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第17話 千金
卒業の日。
雄室塾の正門には、朝から何台もの駕籠と馬が並んでいた。
家紋の入った幕。
供の武士。
商人風の使者。
大名家から来た者もいれば、名を伏せている者もいる。
弥吉は控えの間から外を覗き、すぐ引っ込んだ。
「多すぎない?」
綾之丞が鏡を見ながら答える。
「毎年こんなもんでしょ」
「知ってた?」
「先輩から聞いた」
宗七は膝の上に置いた札を見ている。
源八は黙って座っていた。
全員、雄室として正式な装束を身につけている。
弥吉も今朝、綾之丞に襟から眉まで全部見られた。
「動くな」
「瞬きするな」
「襟曲がってる」
「髪触るな」
散々言われた。
今はもう触るなとも言われている。
弥吉は落ち着かず膝を揺らした。
源八が見る。
「うるさい」
「音してないだろ」
「見てると落ち着かん」
「俺だって落ち着かないよ」
宗七が言う。
「弥吉、膝」
「はい」
止める。
三秒。
また動く。
綾之丞が鏡越しに睨んだ。
「弥吉」
「はい」
「化粧落ちるほど汗かいたら殴る」
「怖いな!」
それでも少し笑えた。
今日で終わる。
雄室塾を卒業して、仕える家が決まる。
四人が同じ部屋でこうして座るのも、たぶん最後だった。
戸が開く。
喜庵が顔を出した。
「松波。準備を」
源八が立ち上がる。
「はい」
弥吉も反射的に立ちそうになった。
「お前じゃない」
「分かってます」
「なら座れ」
源八が三人を見る。
「行ってくる」
綾之丞が手を振る。
「高く売れてこい」
「言い方」
宗七が笑う。
弥吉は拳を出した。
源八が少しだけ眉を寄せる。
それから、自分の拳を当てた。
「あとでな」
「ああ」
源八が出ていく。
戸が閉まった。
急に部屋が静かになった。
弥吉の膝がまた動き始めた。
****
競り場は広かった。
正面に塾長の典膳。
その左右に教師たち。
向かいには、各家から来た使者が並んでいる。
名乗る者もいる。
家名を伏せたまま札だけを出す者もいる。
雄室の取得は、単なる色事ではない。
主人のすぐ近くへ置かれる者を選ぶ場でもある。
だから家の都合も思惑も混じる。
源八が中央へ立った。
典膳が履歴を読み上げる。
武術。
警護。
奉公実務。
雄室としての総合成績。
読み終える前から、何人かの使者が札を持ち上げていた。
「百二十」
「百五十」
「二百」
弥吉は控えの隙間から見ていた。
「うわ」
綾之丞が小声で言う。
「源八、高い」
宗七が頷く。
「武術で欲しい家は多いだろうね」
値はさらに上がった。
源八本人はほとんど表情を変えない。
最終的に、有力大名だろう使者が競り落とした。
源八は一礼した。
堂々としていた。
弥吉は少しだけ胸が熱くなった。
****
次は宗七だった。
軍略成績が読み上げられる。
兵法。
算術。
文書処理。
交渉補助。
すぐに札が上がる。
源八とは違う使者達だった。
「百」
「百三十」
「百八十」
「二百四十」
宗七の顔が、ほんの少しだけ固くなる。
弥吉には分かった。
緊張してる。
でも、宗七は前を向いたまま動かない。
最終的に、身なりのよい装束の使者が取った。
宗七が戻ってくる。
弥吉が小声で言う。
「すごかったな」
「見てたの?」
「ちょっと」
「ちょっとの顔じゃないよ」
宗七は座る。
手が少し冷たい。
弥吉が触る。
「緊張してた?」
「かなり」
「見えなかった」
「見せなかったからね」
綾之丞が笑う。
「宗七、得意じゃん。そういうの」
****
綾之丞の番になると、空気が少し変わった。
華やかな装束。
整った姿勢。
立つだけで目を引く。
性愛。
化粧。
礼法。
宴席対応。
主人の身の回りの演出と管理。
典膳が読み上げるたび、使者たちの視線が集まる。
札が一気に上がった。
「百五十」
「二百」
「二百五十」
「三百」
弥吉が目を丸くする。
「高っ」
宗七が笑う。
「綾之丞、帰ってきたら絶対自慢するね」
「するだろうな」
最終価格も高かった。
綾之丞は完璧に一礼して戻ってくる。
座った瞬間。
「見た?」
弥吉と宗七が同時に言う。
「見た」
綾之丞は満足そうに笑う。
「まあ、俺だし」
「うわ」
「出た」
「何?」
