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番外編 前夜

軍議の間には、朝から張りつめた空気が満ちていた。 中央には大都から西へ延びる街道と、失った領地一帯を描いた地図。 敵方が押さえた城と二つの砦には、赤い駒が置かれている。 景房は上座に座り、諸将を見渡した。 「昨夜、城から西へ早馬が二騎出た」 朔が頭を下げる。 「別々の街道を使っております。いずれも、まだ戻っておりません」 「城下では米と塩の買い集めが始まりました」 別の家臣が続ける。 「北門も急ぎ修繕しております」 「近隣の郷士へ召集が掛かったとの報せも」 景房は黙って地図を見る。 弥吉はその脇へ一枚の書付を置いた。 西街道沿いの宿と関所をまとめたものだった。 景房が目だけを動かす。 「まだ頼んでいないぞ」 「次に要ると思いました」 景房は当然のように受け取り、書付を開いた。 少し離れて座る家臣が弥吉を見る。 若君が何も言う前に、必要なものが出てくる。 景房は西街道へ指を置いた。 「早馬が助けを連れて戻るなら、時間はない」 老臣が口を開く。 「若君。敵方が城へ籠もれば、三日では厳しいかと」 「籠もらせん」 静かな声だった。 「明日、外郭を取る。二日目には兵糧道を断つ。三日目、公方家の旗を城へ戻す」 軍議の間が静まった。 三日。 援軍が来れば、こちらが不利になる。 敵の背後に誰がいるのかも、まだ見え切ってはいない。 景房は続ける。 「先鋒の出立刻は、隊長へ個別に伝える」 地図の南側には触れない。 「第二陣の道も、ここでは決めん。担当する者だけあとで残れ」 朔が一礼する。 「は」 誰も余計なことを聞かなかった。 景房は諸将を見渡した。 「敵も焦っている」 顔が上がる。 「兵を集め切る前に米を買い、門を直し、外へ馬を走らせた」 赤い駒を一つ倒す。 「こちらが動く前に、守りを固めたいということだ」 別の将が低く言う。 「ならば」 「ああ」 景房の口元がわずかに上がった。 「固まる前に取る」 空気が変わる。 危うさが消えたわけではない。 だが、何をするべきかははっきりした。 景房は立ち上がった。 「奪われた土地を取り戻すだけではない」 全員を見る。 「明日、鎌町幕府がまだ立っていると天下に見せる」 「はっ!」 声が揃った。 景房が歩き出すより先に、弥吉が羽織を広げる。 腕を通す。 「次は兵糧蔵ですね」 「ああ」 「そのあと馬廻り。武具蔵は最後です」 「分かった」 二人が軍議の間を出ていく。 その背を見ながら、年嵩の家臣が小さく言った。 「千金は伊達ではないな」 **** 兵糧蔵には、米俵が天井近くまで積まれていた。 役人が帳面を開く。 「三日分に加え、予備を二日分用意しております」 景房が問う。 「荷車は」 「十二台」 「多いな」 弥吉が帳面へ目を落とした。 「橋の手前、道が狭いですよね」 役人が振り向く。 「はい」 「六台先に出して、残りは時間をずらした方がいいと思います。兵と重なったら詰まります」 景房が少し考えた。 「そうしろ」 「はっ」 弥吉は別の帳面を差し出す。 「馬の飼葉です」 景房が受け取る。 「それも先か」 「そろそろ聞くと思ったので」 景房が笑った。 「気が利く」 「雄室ですから」 「それで何でも済ませる気か」 「はい、済ませます」 周囲の役人が少し笑った。 張りつめていた顔が和らぐ。 景房は次の蔵へ向かった。 弥吉もその隣を歩く。 **** 馬場には何十頭もの馬が並んでいた。 蹄の音。 革具を締める音。 馬の鼻息。 兵たちは明日の支度をしながら、いつもより少し大きな声で笑っている。 若い兵が一頭の首を撫でていた。 「こいつ、戦になると俺より落ち着いてるんです」 景房が馬を見る。 「なら、お前が馬を見習え」 周囲に笑いが起きる。 兵の顔から少しだけ強張りが消えた。 