2 / 2

第2話 離れの又六さん

男の肩口から滲んだ血を見て、弥吉は眉を寄せた。 「これ、結構深いですよ」 「掠っただけだ」 「掠っただけでそんなに血は出ません」 弥吉は男を離れの中へ押し込み、戸を閉めた。 離れは普段ほとんど使われていない。 畳も古く、棚には空の箱がいくつか積まれていたが、雨風をしのぐには十分だった。 男は弥吉を見ながら、少し呆れたように言った。 「お前、俺が何者かも知らんだろう」 「怪我してる人です」 「それだけか」 「あと、勝手に雄室塾へ入ってきた訳ありの人」 男の眉がわずかに動いた。 弥吉は気づかず、棚から布を探す。 「追われてるんですか?」 「まあ、そんなところだ」 「じゃあ余計に見つからない方がいいですね」 「……そうだな」 弥吉は使えそうな布を見つけると、男の前へ座った。 「脱いでください」 「随分と迷いがないな」 「雄室ですよ、俺。怪我人の着物脱がすくらいで困ってたら仕事になりません」 「なるほど」 男が上衣をずらす。 弥吉は傷を見て、少し息を呑んだ。 肩から腕へ斜めに切れている。 幸い血は止まりかけていた。 「これ、刀ですか」 「似たようなものだ」 「似たようなものって何です?」 「知らない方がいい」 「そういう言い方する人、大体やばいことに巻き込まれてますよ」 「よく分かっているじゃないか」 男が笑った。 弥吉は水で布を濡らし、傷の周りについた血を拭った。 「痛かったら言ってください」 「この程度で騒がん」 「強がって傷開いたら、俺が困ります」 「なぜお前が困る」 「ここで死なれたらもっと困るでしょう」 「……確かに」 男は素直に座り直した。 弥吉は傷へ布を当て、ずれないよう巻いていく。 「名前、聞いてもいいですか」 男は一拍置いた。 「葛木又六」 「又六さん」 弥吉はすぐそう呼んだ。 「俺は萩森弥吉です。塾生です」 「見れば分かる」 「じゃあ何年目かも分かります?」 「そこまでは分からん」 「二年目です」 弥吉は結び目を締める。 「卒業まで、そんなに余裕ないんですよ」 「何を焦っている」 「全部です」 「全部?」 「剣も、勉強も、性愛も。どれもそこそこ。雄室って、主人に近いところで何でもやるでしょう。だったら一個くらい、これなら負けないってものが欲しいんです」 又六は黙って弥吉を見る。 「一人で稽古していたな」 「見てたんですか」 「音が聞こえた」 「恥ずかしいな……」 「なぜ」 「全然うまくいってなかったから」 又六は少し考えてから、弥吉の足元を見た。 「踏み込む時、右肩が先に出る癖がある」 弥吉が瞬いた。 「え?」 「腰より肩が先に動く。あれでは相手に次の動きを教えているようなものだ」 「……そんなに分かりやすいですか」 「分かりやすい」 「うわぁ」 弥吉は両手で頭を抱えた。 又六が笑う。 「直したいなら、腰から入れ」 「腰から」 「立ってみろ」 「今ですか?」 「聞きたいんだろう」 弥吉はすぐ立った。 離れの狭い畳の上で構える。 又六が自分の怪我など忘れたように姿勢を正した。 「足だけ前へ出そうとするな。重心ごと運べ」 「こう?」 「肩が早い」 「これ?」 「今度は身体が浮いた」 「難しいな……」 「もう一度」 何度か繰り返すうち、又六が弥吉の腰の位置を指で示した。 「そこだ。今の感覚を覚えろ」 弥吉は同じ動きをもう一度やる。 さっきより身体が軽く前へ出た。 「……おお」 「少しはましになった」 「すごい!」 弥吉は振り返った。 「又六さん、剣やってたんですか」 「多少は」 「多少でこれ?」 「下級武士でも剣くらい使う」 「へえ……」 弥吉は感心したまま、もう一度踏み込む。 又六はそんな弥吉を眺めていた。 「お前は教わったことをすぐ試すんだな」 「試さないと忘れるんで」 「素直なのか単純なのか分からんな」 「そこ褒めてませんよね?」 「半分は褒めた」 「半分かぁ」 **** 翌朝。 弥吉は食堂で握り飯を二つ余分に包んでもらい、懐へ入れた。 宗七がそれを見て首を傾げた。 「今日、そんなに食べるの?」 「腹減るから」 「二つも?」 「鍛える人は食うんだよ」 「昨日まで一つだったけど」 「今日から二つ」 宗七は少し不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。 弥吉は胸を撫で下ろした。 綾之丞には見つからないよう、食堂を出る。 