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第18話 面を上げろ
翌朝。
弥吉は、鏡の前で三度目に襟を直した。
「……よし」
直してから、また気になる。
手を伸ばしかけて止めた。
綾之丞に、
『もう触るな』
と言われている。
「よし」
今度こそ立ち上がる。
正式な雄室装束。
髪も整えた。
化粧も薄く入っている。
昨日まで塾生だった自分が、鏡の中では少しだけ別人に見えた。
戸の外から声がする。
「萩森弥吉殿。お迎えです」
「はい!」
返事だけ大きくなった。
弥吉は一度だけ胸を押さえる。
千金。
自分を千金で競り落とした人。
どんな人なんだろう。
怖い人だったらどうする。
変な人だったら。
話の通じない人だったら。
そこまで考えて、首を振った。
会ってから考える。
弥吉は戸を開けた。
****
迎えに来たのは、昨日札を上げていた男だった。
黒に近い紺の装束。
今日も家紋は見えない。
「こちらへ」
「はい」
弥吉は駕籠へ乗った。
行き先は教えられなかった。
揺られることしばらく。
駕籠が止まる。
降りると、立派な屋敷の中庭だった。
広い。
手入れされた松。
白砂。
長い廊下。
弥吉は思わず周囲を見る。
「すご……」
案内役が振り返る。
弥吉は口を閉じた。
「すみません」
そのまま奥へ進む。
襖の前で止まる。
「ここから先では、許しがあるまで面を伏せてください」
「はい」
心臓が速くなる。
襖が開く。
弥吉は頭を下げたまま中へ入った。
畳の匂い。
人の気配。
かなり上座に誰かいる。
案内役が告げた。
「雄室塾卒、萩森弥吉殿にございます」
「ご苦労」
その声を聞いた。
弥吉の身体が止まった。
聞き間違えるはずがない。
低くて、落ち着いていて。
何度も自分の名前を呼んだ声。
「面を上げろ」
弥吉は動かなかった。
「弥吉」
もう一度。
恐る恐る顔を上げる。
上座に男が座っていた。
上質な直垂。
整えられた黒髪。
腰には立派な刀。
どこから見ても、下級武士には見えない。
それでも。
顔だけは同じだった。
弥吉の口が開く。
閉じる。
また開く。
景房が笑った。
「久しぶりだな」
弥吉は瞬きをした。
もう一度見る。
「……なんで」
「うん」
「なんでそこにいるんですか」
景房は平然と答えた。
「俺の座だからな」
長い沈黙。
弥吉は周囲を見る。
上座。
控える家臣。
自分を迎えに来た男。
もう一度、景房を見る。
「下級武士じゃ」
「なかった」
「訳ありの」
「それは本当だ」
「葛木又六」
景房が少しだけ気まずそうにする。
「偽名だ」
弥吉の眉が震えた。
「じゃあ誰なんですか」
景房は姿勢を正した。
「桐垣景房」
弥吉は待った。
それだけでは分からない。
景房が続ける。
「鎌町公方家嫡男だ」
弥吉は固まった。
誰も動かない。
庭から鳥の声だけが聞こえる。
「……若公方?」
「ああ」
「又六さんが?」
「ああ」
「公方家の?」
「ああ」
弥吉は両手を畳についた。
大きく息を吸う。
景房が少し身構えた。
「悪かった」
「悪かったじゃないでしょう!!」
屋敷中に響きそうな声だった。
控えていた家臣がわずかに目を伏せる。
景房は片手で額を押さえた。
「やはり怒ったか」
「怒るって言ったでしょう!」
「言っていたな」
「知ってて聞いたんですか!?」
「……まあ」
「まあ!?」
弥吉は立ち上がりかけ、慌てて正座へ戻った。
「俺、先生たちから隠してるつもりで!」
「ああ」
「握り飯運んで!」
「ああ」
「見つからないようにして!」
「ああ」
「全部知ってたんですか!」
「大体」
「最悪!」
景房は笑いを堪えている。
弥吉が指を差した。
「笑うな!」
「すまん」
「それも絶対思ってない!」
「今はかなり反省している」
「今はって何ですか!」
景房がとうとう笑った。
弥吉は真っ赤になった。
怒っている。
本当に怒っている。
なのに。
久しぶりに見るその笑顔が、少し嬉しい自分がもっと腹立たしい。
「……なんで言ってくれなかったんですか」
弥吉の声が少し小さくなった。
景房の笑みも消える。
「俺を殺そうとしている者がいた」
弥吉は黙る。
「知る者は少ない方がよかった。お前が知らなければ、捕まっても答えようがない」
「それで」
「ああ」
「俺を守るためでもあった?」
「それだけではない」
景房は弥吉を見る。
「若公方だと名乗った俺に、お前が同じように接するか知りたくなかった」
弥吉の眉が寄る。
「なんで」
「皆、桐垣景房を見る前に、公方家嫡男を見る」
静かな声だった。
「又六でいる間、お前は俺が何者か気にしなかった」
「気にはしてましたよ」
「ろくに調べなかっただろう」
「だって言わないし」
「それだ」
景房は少し笑う。
「言えないなら仕方ないと、お前はそのまま俺を見た」
弥吉は何も言えなくなった。
怒りはまだある。
でも。
聞いた。
事情を。
なら次は。
弥吉は景房を見た。
公方家嫡男。
若公方。
千金を出した男。
それでも、弥吉の目には又六の顔が見える。
「……まだ怒ってますからね」
「ああ」
「かなり」
「分かった」
「あとでちゃんと全部聞きます」
「話す」
弥吉は一度頷いた。
それから急に思い出す。
「待って」