景房は次の馬の脚を見る。 「右前を見ろ」 馬役が触れる。 「少し熱があります」 「明日は外せ」 「ですが、数が」 「馬も兵だ。潰してまで使うな」 「は」 景房が次へ進む。 その横へ弥吉が水筒を差し出した。 「飲んでください」 「まだ平気だ」 「昼餉、半分残しましたよね」 景房が止まる。 「見ていたのか」 「大事なお仕事ですから」 水筒をさらに押しつける。 景房は受け取った。 後ろの家臣たちが、また顔を見合わせる。 飲み終えた景房が返す。 「満足か」 「少し」 「厳しい雄室だな」 「明日働いてもらうので」 「主を馬と同じように言うな」 「景房様の方が手が掛かります」 近くにいた兵が吹き出した。 慌てて口を閉じる。 景房が見る。 兵が固まる。 景房は何も言わず歩き出した。 弥吉もついていく。 少し離れてから、 「笑われたぞ」 「景房様がですよ」 「お前もだ」 「俺はいいんです」 「よくない」 弥吉は笑った。 背後では、兵たちも少しだけ笑っていた。 **** 夜。 最後の報告が終わり、襖が閉じた。 弥吉はその場で肩を落とした。 「疲れた……」 景房が振り返る。 「さっきまで随分立派な雄室だったが」 「人前だったので」 「俺の前ではいいのか」 「いいでしょう」 弥吉は畳へ座り込む。 景房も向かいへ座った。 昼間の若公方の顔が、少しずつほどけていく。 弥吉はその顔を見るのが好きだった。 「又六さんも疲れたでしょう」 「まあな」 「夕餉、今度は全部食べてくださいよ」 「まだ言うか」 「言います」 「雄室というより母親だな」 「嫌なら自分でちゃんと食べてください」 「善処する」 「しない人の言い方」 景房が笑う。 弥吉も笑った。 部屋の隅には具足。 机には地図。 刀もある。 明日の戦支度は全部そこにあるのに、襖の内側だけはいつもの二人だった。 景房が弥吉を見る。 「怖くないか」 「はい」 即答した。 景房の目が少し細くなる。 「本当か?」 弥吉は黙った。 自分の手を見る。 「……実は、ちょっと怖いです」 「そうか」 「手、少し冷たいですし」 それから顔を上げた。 笑っていた。 「でも、楽しみです」 「戦が?」 「違いますよ」 弥吉は地図へ目をやる。 「明日から、本当に始まるんでしょう」 「何が」 「俺たちが天下を平らかにするのが」 景房は何も言わず聞いている。 「塾で勉強して、雄室になって、又六さんのところに来て」 弥吉の目が明るくなる。 「明日からは、本当に取り戻していく」 失った領地。 幕府の力。 その先の国。 「怖いけど、それよりずっと楽しみです」 景房の顔が柔らかくなった。 「そうか」 「はい」 「ならいい」 景房の手が弥吉の頬へ触れた。 親指がゆっくり撫でる。 弥吉が少しだけその手へ顔を寄せる。 空気が変わった。 「……弥吉」 「はい」 「今夜は少しまずいな」 「何がです?」 景房の手が首筋へ下りる。 「気が昂っている」 弥吉の口元が上がった。 「へえ」 「加減が利かんかもしれん」 弥吉はわざと真面目な顔を作る。 「戦の前日に男を抱いて精気を失っては、若公方としていかがなものかと」 景房が止まった。 弥吉は少し意地悪そうに笑う。 景房も目を細める。 「言うようになったな」 「俺だって我慢してるんです」 言った直後。 景房の顔が変わった。 弥吉が瞬く。 「……あ」 「今、言ったな」 「言いましたけど」 景房が立ち上がる。 弥吉の腰へ腕を回した。 「なら、お互いの精気を合わせれば、明日はもっと強くなるかもしれんな」 「何ですか、その都合のいい理屈」 「気に入った」 「俺は気に入ってません」 言いながら笑っている。 景房はそのまま弥吉を抱き上げた。 「ちょ、又六さん!」 「静かにしろ」 「強引!」 「我慢していると言ったのはお前だ」 「だからって抱えて運ぶ必要あります!?」 「ある」 「ない!」 景房は寝床へ向かう。 