「いつもの」
「いいじゃん。今日は言わせてよ」
弥吉は笑った。
「おめでとう」
「ありがと」
綾之丞も笑った。
それから、弥吉を見る。
「次、お前じゃん」
弥吉の笑顔が少し固まった。
「……そうだな」
****
「萩森弥吉」
名を呼ばれた。
弥吉は立ち上がる。
足が少し重い。
でも、背筋を伸ばした。
競り場の中央へ出る。
目の前に並ぶ使者たち。
誰も知らない。
どの家へ行くのか。
どんな主に仕えるのか。
ここで決まる。
典膳が履歴を読み上げた。
武術。中。
軍略。中。
性愛。中。
化粧。中。
礼法。中。
奉公実務。上。
弥吉は前を向いていた。
知っている。
これが自分だ。
卒業試験で受け取った結果そのまま。
恥ずかしくはない。
典膳は続けた。
「複数の課題において、周囲の塾生と連携し、必要な役割を適切に振り分ける評価あり」
弥吉の目が少し動いた。
そこまで読み上げるんだ。
「主人の日常管理、体調把握、現場での優先順位判断に優れる」
典膳が読み終える。
静かになった。
弥吉は待った。
源八の時なら、すぐ札が上がった。
宗七も。
綾之丞も。
一人。
二人。
使者たちが資料を見る。
隣と話す者もいる。
でも札が上がらない。
弥吉の喉が少し乾いた。
静かだ。
長い。
典膳は急かさない。
「……」
まだ誰も出さない。
弥吉は視線を落としそうになった。
耐える。
胸を張る。
でも、頭の中に村が浮かんだ。
村長。
隣の婆さま。
銭を包んでくれた人たち。
米を売った家。
みんな笑っていた。
立派になってこい。
自分なら何かできるかもしれない。
そう言って送り出してくれた。
弥吉は指先を握った。
俺。
要らないのかな。
その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥が痛んだ。
自分では受け入れた。
全部そこそこでも、それが今の自分だと。
でも。
選ぶ側から見たら。
剣なら源八がいる。
頭なら宗七がいる。
性愛や華やかさなら綾之丞がいる。
弥吉を選ぶ理由は。
何だろう。
静かな競り場で、その問いだけが大きくなる。
その時。
「百」
声がした。
弥吉が顔を上げた。
一番後ろ。
黒に近い紺の装束を着た男が、札を上げている。
典膳が確認する。
「百」
ざわめきが起きた。
弥吉はその男を見る。
誰だ。
どこの家だ。
男は無表情だった。
別の使者が資料を見直す。
少しして、札を上げる。
「百二十」
弥吉の胸が跳ねた。
二人目。
「百五十」
別の家も入る。
さっきまでの沈黙が嘘のように、値が動き始める。
弥吉は混乱した。
「二百」
最初の男。
「二百五十」
「三百」
弥吉の目が大きくなる。
高い。
もう源八たちと並ぶ。
周囲のざわめきも大きくなる。
「三百五十」
「四百」
一人が降りた。
もう一人も迷う。
最初の男は表情を変えない。
「五百」
場が静まった。
弥吉は息を止めた。
五百。
綾之丞まで、控えの向こうで目を丸くしているのが分かる。
相手方の使者が何か相談する。
札が上がる。
「六百」
弥吉の心臓が強く鳴った。
最初の男が、すぐ札を上げた。
「千」
誰も動かなかった。
弥吉も動けなかった。
千。
聞き間違いかと思った。
典膳が確認する。
「千金」
男は頷く。
競り場が完全に静まり返った。
宗七が遠くで何か言った。
聞こえない。
綾之丞が口を開けている。
源八まで驚いている。
弥吉はただ、札を上げた男を見る。
男は弥吉を見返さない。
典膳が周囲を見渡した。
「ほかに」
誰も上げない。
「千金。決まりとする」
木槌の音が鳴った。
弥吉の肩がわずかに跳ねた。
終わった。
自分の仕える家が決まった。
でも。
「……誰?」
思わず小さく漏れた。
典膳が聞いた。
「何だ」
「どこの家ですか」
典膳は淡々と答える。
「正式な対面は明日だ」
「明日まで分からないんですか?」
「そうだ」
「千金出したのに?」
競り場の何人かが笑った。
典膳の眉が少し上がる。
「金額と名乗る時期は関係ない」
「そうですけど……」
弥吉はもう一度、黒紺の使者を見る。
相手は頭を下げた。
****
控えの間へ戻った瞬間。
綾之丞が飛んできた。
「千!?」
「俺が聞きたい!」
「何したの、お前!」
