
長尾が、ふっと遠くを見る目をした。
「俺が勤めてたのは、普通の飲み屋だったの。歌舞伎町よりだいぶ西に離れた、落合とかそっちのほう。家賃安いとこ。いや、バー……って呼ぶのもちょっと厳しいかなっていう、場末な感じの。オーナーはいい人だったんだけど、もうずいぶん歳だったし、店をたたむかもっていう話はちょいちょいされてて。俺も、ずっと自分の店を持ちたかったし、歌舞伎町に進出したかったから、オーナーが店をたたむタイミングで、店出したの。それが五年前。歌舞伎町に店を持つっていうのが、佐野も俺も、共通の目標だった。佐野の方が一足早く、今の仕事に就いた。だから俺も必死になったよ……あいつに追いつくんだって」
長尾の目が細くなった。街が眠りに落ちる直前の時間帯は、誰もが少しだけ過去に引っ張られる。
「嬉しかったよ。佐野に、俺もいよいよ独立するんだ、って伝えたときは。佐野も、ほら、ああいう性格だろ。自分の事みたいにすげぇ喜んでくれてさ。何の店なんだって聞かれたから、シーシャバーだって伝えたら……何て言ったと思う? 奴、『俺は行かない、いくら長尾の店でも無理』って」
長尾がくっくっと笑う。
「俺も高をくくってたのよ、『言うてさすがに、ご祝儀持って一回くらい顔出すだろう』って……ところが。店を始めてみたら、宣言通り頑なに来てくれない」
語る長尾の目じりにはしわが刻まれていて、言葉ほどの悲壮感はない。長尾はちらりと陽斗を見やった。
「多いでしょ、指名」
まあ、と濁してうなずくと、長尾は満足そうに笑った。
「だったらなおさら、佐野の所から陽斗くんを引き抜くなんて、とんでもないな。惜しいけど、今日の話はなかったことにしてもらわないと」
途端に話が見えなくなり、「え……何すか、今日の話って」陽斗は訊き返した。
「いや、実はさ」長尾はコーヒー缶を口元につけたまま、にやりと笑った。「陽斗くんに、ワンチャンうちに来てもらえたりしないかな、って思って。さとみさんの紹介なら間違いないし」
さとみさんは長尾がシーシャバーを開く前の店からの常連らしい。
「人が足りてないわけじゃないんだけど、……足りなくなる予定、っていうか。実はうちに、俺の他にもう一人、バーテンダーがいるんだけどさ」
脳裏に葵の姿が浮かんだ。
「良い子なんだけど、そろそろ故郷に帰らせた方がいいと思っていて。訳ありで歌舞伎町に来たらしくって」
「……訳あり」
長尾がコーヒーを呷り、石段に置いた。こつん、と金属が石を打つ音が響く。
「危なっかしいっていうか、真面目過ぎるっていうか、向いてない子なんだよ、こういう夜の世界が」
陽斗は思い出した。あいつの瞳は、場違いなほど澄んでいた。夜の街の濁りがまだ一滴も流れ込んでいない目だと思った。長尾も同じように見ていたのだと知り、陽斗は胸の奥で安堵を覚えた。長尾が続けた。
「俺らの世界ってさ、ある程度、感覚が鈍ってないとやっていけないとこあるじゃん。人間としてどこか欠落してるくらいじゃないと、長くは持たない。最初は平気でも、静かに静かに濁っていく。濁りに耐えられないやつは、潰れる。だからあいつは早めに田舎に帰したほうがいいと思ってる。だけどいくら言っても全然帰んないの。理由なんか知らないし、踏み込む気はないけど、まあ……実家に金でも送ってんのかなって感じ。仕事の関係なんだし、冷たくノータッチでいることもできるよ。でも俺も、この界隈でいろいろ見てきたからさ。従業員は可愛がりたいし、守りたいって思うんだよね。」
熱っぽく語る長尾の口調が、ふと佐野と重なった。
「葵は可愛いし、決して仕事ができないわけじゃないけど、だからこそ心を鬼にしてってやつで……あいつをクビにして、そして陽斗くんをスカウトしたいな、と思ったわけ。ごめんね、陽斗くんの意向も聞かずに」
立ち上がった長尾を追いかけて、陽斗も立ち上がって後を追う。地面をついばんでいた鳩が数羽、飛び立った。
「そういうわけだからさ、誰かいい子がいたら紹介してよ」
電子音が聞こえる。
助けを求めてくる誰かに手を差し伸べるのが得意だ。得意というより、もう癖みたいなものだ。反射で身体が動く。相手がどう思うだろうか、何を望んでいるのか、どんな言葉をかければ機嫌がよくなるのか——そういうことを、ずっと考えて生きてきた。考えないと、生きていけなかった。気にしない自由なんて最初から与えられていなかった。
