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第1話

 広く、天井の高いホールに拍手の音が響く。彼は、割れんばかりの拍手の渦にいた。  歓喜の洪水はホールすべての人間を包み込み、いま、もう死んでしまってもいいほどの幸福感の中にいた。  クラシックに精通したシカゴの観客相手にあった不安や緊張は、音を慣らし始めた途端に消え去り、ただただ彼の紡ぎ出す音の波に身を委ねることに、快楽すら見出していた。  演奏が終わって紅潮した表情のまま指揮者とコンマスが互いに抱き合い、客席に向かって手を挙げて見せる。  ――いまこのとき、彼らは確かに光輝く渾身の音楽を作り出したのだ。  水曜夜と、土曜の午前。週に二度の練習のためにアキハバラ交響楽団のスタジオに向かう。秋葉原にあるスタジオは、神田明神の方面へ向かっていった道沿いにある。坂の途中にあるせいか、自転車で走っているといい運動になる。これで楽器を背負っていれば重量も増していたかもしれないが、自分のカラダとリュック一つであれば、十分に漕ぎ切ることのできる体力はあった。  徳永澄人――アキハバラ交響楽団のピアニストである彼は、スタジオの敷地内にロードバイクを止めて中へと入っていく。既に灯りがついているのは、誰よりも真っ先に来るバイオリニスト、舘野だろうと踏んでいた。  開けっ放しにされたドアの向こうから聞こえてくるアリアは、いつも舘野が練習用にと選ぶ曲だ。手慣らしだろう、繊細な音色が広がっていた。  徳永は、ほんの少しだけ立ち止まって聞き入る。  弦楽器は専門外だが、聞き慣れたせいか、音色の違いは分かる。舘野の奏でる音は繊細で儚く、まるで掌にこぼれ落ちた雪の欠片のようだ。淡く溶けて、余韻だけを残して消えてしまう一瞬の名残り。  フレーズが終わってから徳永は部屋に足を踏み入れる。バイオリンを下ろした舘野がこちらを振り返って目を細めた。 「おはよう、舘野」 「徳永か。今日は早いな」 「今週は残業で遅刻したからな」  社会人でもある徳永は、水曜夜の練習は残業で間に合わないことがある。その分、土曜の練習には早めにきておくのが常だ。しかし、今日はバイオリンの舘野以外はまだ来ていないようだった。徳永はリュックを置くと、楽譜のファイルを取り出す。ピアノの蓋を開けると、すぐに指鳴らしのハノンを弾き始めた。  PCのキーボードに慣れてしまうと、ピアノの鍵盤は少し重く感じてしまう。  右手が特に重く感じるのは、昨夜、日付が変わるまで残業していたせいだろう。週に一度、水曜の定時退社をもぎとるために、他の曜日に少し無理をしていることがあったが、昨夜は少し頑張りすぎた。  もう一度、最初から指を鳴らし始めると、開けっ放しだったドアの向こうから、話し声が聞こえてきた。そろそろ時間だ、団員が集まってくる頃だろう。 「おはようございまーす」 「あぁ、おはよう」  手を挙げて挨拶するけれど、舘野の表情が僅かに硬くなったのを徳永は見逃さなかった。前回のリハで舘野と口論になったホルンだ。舘野の気質であれば、前回の口論を忘れてはいないだろう。特に、繊細で神経質な性質の舘野であれば。  舘野は一瞬の後に涼しい顔に戻ると、弦の張りを調整している。次々に団員たちが入ってくると、もういつもの空気に戻っていた。  各自がリハの準備を始めているが、時間になっても一向に指揮者が来ていない。先月、日山の妻が病気で入院しているせいで、しょっちゅう日山が病院に行っているのを徳永もメンバーも皆、知っている。今日も遅刻だろうか、と皆がざわめき始める。慣れたものではあるが、連絡がないのが心配だった。  日山が練習に来られない日が増えてきてから、新しい指揮者が三人応募して来たが、どちらも最初の練習で去っていった。団員はコンマスの舘野が追い出したという。それが原因で前回の練習でも口論になったのだが、音楽に真剣に向き合っている舘野にとってはレベルの低い指揮者に従う気もないのだろう。  ポケットから携帯端末を取り出して確認する。日山はおっとりと温厚な性格ではあるけれど、それゆえなのか時々抜けていることもある。連絡がきていないことを確認して、容態が急変したとかでなければいいが、と徳永は日山の連絡先を探す。  徳永が日山と出会ったのは、社会人になってすぐの頃だった。音大こそ出ていないものの、毎日のように実家でピアノを弾いていた。教室ではそこそこ弾けていたが、趣味の域を出ないことも自覚があった。しかし、社会人になって一人暮らしをし始めると、途端にピアノを弾ける機会がなくなることに気がついた。1Kの部屋にピアノは置けない。まして、防音設備すらない。  電子ピアノを買う余裕も無く、仕事帰りにピアノ店の前でぼうっと立っていたところ、出てきた男に声をかけられた。それが日山だった。人が行き交う路上、ピアノの話で盛り上がった挙句にその場の勢いでピアノセッションをやろうという話になったのが、アキハバラ交響楽団の始まりだ。それは、日山と徳永しか知らない。  ふと、目線を上げると、いつも以上に険しい舘野の表情が目に入った。苛立っているのは、連絡もないまま来ない日山に対してではなく、日山が不在のせいで前回の練習と同様に無残なリハになると予想してのことだろう。 「ちょっと、連絡いれてみる」  その場で日山の携帯に電話をかける。指揮者不在で団員たちが雑談に興じ始めると、途端に騒がしくなる。  もう片方の耳を手で塞いで、徳永はコール音を聞いた。  急に、ざわめきが大きくなる。ふわっと、その場には似つかわしくないパルファムとアルコールの混ざった香りがしたのと同じタイミングで、日山が応答した。  開いたままのドアが、締められる。俯いた視線の端に、歩いて行く人影が見えた。 『はい、日山です』 「俺です、徳永です。日山さん、今日の練習は」 『ん、あぁ、あれ、連絡入れてなかったっけ?』  人影が、中央で止まる。  ざわめきが、一瞬で止まった。  妙な空気に包まれた中で徳永が顔を上げると、指揮台には人懐こい笑みで団員を見回している外国人がいた。  なんだあれは。妙に楽しそうににこにこと笑っている。ラテン系か。  耳元で、日山が至極重要なことをさらりと口にする。 『今日からね、指揮者、新しくなるんです。言いましたよね?』 「いや、聞いてないですって……!!」 『言ってませんでしたっけ?』 「アンタってホント、そういう大事なこと抜けてるんだから」 『あはは、すみません。えっとねぇ、名前は――』  酒臭い男を目の前にして、なんだあれ、とか。あの人だれ?とか団員たちがざわめいている。  うるさい、日山の声が聞こえない。  いますごく大事なことを話しているのに。  耳元で、日山の声と目の前の男の声が重なる。 『名前は、――』 「俺はルカ・フェランテ。今日からこのオケの指揮者だ、よろしくな?」  一瞬の沈黙。  徳永は、「それじゃ徳永くん、よろしくおねがいしますねぇ~~」という間延びした日山の声を最後に、端末を手から滑り落とした。  この、胡散臭い酔っぱらいが、次の指揮者だと?  団員の全員から、絶叫にちかい悲鳴が上がっていた。  徳永ですら奇声を発し、ピアノの譜面台に額をぶつけた。  ――アキハバラ交響楽団、定期公演まであと半年のこと。

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