「何もしてない!」
宗七も珍しく興奮している。
「途中まで誰も札を出してなかったよね」
「言うなよ!」
「そこから千はおかしい」
「俺もそう思う!」
源八が腕を組む。
「何か裏があるな」
「怖いこと言うな!」
綾之丞が弥吉を上から下まで見る。
「実はどこかの殿様と寝た?」
「ない!」
三人が同時に弥吉を見る。
弥吉が止まる。
「……何その顔」
綾之丞の目が細くなる。
「しかし千か」
宗七がまだ少し呆然としていた。
「雄室一人にそれだけ出せる家、そんなに多くないよ」
綾之丞が弥吉を見る。
「徳山とか?」
「徳山、織川。その辺りが一番ありそうかな」
宗七は指を折る。
「武苗、上影もあり得る。どこも戦続きで台所事情は楽じゃないけどね。今の幕府なんて、新しく雄室を抱える余裕すらないだろうし」
「じゃあ、本当にでかい家なんだな……」
弥吉は自分のことなのに、どこか他人事のように呟いた。
源八が言う。
「明日分かる」
「それは分かってるよ」
綾之丞が荷物へ目をやった。
「俺たち、やっぱりみんな別々になりそうだね」
少しだけ静かになる。
宗七が笑った。
「その可能性は高そうだね」
源八は腕を組んだ。
「どこへ行っても、やることは同じだ」
「主に仕える?」
「ああ」
弥吉も頷いた。
「じゃあ、それぞれの家で頑張ろう」
綾之丞が笑う。
「戦場で会った時は手加減してよ」
「しない」
「源八に聞いた俺が馬鹿だった」
四人に笑いが戻った。
弥吉はもう一度だけ、千金を出した名も知らない家のことを考えた。
明日になれば分かる。
今夜は、まだ四人でいたかった。
****
夕方。
卒業の祝いが小さく開かれた。
教師たち。
卒業生たち。
食事。
酒。
笑い声。
弥吉も何度も祝われた。
「千金の男」
「すごいな」
「どこの家だ」
「何か心当たりないのか」
そのたび、
「俺が聞きたいです」
と答えた。
喜庵が近づいてくる。
「人気者じゃな」
「先生」
弥吉は少し頬を膨らませた。
「知ってます?」
「何を」
「俺を取った家」
喜庵はにこにこしている。
「どうかの」
「その顔、絶対知ってる」
「老人は何でも知っているように見えるものじゃ」
「ずるい! 徳山家ですか。それとも織川家?」
「ふむ。中々いい読みだな……明日になれば分かる」
「みんなそれ言う」
喜庵は弥吉の肩を軽く叩いた。
「胸を張れ」
弥吉の表情が少し変わった。
「先生」
「何じゃ」
「俺、最初、誰も札上げなかった時」
言葉が止まる。
喜庵は待った。
「……村のみんなのこと思い出しました」
「うむ」
「俺、要らないのかなって」
喜庵は笑わなかった。
「そう思ったか」
「はい」
「今は?」
弥吉は少し考える。
「分かんないです」
「ほう」
「千金って言われても、急すぎて」
弥吉は自分の手を見る。
「でも、誰かが俺を欲しいと思ったのは、本当なんですよね」
「そうじゃな」
「なら」
弥吉は顔を上げた。
「明日、ちゃんとその人見ます」
喜庵の目が少し細くなる。
「それでよい」
「どんな人でも?」
「それを決めるのは、お前じゃ」
弥吉は頷いた。
****
夜。
四人は同じ部屋にいた。
卒業祝いのあと。
源八はすでに荷をまとめている。
宗七は新しい家へ持っていく本を選んでいる。
綾之丞は鏡台の道具を一つずつ包んでいる。
弥吉だけ、明日の装束を前に座っていた。
「それでいいんじゃない?」
綾之丞が言う。
「ほんと?」
「襟はこっち」
直される。
「髪は?」
「朝やる」
宗七が本から顔を上げる。
「緊張してる?」
「してる」
「千金の相手だもんね」
「金額言うなよ」
源八が言う。
「逃げるなよ」
弥吉が振り返る。
「逃げないよ」
「ならいい」
弥吉は明日の装束を見る。
正式な対面。
初めて会う主人。
どこの誰かも知らない。
怖くないと言えば嘘になる。
でも。
会って、話す。
その人を見る。
それからだ。
弥吉は装束を丁寧に畳んだ。
「よし」
綾之丞が笑う。
「明日、それ何回言うと思う?」
「うるさい」
宗七も笑う。
源八は荷を結び終えた。
弥吉はもう一度、畳んだ装束を見る。
明日。
自分の主になる人に会う。
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