弥吉は結局、その首へ腕を回した。 強引だ。 でも、好きだ。 腹が立つくらい好きだ。 「落とさないでくださいよ」 「落とすか」 「明日戦なんだから腕残しといてください」 「お前一人くらい軽い」 「それ褒めてます?」 「好きに取れ」 寝床へ下ろされた途端、景房が覆いかぶさる。 弥吉は胸を押した。 「ほんとに昂ってる」 「言っただろう」 「顔が怖い」 「笑っている奴が言うな」 弥吉はますます笑った。 景房の襟を掴む。 「じゃあ、どうぞ」 「余裕だな」 「今のうちは」 「そうか」 長い口づけで、続きの言葉は消えた。 昼間の張りつめたものが、少しずつほどけていく。 弥吉も腕を絡める。 触れられるたび、笑い声が甘い息へ変わる。 「又六さん」 「何だ」 「強い」 「何が」 「今はそっちの話です」 「分からん」 「絶対分かってる」 また口づけられる。 寝具が乱れた。 弥吉の髪も崩れる。 昼間は完璧に整えていた雄室が、もうどこにもいない。 いるのは、好きな男に抱きつく二十歳の青年だけだった。 景房も同じだった。 若公方ではなく、弥吉を欲しがる一人の男。 明日のためではない。 景気づけでもない。 ただ互いが欲しい。 それで十分だった。 **** しばらくして。 弥吉は景房の胸に頬を乗せていた。 髪は乱れたまま。 景房も着物を適当に羽織っている。 「……暑い」 「お前がくっついている」 「又六さんも離さないでしょう」 「そうだな」 弥吉の目が、机の地図へ向く。 「又六さん」 「何だ」 「明日、ここ取り返したら」 指を伸ばす。 「次は?」 景房が笑った。 「もう次か」 「明日の話は昼にいっぱいしたでしょう」 景房が地図を引き寄せた。 寝床の上に広げる。 「西の三郡を戻せば、この街道が使える」 「はい」 「次は東だ。この二郡を押さえる」 弥吉も身を起こす。 「その次は?」 「北の城」 「先にこっちじゃ駄目です?」 渡し場を指す。 景房が見る。 「理由は」 「川を押さえた方が米を動かしやすいです。それにここなら、次に二方向へ出られる」 景房が少し考えた。 「……面白い」 弥吉の顔が明るくなる。 「でしょ?」 「ただ兵が足りん」 「じゃあ、その前に味方を増やしましょう」 「誰を」 弥吉は地図を見渡した。 「幕府が本当に戻ってきたって分かったら、様子見してる家も動きませんか」 「動くだろうな」 景房の指が別の土地へ伸びる。 「なら、ここへ使者を出す」 「その次は?」 「まだ聞くのか」 「天下は広いですよ」 景房が笑った。 「そうだったな」 二人の指が地図の上を進んでいく。 西。 東。 北。 その先。 取り戻す土地が増えるほど、二人の声も楽しそうになる。 弥吉がとうとう笑った。 「これ、全部取り戻すだけでも大変ですね」 「そうだな」 「そのあと天下をまとめ直すんでしょう?」 「ああ」 弥吉は地図を眺めた。 少しだけ冷静になる。 「……又六さん」 「何だ」 「ここまで、そんなに上手くいきますでしょうか」 景房は迷わなかった。 「大丈夫だ」 弥吉が見る。 「力強いお言葉ですけど」 「心配ない」 景房が身体を起こした。 「いいか。こうやって――」 弥吉が首を傾げる。 「こうやって?」 次の瞬間、景房の腕が弥吉の腰へ回った。 ぐっと引き寄せられる。 「お互いの精気を合わせれば、何でもできる」 「それ、まだ言うんですか!」 景房はそのまま弥吉を寝床へ引き戻した。 「ちょ、地図!」 「あとで見る」 「さっきまで天下の話してたでしょう!」 「今も天下のためだ」 「絶対違う!」 それでも弥吉は笑っていた。 景房へ抱きつく。 「もう……強引」 地図は、また寝床の端へ追いやられた。 二人の天下取りは、こうして幕を開けるのだった。 **(完)

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