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第16話 最後の仕上げ
「松波。始め」
教師の声が響いた。
源八の前には、主人役の塾生が一人。
その周囲を三人の襲撃役が囲んでいる。
卒業試験前、最後の武術実技。
課題は単純だった。
主人を出口まで連れていく。
襲撃役を倒すことではない。
源八は木刀を構えた。
一人目が来る。
鋭い踏み込み。
源八が受ける。
押し返す。
相手の姿勢が崩れた。
追えば打てる。
源八は行かなかった。
主人役の横へ戻る。
二人目が後ろから入る。
「右!」
主人役の肩を押し、自分が前へ出る。
木刀がぶつかる。
三人目が出口側へ回った。
源八の目が動く。
正面の一人を打ち倒せば、道は開く。
だが、その間に後ろが空く。
「こっちだ」
主人役を壁際へ寄せた。
自分の身体で進路を塞ぐ。
襲撃役が一人、わざと背を見せて逃げた。
源八は見送った。
追わない。
残った二人を牽制しながら、主人役を一歩ずつ出口へ動かす。
「そこまで」
教師の声。
源八は木刀を下ろした。
主人役が出口の外へ立っている。
教師が採点紙を見る。
「一人も倒していないな」
「必要なかったので」
「逃げた者を追えば取れた」
「俺の役目は主人を外へ出すことです」
教師が顔を上げる。
源八は真っ直ぐ立っていた。
「よし」
一言。
源八は頭を下げた。
道場の端で見ていた弥吉が、にやにやする。
源八が戻ってくる。
「何だ」
「別に」
「その顔やめろ」
「格好よかったなって」
「気持ち悪い」
「褒めたのに!」
源八は木刀を置いた。
少しだけ口元が緩んでいた。
****
その日の夕方。
宗七は一人で喜庵の部屋へ入った。
手には将棋盤。
喜庵が湯呑みを持ったまま見る。
「また来たか」
「お願いします」
「試験は」
「今日の分は終わりました」
「疲れておろう」
「先生もでしょう」
「わしは老人じゃからな」
「なら早く始めましょう」
喜庵が笑う。
「今日は強気じゃの」
宗七は盤を置いた。
「今日は勝ちに来ました」
「よかろう」
二人が向かい合う。
駒を並べる。
宗七が先に動かした。
****
序盤は静かだった。
宗七は盤を見る。
そして、喜庵を見る。
指。
目線。
呼吸。
湯呑みに手を伸ばす間。
喜庵が一枚、前へ出す。
宗七はすぐ取らなかった。
「ほう」
「何です?」
「何でもない」
喜庵が笑う。
宗七も少し笑った。
中盤。
喜庵が端から仕掛ける。
盤だけなら、受けるのが安全だ。
宗七は喜庵の顔を見る。
楽しそうだ。
誘っている。
「先生」
「何じゃ」
「そこ、本命じゃないでしょう」
「さて」
宗七は受けなかった。
中央へ打つ。
喜庵の眉がほんの少し動いた。
宗七は見逃さない。
「そこですね」
「何がじゃ」
「先生が嫌なの」
喜庵が笑う。
「言うようになったの」
そこからは長かった。
一手ごとに、二人とも時間を使う。
日が落ちる。
部屋に灯りが入る。
最後。
宗七が駒を置いた。
喜庵は盤を眺めた。
一度。
二度。
それから、ゆっくり息を吐く。
「参った」
宗七の目が大きくなった。
「……本当に?」
「嘘をついてどうする」
「もう一回見てください」
「勝った者が言う台詞ではないぞ」
宗七は盤を見る。
自分でもまだ信じられない。
「ぎりぎりでした」
「ぎりぎりで十分じゃ」
喜庵は湯を飲む。
「今日のおぬしは、盤よりわしをよく見ておった」
宗七の顔が少し明るくなる。
「でも、途中で何度も間違えました」
「人を見るのに正解ばかり求めるな」
宗七は一瞬黙った。
やがて笑う。
「それ、将棋の話ですか?」
「好きに考えなされ」
喜庵も笑った。
宗七は大切そうに駒を袋へ戻した。
****
翌朝。
化粧科の教室では、綾之丞が鏡の前に座っていた。
最終課題。
自分が仕える場を想定し、装束、髪、化粧をすべて自分で仕上げる。
綾之丞が選んだのは、宴席だった。
華やかすぎない。
主人より目立たない。
それでも、隣に立った時には美しく見える。
眉を整える。
紅を薄く置く。
髪を結ぶ。
装束の襟を直す。
与平が後ろを通った。
綾之丞の手が一瞬だけ止まりかける。
止めない。
鏡だけを見る。
最後まで自分で仕上げた。
「できました」
与平が前へ来る。
何も言わず、しばらく見る。
綾之丞の背筋が伸びる。
「先生?」
「藤房」
「はい」
「余計なものが減った」
綾之丞が瞬く。
与平は襟元を指で一度直した。
「これでいい」
ほんの少しだけ笑う。
綾之丞の顔が一気に熱くなった。
「……はい」
「顔が赤い」
「分かってます」
「試験前だぞ」
「分かってますって!」
少し離れた机で弥吉と宗七が見ていた。