相手を気にして、迎合して、欲しいものを差し出せば、生き延びられた。迎合すれば捨てられなかった。迎合すれば怒鳴られずに済んだ。迎合すれば殴られずに済んだ。迎合すれば存在はかろうじて許された。
生きるためには、自分の命を削らないといけなかった。意志を削った。自分の意志を殺して、相手の望む形に自分の形を変える。そうやって形を変え続けた。きづいたらいつの間にか、本来の形がどんなものだったのか、もう思い出せなくなった。
迎合。
相手に迎合するのが得意だ。その「得意」は、褒められるような才能じゃない。生きるために必要だった技術だ。二十一年分の生きがいと呼ばれるものは、その迎合の地層でできている。積み重なった層は、押しつぶされた感情や、飲み込んだ言葉や、諦念でできている。
同時に知っている。手を差し伸べることができる人間は、手を切り捨てることもできると分かっている。その残酷さにずっと憧れている。
誰かの期待を裏切り、誰かの願いを拒み、誰かの「助けて」を無視して、自分の都合だけで生きる。そういう人間が羨ましいのか、憎いのか、自分でもわからない感情で苦しくなる。
結局誰かを救うことでしか、自分を保てない。でも本当は、誰かを切り捨てることでしか、自分を取り戻せないのかもしれない。その矛盾の境界線で、ずっと揺れている。助けること、切り捨てること。どちらも自分の中にあって、どちらも俺を形成している。
電子音。
助けを求める声に応えたい自分と、応えたくない自分が、同時に目を覚ます。どちらが本当の自分なのかわからないおそらくどちらも自分自身なのだ――電話が鳴るたびに、確実に聞こえている地層が軋む音。
電子音は一定の音量で、尾を長く引く叫びのように鳴り続けている。
陽斗は指を伸ばして緑色の楕円をスライドした。負ける音がした。
画面の向こうの萌は、ひどい顔をしていた。右目だけ、殴られたように赤紫色に膨れ上がっていて、画質の粗さも相まってとんでもない感じだった。画角が変わるたびにピンクや水色のネオンが萌の片頬を照らす。グロスが落ちて血色悪くくすんだ唇の端も、青黒く膨れ上がっていた。
『死にたい~萌はもう死んじゃうかも』
二秒ほど余裕を持たせてから、「死にたいのか」とおうむ返しに返す。夜と朝の境目に、萌は時々、何かに追いかけられているような顔で電話をかけてくる。
『明け方の歌舞伎町が怖い。すごく寂しくて汚い。残酷な朝の光が、夜の闇が都合よく隠してくれていたまやかしを、全部暴いてしまうから』
こっちを見つめてくる画面越しの萌の目は、ぼんやりと焦点が定まらない。酔ってろれつが回らない舌使いと、ちらちらと不自然に画面外に逸れる視線。粗い闇の向こうで、解像度の低いあどけないフリルと、インターネットミームの猫パーカー。トー横広場にむせ返る吐瀉物の匂いが画面から立ち上ってくるようで、強烈な狂気にぞわっとするのをこらえて陽斗は「大丈夫だから」と声をかけた。
「落ち着いて。萌は今どこにいる?」
心の奥底で、地層が積み重なるかすかな音がする。
『……陽斗くんしかいないの。陽斗くんだけなの、萌を愛してくれるのは』
――……陽斗だけなの母さんには。
一瞬、息ができなくなる。
萌の依存体質なんていつものこと……客として切り離して対応すればいいことだと頭ではわかっている。それなのに、一度繋がってしまったイメージは、血の染みのように脳裏にこびりついて離れない。
『いつも自分がのろまなせい、デブスなせいで、人から嫌われる……太るのが怖くて風邪薬と下剤たくさん飲んじゃっ』
逃げるように通話を切っていた。その勢いのまま、陽斗は萌のアカウントをタップした。右上の設定画面から、「ブロックして通報」。「本当にブロックしますか?」のダイアログに、乱暴に「はい」を叩くと、スマホの画面を暗くして放り投げた。息が喉を通っていく音が、建付けの悪い家の隙間風のように耳にこびりついている。
渋谷の円山のホテルの前で客と最後にもう一度抱き合って別れた。佐野からの着信に気づいたのは渋谷駅に向かう途中、道玄坂上交差点前の信号待ちをしている時だ。折り返してみると、これから歌舞伎町の事務所へ寄ることはできないかという。次の現場は錦糸町に二十三時。時間的に不可能ではないが、歌舞伎町は逆方向なんですよね、と伝えると佐野は、一瞬でいいから来いと食い下がってきた。
