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第3話 勝ちたい
「肩を見るな」
又六の木刀が、弥吉の脇腹へ軽く当たった。
「痛っ」
「今ので三度目だ」
「だって、肩が動いたら斬ってくるでしょう」
「俺の肩だけ追うから遅れる」
「じゃあ、どこ見ればいいんですか」
「相手全部だ」
「それができないから聞いてるんですよ!」
離れの裏手。
朝の授業が始まる前から、弥吉は又六に稽古をつけてもらっていた。
踏み込みは前より良くなった。右肩が先に出る癖も、少しずつ直っている。
そこで又六が次に言い出したのが、
「相手が何をしたいか見ろ」
だった。
これが弥吉には難しい。
木刀を構え直す。
又六は正面に立っている。
「もう一回」
「来い」
弥吉が前へ出る。
又六の右肩がわずかに動いた。
今度こそ。
弥吉がそちらへ意識を向けた瞬間、又六の木刀が下から入った。
「うわっ」
弥吉は慌てて飛び退く。
「今、絶対右から来ると思った!」
「思わせた」
「ずるい!」
「敵に言え」
「源八、こういうことあんまりしないですよ」
「なら松波は何をしたがる」
弥吉は木刀を構えたまま考えた。
「……真正面から潰したがる」
「なぜ」
「強いから」
「それだけか」
弥吉は黙った。
源八と戦う時のことを思い出す。
源八は小細工をほとんど使わない。
弥吉が前へ出ても、退かない。むしろ一番強いところで受けて、そのまま押し返してくる。
「あいつ、自分の方が強いって分かってるから……俺から逃げる必要がない」
又六が頷いた。
「なら、それを使え」
「どうやって?」
「そこまで俺に聞くな」
「途中で放り出した!」
「考える稽古も必要だ」
弥吉は不満そうに唇を尖らせた。
又六は木刀を下ろす。
「勝ちたいんだろう」
「勝ちたいです」
「なら松波の剣だけ見るな。松波自身を見ろ」
「源八自身……」
「剣を振るのは人間だ」
又六は弥吉の額を木刀の先で軽く押した。
「頭も使え」
「はいはい」
「返事が軽い」
「考えてますって」
弥吉は木刀を肩へ担いだ。
頭の中には、もう源八の姿が浮かんでいた。
****
午後の武術稽古。
源八と向かい合った弥吉は、いつもより少しだけ距離を取った。
「始め」
教師の声。
源八が踏み込む。
速い。
弥吉は受ける。
一撃目で腕が痺れた。
二撃目。
重い。
三撃目。
弥吉は後ろへ下がる。
源八が詰める。
いつもなら、このまま押し切られる。
弥吉は源八の木刀を見た。
次に肩を見る。
違う。
又六に言われた。
相手全部。
源八は前へ出てくる。
逃げない。
押し切れると思っている。
弥吉はさらに一歩下がった。
源八の眉がわずかに動く。
来る。
弥吉は踏ん張った。
源八が大きく踏み込んだ瞬間、弥吉は真正面から受けず、身体を横へ流した。
源八の木刀が空を切る。
「っ」
弥吉はそのまま脇へ回り込む。
木刀を振る。
源八が強引に身体をひねった。
ぎりぎりで受ける。
木と木がぶつかる音。
一瞬、源八の姿勢が崩れた。
弥吉の目が見開く。
いける。
さらに踏み込もうとした。
次の瞬間、足を払われた。
「うわっ!」
床が一気に近づく。
背中から落ちる前に受け身を取り、転がった。
源八の木刀が喉元で止まる。
「そこまで」
教師の声。
弥吉は天井を見上げた。
「……負けた」
「負けたな」
源八が木刀を引く。
弥吉は起き上がり、悔しそうに膝を叩いた。
「今、いけたと思ったのに」
「思ったから前に出たんだろ」
「うるさい」
源八は少し黙ったあと、自分の脇を見た。
弥吉の木刀が掠めた跡がある。
「だが、さっきのは初めてだ」
「何が?」
「俺の踏み込みを外した」
弥吉が源八を見る。
源八はいつもの無愛想な顔だった。
「次もできたら褒めてやる」
「今褒めろよ」
「一回だけなら偶然だ」
「感じ悪いな!」
「もう一本やるか」
「やる!」
弥吉はすぐ立った。
教師が呆れたように二人を見る。
「お前ら、次の組が待っている」
「あ」
周りを見る。
何人もの塾生がじっとこちらを見ていた。
弥吉は慌てて木刀を抱えた。
「すみません!」
源八は何も言わず場所を譲った。
その口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
****
夕方。
「今日は?」
又六が聞いた。
弥吉は離れへ入るなり、胸を張った。
「負けました」
「そこを誇るな」
「でも源八の踏み込み、一回外しました」
又六の眉が少し上がる。
「どうやって」
「又六さんが言った通りにしたんです。源八は正面から俺を潰せると思ってるから、こっちが下がれば絶対追ってくる。それで一番大きく踏み込むところまで待った」