弥吉が小声で言う。
「また赤い」
宗七が頷く。
「かなり」
綾之丞が振り向く。
「聞こえてる!」
弥吉が笑う。
「集中しろよ」
「誰のせいだ!」
綾之丞は一度深く息を吐いた。
鏡を見る。
頬の赤みが少し残っている。
「……よし」
道具を持ち直した。
「次、弥吉。眉見るよ」
「切り替え早っ」
「試験前なんだから当たり前でしょ」
与平がそれを聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
****
卒業試験は数日にわたった。
武術。
軍略。
性愛。
化粧。
礼法。
奉公実務。
弥吉は一つずつ受けた。
剣では、最後まで源八には届かなかった。
軍略では、宗七のように盤面を先まで読むことはできなかった。
化粧は大崩れしなかった。
礼法も、何度か言葉を直された。
性愛では、相手の様子を見る余裕が増えた。それでも夢中になると、反応がそのまま顔へ出た。
奉公実務だけは、考えるより先に身体が動いた。
主人役が咳をすれば水を出す。
食事が残れば理由を見る。
届いた書状の優先順位を変える。
誰か一人で抱えきれない仕事なら、人を呼ぶ。
そして最後の日。
弥吉は採点結果を受け取った。
武術。中。
軍略。中。
性愛。中。
化粧。中。
礼法。中。
奉公実務。上。
しばらく紙を見た。
隣から綾之丞が覗く。
「綺麗だね」
「何が」
「並び」
「言うと思った」
宗七も見る。
「奉公実務は上」
「そこは嬉しい」
源八が腕を組む。
「卒業は」
「できる」
弥吉は答えた。
自分で言ってから、もう一度紙を見る。
全部そこそこ。
ずっと欲しかった。
これだけは誰にも負けない。
そんな一つ。
結局、最後まで見つからなかった。
弥吉は紙を持ったまま、少しだけ息を吐いた。
「……これが今の俺だ」
三人が弥吉を見る。
弥吉は笑った。
「剣なら源八の方が強い。軍略なら宗七。性愛と化粧なら綾之丞」
「当然」
綾之丞が言う。
「そこは否定しろよ」
「事実でしょ」
「まあな」
弥吉も笑う。
「でも、俺は俺で卒業できる」
源八が言った。
「最初からそうだろ」
「言い方が冷たい」
「何を言えば満足なんだ」
宗七が笑う。
「褒めてほしいんだよ」
「弥吉は頑張った」
源八が棒読みで言う。
「腹立つ!」
綾之丞が吹き出した。
弥吉も笑った。
採点紙を畳む。
もう悔しくはなかった。
****
卒業式を数日後に控えた夜。
四人は中庭に集まっていた。
誰が持ってきたのか、菓子と茶がある。
「卒業したら、こうして集まること減るんだな」
弥吉が言った。
綾之丞が菓子を取る。
「そりゃね。みんな別の家に行くかもしれないし」
「同じ家から声かかったら?」
「源八とは嫌」
「なぜ俺を見る」
「朝から稽古うるさそう」
「お前の化粧道具の方が邪魔だ」
「戦だ」
「もう始まってるよ」
宗七が笑う。
弥吉は茶を飲んだ。
「本当に戦になるかもな」
三人が少し静かになる。
雄室になれば、仕える家が決まる。
その家同士が敵になることもある。
源八が言った。
「その時は仕事をするだけだ」
「俺たちが敵でも?」
「仕える主が敵ならな」
弥吉は少し考える。
「嫌だな」
「俺も好きではない」
源八は淡々と答えた。
宗七が湯呑みを回す。
「でも、戦うことだけが仕事じゃないよ」
弥吉が宗七を見る。
「どういうこと?」
「主を説得することもできる。戦わない方法を探すこともできる」
綾之丞が笑った。
「俺は夜のうちに戦する気なくさせる」
源八が眉を寄せる。
「どうやって」
「知らなくていいよ」
「何だそれ」
弥吉が吹き出した。
「天下を制するんだろ」
綾之丞が胸を張る。
「性欲を制する者は天下を制す」
「まだ言ってる」
「卒業しても言うよ」
宗七が笑う。
源八も諦めたように茶を飲む。
弥吉は三人を見る。
強い奴。
頭のいい奴。
綺麗で、人を喜ばせるのが上手い奴。
自分とは全然違う。
それでも、ここまで一緒に来た。
「なあ」
三人が弥吉を見る。
「もし戦場で会っても、死ぬなよ」
綾之丞が眉を上げる。
「急に重い」
「大事だろ」
宗七が笑う。
「弥吉もね」
源八が言う。
「お前が一番心配だ」
「なんでだよ」
「すぐ前に出る」
「最近は考えてる!」
「最近とか言うな。今もだ」
「ひどいな」
綾之丞が手を伸ばす。
「じゃあ約束」
「何?」
「生きて会ったら、飯食う」
宗七が頷く。
「それくらいがいいね」
源八は少し考えた。
「分かった」
弥吉も笑う。
「じゃあ決まり」
四人は湯呑みを持ち上げた。
乾いた音が小さく鳴る。
卒業はもうすぐだった。
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