「どうしても無理ならこのまま電話で伝えても……いや、よそう。文面に残すのはどうかっていう内容だし、文章で説明するのがややこしいんだよな」
佐野がこういう電話をしてくるときは、結構緊急なことが多い。だから、
「承知です。行くっす、今から電車乗ります。……大丈夫です」
事務所に着くなり、佐野がタブレットを手に近づいてきた。「急に呼んで悪かったな……けど、早めにお前の耳に入れておきたかった」ダークスーツに身を包んだ佐野が、画面を指で示しながら言った。
「忠告。このユーザーネームの、お前の常連客」
映し出されたアナリティクスの画面の、レビューの投稿回数グラフがとびぬけているユーザー「moe_R.I.P.」——萌だ。
佐野が低い声で言った。
「この子さ、切ったら無理な感じ?」
真意がわからず陽斗が口ごもっていると、佐野は少し語気を強めて、「売り上げに響いちゃう?」
「いや……そんなこともないですけど」
「距離置ける?ほとぼりがさめるまででいいから」
萌のアカウントをブロックしたことは、佐野には伝えていないはずだ。常連客をブロックしたことを咎められるのなら、まだわかる。でも今真逆の指示を受けているのだ。その真意が陽斗には理解できなかった。
佐野の眉間には、見たことがないくらい険しいしわが寄っていた。
「すげえんだよ、電話が」
陽斗が萌のSNSをブロックしてから、萌は事務所に毎日のように電話をかけていたのだ。陽斗は出勤しているか、指名したいのだが今日の何時なら取れるのか、毎日かかってきて、都度「確認します」ではぐらかしていたが、「確認って何ですか」「昨日も同じ対応をされたんですけど」と萌が食い下がって、互いに埒が明かなくなり、やがて『新宿ギルド』では電話を取らなくなった。新宿店に電話が来なくなると、今後は系列の別店舗——渋谷店や池袋店の店長が佐野に「おかしな電話が来るが、新宿店の常連らしいが、どういうことなのか」と連絡を寄越した。そうなってはじめて、萌が他店に陽斗に関するクレームまがいの問い合わせをしていることがわかり、陽斗はあまりのことに頭痛を覚えた。
「前に同じようなことがあった」佐野はタブレットをデスクに置くと、椅子に腰を下ろし、両手で頭を抱えた。「メンヘラ客のペースに巻き込まれて、一緒になって病んで、指名されてホテルに行ったらベランダに立ってて、『一緒に飛び降りよう』って……それで自分だけ生き残って、半身不随になったやつを知っている」
陽斗は絶句した。
「わかるよ、お前がいろいろあるのもさ。だけど長い目で見て、自分のことをまず大事にしないとだめだと思うよ俺は」
「自分を大事に、すか」佐野の言葉をゆっくりと反芻する。
「そう」佐野が身体を起こし、まっすぐに陽斗に向き直った。
「相手の気持ちを汲み取って表面上はうまくやっても、心は震えないから。その、萌ちゃんだっけ、その子が、お前の接客を気に入ってくれてても、メンヘラちゃんなんだったら一発ぶん殴って目を覚まさせてやれ。やばかったら逃げて来い。世の中には。話が通じないやつもいるからな。いいか。自分の身は自分で守れよ。俺も守るから。お前のこと、絶対に」
まだ言葉を発することができずに、陽斗は一度だけ頷いた。佐野さんは、どうして俺のことを、こんなに大切にしてくれるんだろうと考えた。水商売の、いつ煙のように姿を消してもおかしくないような俺を。
けれど、結局口にはしなかった。聞いたところでまず答えてはくれないだろうし、従業員を大事にすれば売り上げが上がって俺がハッピーだろ、なんて本気かウソかわからない返しをされてがっかりするのもいやだった。
仕事だろ行けよ、と背中を押され、事務所を出ようとした陽斗はふと振り向いた。「あの、佐野さん。長尾さんが、佐野さんによろしく言ってました」
佐野の顔から表情が消えた。
「前に俺、ゴールデン街のシーシャバーに行ったんすけど……お客様がどうしても一緒に行きたいっていうから、俺が行こうって言ったわけじゃなくて、付き合いなんすけど」
佐野は視線を床に落として、いつもよりだいぶ低い声で「そうか」とつぶやいたきり、何も言わなかった。
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