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第1話
初めはほんの好奇心。
紹介されたわけでもない。すすめられた、というほど親切なものでもない。
楽だよ、と誰かが言っただけだ。
変に期待しなくていいし、面倒もない。
下手に店で遊ぶより安全で、あとに残らない。
そういう言い方をされると、急にどうでもよくなる。
たいしたものじゃないらしい、と思った。
そうは言っても、割と切実ではあった。
実際に連絡を入れたのは、仕事終わりのまだ明るい時間だった。
ひとつ収録が飛んで、帰るには少し早い。かといって、誰かと遊ぶような気にもなれなかった。
何となくスマホをいじっている時に、急に思い出した。
例の、後腐れのない「処理屋」を。
思い出したら、何となくそわそわしだして止まらなくなった。
聞いたまま保存しておいた、合ってるかも分からない連絡先に、すぐ連絡した。
これ、間違ってたら俺どうなるんだろう、と頭の片隅でぼんやり思っていた。
送られてきた部屋番号は、あっさりしていた。
余計な文も、確認もなかった。
こちらの名前も、立場も、たぶん向こうは知っている。知っていて、そのうえで何も足さないのだろうと思った。
少しだけ緊張していた。
こういうのは初めてだったし、もっと面倒な空気になるものだと思っていた。
開けた瞬間に値踏みされるとか、必要以上に気を遣われるとか、そういうことを勝手に想像していた。
指定された部屋の前に着いた時、いよいよ期待と不安が入り混じって吐きそうだった。
こんなに緊張するの、デビュー曲を初披露した時以来かもしれない。
ベルを鳴らすと、すぐに人が出てきた。
「どうぞ」
この人、なに。
それが第一印象だった。
勝手に、女だと思い込んでいたから。
相手がそれを察したのか、
「僕です」
とだけ言った。
そんなに顔に出ていたのかと思うと、急に恥ずかしくなった。
……俺、どんな顔してた?
そこからは、軽くアンケートみたいなものを取られて、流れるように進んでいった。
「……」
もう終わって、どのくらい経っただろう。
まだ少しぼんやりしたまま、相手が帰り支度をしているのを、見るでもなく見ていた。
「じゃあ失礼しますね」
さっきまであんなふうに触れていたのが嘘みたいに、相手はもう何事もなかった顔をしていた。
乱れたシーツも、自分の脱ぎ散らかした服も、その場にあるのに、ひとりだけ先に日常へ戻っていくみたいだった。
そろそろ自分も日常に戻らないといけない。
今日はこのあと、FC向けのコメント録りと振り入れで、グループ全員が事務所に入る。
服は着た。
メガネ、とベッドサイドのテーブルに手をやると、名刺が置いてあった。
いつ置いたんだ、と思いながら手に取る。
“ASAHI“
裏返してみても、それだけだった。
電話番号も、向こうのエージェント名も、何も書いてない。
思えば、名前すら呼ぶこともなかった。
「普通に良かった……」
誰にともなく呟くと、少し笑いが出た。
あまりにもバカっぽい感想で。
時計を見ると、十八時を回ったくらいだった。
事務所の前でタクシーを降りると、人が集まってきた。
キャア、と湧き上がるような声がして、スマホを片手にした女の子たちが、にこにこしながら近づいてくる。
「桃矢くん、お疲れさま」
「桃矢くん、今日もかっこいい」
「このあと仕事?」
口々に声をかけられる。
人の波を少し避けるようにしながら、
「ありがとう」
「……ありがとう」
一人ひとりに返しているような、そうでもないような声を置く。
営業用の笑顔を浮かべたまま、入口まで歩いた。
ドアの前まで来ると、そこから先には誰も入ってこない。
透明な壁で選別されたみたいに、声も、スマホも、笑顔も、そこで止まる。
一歩中に入った瞬間、自分だけになった。
フロアを迷うことなくまっすぐ歩き、エレベーターのボタンを押す。
扉が開く。
乗り込んで、行き先階を押した。
静かに、階数が上がっていく。
日常だ、と思った。
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