「何だ」
「千金」
景房の目が少し逸れた。
「……ああ」
「又六さん?」
「今は景房だ」
「そこ今どうでもいい!」
弥吉はまた声を上げた。
「千金出したの、又六さんなんですか!?」
「そうだ」
「なんで!?」
「欲しかったからだ」
即答だった。
弥吉が止まる。
景房はまっすぐ見ている。
「誰にも渡したくなかった」
冗談の顔ではない。
弥吉の胸が強く鳴った。
「でも」
「何だ」
「俺ですよ」
「知っている」
「源八みたいに剣が強いわけでもない」
「知っている」
「宗七みたいに頭いいわけでもない」
「知っている」
「綾之丞みたいに性愛も化粧も一番じゃない」
「それも知っている」
弥吉は少しむっとした。
「全部知ってるじゃないですか」
「ああ」
「じゃあなんで」
景房が答える。
「だから欲しい」
弥吉が黙る。
景房は上座から立った。
弥吉の前まで来る。
「俺には剣の強い者がいる」
一歩。
「軍略に長けた者もいる」
もう一歩。
「美しい者も、夜の技に優れた者も、いくらでも探せる」
弥吉は景房を見上げる。
「だが、必要な時に誰の力を借りればいいか考えて、そいつらを繋げられる者は少ない」
弥吉の目が少し大きくなる。
「主人が熱を出せば、飯より身体を見る。村が困れば、兵の数より先に人を見る。自分でできなければ、できる奴を呼ぶ」
景房は弥吉の前へ膝をついた。
目線が同じ高さになる。
「お前は何でも一番にはならん」
「……はい」
「だが、一人の人間のために、持っているものを全部使える」
弥吉の喉が動く。
景房は笑った。
「俺には、それが欲しい」
昨日。
誰にも札を上げてもらえなかった時間。
自分を選ぶ理由が分からなかった。
今、目の前の男は迷わず言っている。
欲しい。
弥吉は唇を噛んだ。
「千金は高すぎます」
「そうか?」
「そうですよ!」
「なら働いて返せ」
「えっ」
景房が笑う。
「一生かけてな」
弥吉の顔が赤くなる。
「そういう言い方ずるい」
「嫌か」
弥吉はすぐ答えなかった。
景房を見る。
又六だった男。
景房という男。
自分を千金で選んだ主。
「……何するんですか」
「何が」
「公方家に戻って。俺を雄室にして」
景房の表情が変わる。
「幕府は弱っている」
「はい」
「このままなら、大名たちに食われて終わる」
弥吉は黙って聞く。
「俺は鎌町幕府を立て直す」
声に迷いはなかった。
「戦を減らす。公方家の名だけで威張る気もない。国をまとめ直すには、古いものを捨てる必要もある」
景房は弥吉へ手を差し出した。
「弥吉」
「はい」
「俺と天下を取れ」
弥吉はその手を見る。
夢だった。
立派な主に仕えて。
一緒に国を作って。
戦を終わらせて。
民の暮らしを少しでも良くする。
その相手が。
まさか。
「……又六さん」
「景房だ」
「まだ慣れないんで」
「好きに呼べ」
弥吉は笑った。
差し出された手を握る。
「やります」
景房の目が細くなる。
「本気か」
「俺、本気ですよ」
弥吉は握った手に力を入れた。
「一緒に天下、取りましょう」
景房が笑った。
その顔は、離れにいた時と何も変わらなかった。
****
話が終わっても、弥吉には一つだけ気になることが残っていた。
景房は人払いをした。
広い部屋に二人だけになる。
弥吉はさっきから何度も口を開きかけている。
「何だ」
「いや」
「言え」
「……これから」
「うん」
「俺、雄室なんですよね」
「ああ」
「景房様の」
景房の眉が上がる。
「様?」
「公方家嫡男でしょう」
「二人の時はいらん」
「じゃあ又六さん」
「戻ったな」
弥吉は少し笑う。
「で」
「何だ」
「性愛の方も、その……続けるんですよね」
景房が弥吉を見る。
弥吉は普通に聞いたつもりだった。
でも、なぜか少し緊張する。
「雄室ですから。夜も奉公するし」
「ああ」
「じゃあ、また修行――」
「もう修行じゃない」
言葉を重ねられた。
弥吉が止まる。
景房は真剣だった。
「今度こそ分かれ」
「何を」
景房が弥吉の頬へ触れる。
「俺はお前が好きだ」
弥吉の顔が一気に赤くなった。
性愛の授業でも。
実習でも。
あれだけ平気で話せた言葉なのに。
自分に向けられた途端、身体の置き場が分からない。
「……はい」
「雄室だから抱きたいんじゃない」
「はい」
「修行をつけたいわけでもない」
「はい」
「お前だから欲しい」
弥吉はとうとう目を逸らした。
景房が笑う。
「今さら照れるのか」
「うるさい」
「散々俺に性愛の相談をしてきた男が」
「意味が違うでしょう!」
「やっと分かったか」
弥吉が景房を見る。
嬉しそうな顔。
余裕のある笑み。
腹が立つ。
だから弥吉は景房の襟を掴んだ。
自分から引き寄せる。
「分かりましたよ」
景房の目が少し大きくなる。
その顔を見て、弥吉は笑った。
「今、余裕なくなりました?」
「……少しな」
「やった」
「そこは勝負なのか」
「そこは勝負です」
景房も笑った。
弥吉はもう一度、その襟を引いた。
「又六さん」
「何だ」
「今度はちゃんと分かってます」
二人の距離がなくなった。
** 戦華の小姓 〜剣も軍略も夜伽も、すべて愛する殿のために〜 (完)
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