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第2話

 新しくやってきたラテン男は色んな意味で今までの指揮者とはかけ離れた男で、舘野は内心の苛立ちに一層の拍車がかかる。そもそも、前回の練習で口論になった原因も、団員が真剣に練習に取り組まないことが原因なのだ。それなのに、新しくやってきた指揮者は頼りなくて、更に舘野はげんなりとしてしまう。  指揮台につまづいて転ぶ。身を支えようと咄嗟に伸ばした手で楽譜を掴み、ぶちまける。おまけに、拾った楽譜はバラバラ、くしゃくしゃ。  こんな、頼りない男が次の指揮者だというのか。  舘野は内心で、潮時だろうかと思案する。  日山に誘われてアキハバラ交響楽団に入ってから、ここまで落胆したことはなかった。日山の人柄の良さと紡ぎ出す音楽の心地よさに今まで我慢してきたことがいくつもあった。  そのうちの一つは、他のメンバーとの音楽性だ。舘野は昔からクラシックを学んできたし、音大で何度もコンクールで入賞している若手実力者だ。一方で、団員の多くは学生時代の趣味を昇華させたくてやってきている者が多く、彼らの姿勢は「楽しければいい」だ。技術の向上よりも、和気藹々と楽しむことこそ音楽だと考えているのだろう。それは、舘野のこれまでの考え方とは異なる。指揮者も日山からあの変な男に変わるなら、自分はまたどこか違うオーケストラで演奏しながら、働けばいい。  そんな風に思案していると、ようやく立ち直ったらしい指揮者――ルカが改めて指揮台に立つ。楽譜は無事らしい。 「改めて。昨日ヒヤマからこの楽団の指揮を頼まれたルカだ。宜しくな」  そして、やっぱり酒臭い。顔をしかめたまま舘野は、ルカと視線を合わせようともしなかった。  団員たちはざわついていて、うるさい。指揮者の肩越しに、チェロ隊が特に騒がしい。 「昨日って、どういうことですか?」 「うん、俺も昨日、居酒屋でヒヤマから勧誘されてさぁ。楽しそうだからオッケーしちゃった」  引き攣った顔で挙手した徳永が問うと、ルカはなんだか音を外した下手くそなホルンのような、ふにゃっとした顔で笑って言った。  この男が言うには、どうやら昨夜のこと、立ち飲み居酒屋で一緒になった日山に、自分の代わりに振ってくれと言われてやってきたらしい。その後テンションが上がり一人で飲み屋をハシゴして、朝まで飲んでいたそうだ。どうりで酒臭い。  一方で、パーカッションの竹之内かよ子から手が挙がる。 「指揮できるんですかぁ~?」 「できるできる、これでもオーケストラの経験はあるんだぞ!」  なんでこんな胡散臭くてオケで振った経験のあるラテン男と居酒屋で出会ったのかは知らないが、舘野はあからさまに溜息を吐出した。やってられない。 「アンタがコンマスか。美人だとやる気が出るなぁ」  よろしく、と差し出された手を、舘野は無視した。そのまま楽譜を閉じて椅子を立とうとする。 「僕は君が指揮者だとやる気がでない。帰らせてもらうよ」 「おい、舘野!」  素っ気なく言うが、指揮者の男は気分を害した様子もなく、むしろ背後からかかった徳永の声に、舘野の足は止まった。 「んなこと言うなって、……えっと、ほら。折角来てくれたんだし、合わせてみようぜ」  日山とともに創立メンバーである徳永は日山に似て、メンバーの潤滑剤になることが多い。その分面倒を背負うことも多ければ、団員との板挟みになって胃痛を患うことも何度もあった。いまでも胃薬は欠かさず持ち歩いているらしい。  それに、長いせいか妙に徳永の言うことに従うメンバーも多い。他のメンバーが「徳永が言うなら」と応じ始めるのに、舘野はここで意地を張っても仕方ないと思ったのだろう、椅子に座り直して譜面に視線を向けた。 「それじゃ、えっと、オープニング曲の頭からやるぞ」  指揮棒を上げると、何だかんだと言っていた全員が渋々でも楽器を構える。  ルカの表示が変わった。全員の視線に答えてから、ルカが指揮棒を操る。  だが、すぐに舘野の機嫌はさらに悪化した。兎角、練習してきたのかと問い詰めたいような音をしている。  たかだか数小節で音を外すヴィオラがいる。  