あいつに見つかったら絶対に聞かれる。 そう思いながら廊下を曲がったところで、喜庵と鉢合わせた。 「おはようございます、喜庵先生」 「おはよう、弥吉」 喜庵の目が弥吉の懐へ向く。 「朝からよく食うのう」 「育ち盛りなんで」 「二十にもなってか」 「まだ育つ予定です」 「それは楽しみじゃ」 喜庵はにこにこしながら、そのまま通り過ぎようとした。 弥吉はほっとする。 「そういえば」 足が止まった。 弥吉の背中が強張る。 「最近、離れの方へ行くことはあるか?」 「い、行ってません!」 勢いよく答えた。 喜庵が振り返る。 「そうか」 「はい」 「ならよい」 そのまま歩いていく。 弥吉はしばらく廊下に立ち尽くした。 危なかった。 もう少し自然に答えればよかった。 いや、今のでも十分自然だったはずだ。 たぶん。 弥吉は懐を押さえ、足早に離れへ向かった。 **** 「危なかったです」 離れへ入るなり、弥吉は言った。 又六は座ったまま湯を飲んでいた。 「何が」 「喜庵先生に聞かれました。離れの方へ行ってるかって」 「それで?」 「行ってませんって言いました」 「……そうか」 又六が湯呑みを口元へ運ぶ。 肩が少し揺れた。 弥吉が眉を寄せる。 「笑ってます?」 「いや」 「笑ってますよね」 「気のせいだ」 「こっちは必死なんですよ」 「ありがたいことだ」 又六はようやく湯呑みを置いた。 弥吉は包みを取り出す。 「朝飯持ってきました」 「俺の分か」 「怪我人は食べないと治らないでしょう」 「お前の分では」 「俺はまた食堂で食います」 又六は握り飯を受け取った。 「毎日こうして世話を焼くつもりか」 「傷治るまでは」 「その後は?」 弥吉は少し考えた。 「又六さんが行くところ決まるまで?」 「随分と面倒見がいいな」 「雄室ですから」 「誰にでもこうなのか」 「困ってたら大体」 又六は握り飯を見つめたあと、ふっと笑った。 「そうか」 **** その日の武術稽古。 源八と向かい合った弥吉は、昨日までと同じように木刀を構えた。 ただ一つ。 右肩を先に出さない。 腰から。 重心ごと。 源八が踏み込む。 速い。 弥吉は受ける。 一撃。 二撃。 三撃。 いつもならここで崩される。 今日はまだ立っている。 源八の目が少し変わった。 弥吉は息を吐き、前へ出る。 腰から。 木刀を振る。 源八が半歩下がった。 弥吉の木刀が袖を掠める。 次の瞬間、弥吉の木刀は弾き飛ばされた。 「っ、あー!」 床へ転がった木刀を見て、弥吉は悔しそうに叫ぶ。 源八は自分の袖を見る。 「……昨日と違うな」 「分かる?」 「何をした」 弥吉は得意げになりかけて、慌てて口を閉じた。 「自主練」 「それだけか」 「それだけ!」 源八は疑わしそうに弥吉を見たが、木刀を戻した。 「もう一本」 今度は源八から言った。 弥吉の目が輝く。 「おう!」 **** 稽古が終わると、弥吉は汗も拭かず離れへ走った。 戸を開ける。 「又六さん!」 「騒ぐな」 「昨日のやつ、効きました!」 弥吉は満面の笑みだった。 「源八が一回下がったんです。あいつ、いつも全然下がらないのに!」 「勝ったのか」 「負けました!」 「……そうか」 「でも昨日よりずっと長くやれました!」 弥吉は興奮したまま、畳の上で踏み込みを再現する。 「ここからこうやったら、身体が前へ出て。俺、今まで足だけで動こうとしてたんですね」 又六は黙って聞いている。 弥吉が振り返る。 「又六さん、もっと教えてください」 「俺が?」 「はい。剣も、ほかにも。俺、使える雄室になりたいんです」 又六は弥吉を見た。 朝運ばれてきた握り飯の包みが、部屋の隅に畳んで置かれている。 「俺がどんな人間かも知らんのに?」 「剣が強くて、怪我してて、訳あり」 「それだけだろう」 「今はそれで十分です」 弥吉は笑った。 「嫌なら、ちゃんと嫌って言ってください」 又六はしばらく黙っていたが、やがて弥吉の頭へ軽く手を置いた。 「分かった」 「ほんとですか?」 「ああ」 「やった!」 「ただし、教わるなら途中で投げるな」 「投げません」 「即答か」 「俺、しつこいんで」 「それはもう知っている」 弥吉が笑う。 又六もつられて口元を緩めた。 「では、明日からだ」 「お願いします、又六さん」 弥吉は深く頭を下げた。 その声には、もう昨夜初めて会った相手への警戒など少しも残っていなかった。

ともだちにシェアしよう!