「それから?」
「横に避けた」
弥吉は畳の上で動きを再現する。
「ここで源八がこう来て、俺がこっち。脇まで入れたんですよ」
「それで負けた」
「欲張りました」
「そこまで分かっているならいい」
「次は勝てますかね」
又六は少し考える。
「すぐには無理だな」
弥吉の肩が落ちる。
「即答……」
「松波の方が剣では上だ」
「知ってますよ」
「なら、なぜそんなに勝ちたがる」
弥吉はその場に座り込んだ。
「負けっぱなしって悔しいじゃないですか」
「それだけか」
またそれだ。
弥吉は又六を睨む。
「又六さん、最近それ好きですね」
「使いやすいからな」
「俺に考えさせてるだけでしょう」
「そうとも言う」
又六は湯呑みに茶を注いだ。
弥吉にも差し出す。
受け取って一口飲む。
少しぬるい。
「……俺、源八みたいになりたいわけじゃないんです」
又六が弥吉を見る。
弥吉は湯呑みを両手で持ったまま続けた。
「剣なら源八の方が強いし、たぶん卒業する頃もそうだと思う」
「ずいぶん素直だな」
「毎日負けてますからね」
弥吉は苦笑した。
「でも、主人が斬られそうな時に、俺が何もできなかったら嫌なんです」
又六は黙っている。
「雄室って、ずっと主の近くにいるでしょう。飯食う時も、寝る時も、戦に行く時も。いざって時に『俺、剣は苦手なんで』って後ろに下がるの、格好悪いじゃないですか」
「なるほど」
「だから源八に勝てなくてもいい。あいつに十回負けて、一回だけでも何とかできるなら、その一回を増やしたい」
又六は弥吉をしばらく見つめた。
「お前は、どんな主に仕えたい」
弥吉は少しだけ目を丸くする。
「前も言いましたよ」
「強くて、頭がよくて、民を考える男か」
「覚えてたんですか」
「聞いた話くらい覚えている」
「嬉しいな」
弥吉は笑った。
それから少し考える。
「でも、本当はそこまで立派じゃなくてもいいかもしれない」
「ほう」
「ちゃんと話を聞いてくれる人がいいです」
「お前の?」
「俺だけじゃなくて」
弥吉は窓の外を見た。
大都の夕暮れ。
その向こうに、遠い故郷を思い浮かべる。
「俺の村、あんまり豊かじゃないんです。米が取れない年は、冬がほんとにきつい。戦が近くであると、もっときつい」
又六の表情がわずかに変わった。
弥吉は気づかず続ける。
「武士同士がどっち勝つかなんて、村の人には関係ないでしょう。でも負けた方が逃げてくると飯を取られるし、勝った方だって兵糧が足りなきゃ取っていく」
湯呑みの中で茶が揺れる。
「俺が塾に来る時も、みんな金出してくれました。村長も、隣の婆さまも、俺の家より貧しい家まで」
「なぜそこまでした」
「雄室になれば、偉い人のすぐそばに行けるから」
弥吉は照れたように笑った。
「みんな、俺なら何か変えられるかもしれないって思ってるんです。買いかぶりですけど」
又六は笑わなかった。
「お前はどう思っている」
「俺?」
「ああ」
弥吉は少し黙った。
それから、まっすぐ又六を見る。
「変えたいです」
声は大きくなかった。
「どこまでできるか分からないけど。俺が仕えた人がでかい国を作るなら、その国では腹減って泣く子供を減らしたい。戦するなら早く終わらせたい。できれば、最後は戦そのものを終わらせたい」
又六の目が細くなる。
弥吉は自分で言ってから恥ずかしくなったらしい。
「……でかすぎますよね」
「天下を平らかにする、だったな」
「はい」
「本気か」
弥吉は笑った。
「本気ですよ」
又六はしばらく何も言わなかった。
弥吉が首を傾げる。
「又六さん?」
「いや」
又六は湯呑みを置いた。
「いい夢だと思った」
弥吉の目が少し大きくなる。
「笑わないんですね」
「なぜ笑う」
「宗七にも、でかいって言われたし」
「でかい夢くらいでちょうどいい」
弥吉は嬉しそうに笑った。
「ですよね」
又六はその笑顔を見つめた。
「お前が仕える主は大変だな」
「なんでです?」
「天下まで連れていかれる」
「一緒に行くんですよ」
即答だった。
「俺だけじゃ無理ですから」
又六の口元がゆっくり上がった。
「そうか」
「はい」
弥吉は茶を飲み干し、立ち上がる。
「じゃあ、もう一回稽古お願いします」
「今からか」
「今からです」
「お前は本当に休まんな」
「休んで天下取れます?」
「取れる時は取れる」
「それ、又六さんだから言えるんじゃないですか」
弥吉は木刀を持って外へ出た。
又六はすぐには立たなかった。
開いた戸の向こうで、弥吉が一人で構えを作っている。
「一緒に、か」
又六は小さく呟いてから、木刀を手に取った。
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