クラリネットがリードミスをする。リードの調整くらいしてこい。  ホルンは音のしまい方が汚い。  オーボエは周りの音が聞こえていないせいで、メロディラインの入りが早すぎる。  舘野はバイオリンを降ろしてしまいたい衝動に襲われたところで、ルカが手を振った。 「ん、ちっとストップ―」  間延びした声で制してから、ルカは譜面を再度辿ってから声を上げた。全員が、まず最初に何を言い出すのだろうという表情で見つめていると、セカンドクラリネットの青年に視線を向けていた。 「そこのクラリネット、リード割れてないかな。変えておいで」 「オーボエはせっかく見せ場なのに、ちっと走りすぎかな。よーく音を聞いて」 「あとね、ホルンはね、音がなんか投げっぱな。もうちょっと集中してみてごらん、Cの3小節目からの、メロディラインね、かっこいいところだから」  それから、それから、と。一人ひとりに細かくアドバイスをしてる最後にルカは舘野に視線を向ける。じっと見つめてから、全員を見渡して言った。 「俺のコト見て周りの音聞いて、ノってきてごらん」  すげー楽しそうに見えるだろ?これ、一番大事だかんな。  そういったルカは最初の印象の通りに間の抜けた、いや、肩の力を抜いた表情で笑ったが、内心で舘野は彼に対しておそらくどこかのプロオケの出身だろうと踏んでいた。  相当に優秀な指揮者だ。メンバーの音を聞き分けているし、指摘も的確だ。耳も良い。  そういえば朝方まで飲んでいたというが、一体いつ楽譜を読み込んできたのだろうか。まさか初見ではあるまい。  プロオケの出身ならば、なぜこんな楽団の指揮者に就任したのだろう。  舘野は少しずつ、ルカに対して興味を抱き始めていた。 「ほい、そんじゃもっかい頭からね。よーく、俺の方見ててごらん。面白いから」  ルカはそう言って、譜面を戻す。舘野は、沸いてきた雑念を振り払ってから、弓を構える。演奏が始まると、舘野はルカがとても楽しそうに踊るように演奏しているのに気づいた。  音が、変わっていた。  皆がルカをきちんと見るようになってその動きにつられるように、音が楽しそうに弾んでいる。 「おっけ、クラ、いい音してきた!いいよぉオーボエ、よく周りを聞いてるね!」  言うとおりだった。クラリネットから、リードミスの音がしなくなった。  オーボエは周りを聞くようになったし、ホルンは音に雑音がなくなった。  一体、どんな魔法を使ったのだろう、と舘野の視線はルカを改めて見つめる。若干の無駄な動きもあるものの、心から楽しそうに指揮棒を振っていた。  タクトを振り回しながら、うまくいっているパートに声をかけている。心底、楽しくて仕方がないという顔だった。  唐突に舘野の中に一つの情動が湧き上がった。なぜだろう、指揮棒を振る手元から目が離せない。このままずっと、眺めていたい。  そこにあるのは、舘野にとっては魔法の手だった。  一曲目を最後まで通すと、まるで子供のようにすごいすごいとルカは手を叩いて、指揮台の上ではしゃいだ。 「いいじゃん、すげーよくなった!!」  確かにルカの言う通りに音が良くなってまとまっている。人前で聞かせられる程ではなくとも、前回の練習で日山が振った時よりも格段に良くなっていた。  舘野は耳に残る余韻にしばらく経っても浸っていた。まだ、自分が興奮しているのが感じられる。初めて日山と演奏したときの心地よい感覚とは違う。まるで、学生の頃に初めてオーケストラで弦を鳴らした時のような、あの情熱が、手を震わせた。  楽しそうに声をあげる楽団員を置いて、一人静かに興奮に身を委ねていた舘野が席を立ち、スタジオを出て行く。 「おい舘野、どこ行くんだ」 「……少し休憩しよう」  先日舘野と口論していたメンバーも、不思議そうに舘野の背中を見送る。  声をかけた徳永自身も興奮が冷めないのか感覚を忘れないようにと同じフレーズを鍵盤に刻みこんでいたが、チェリストの尾上真が携帯端末を片手に悲鳴を上げているのが聞こえた。 「やっぱり……やっぱりそうだ、Luca Ferrante、あの伝説のシカゴ公演の指揮者だ!!」  舘野はホールを出るとエレベータを上がって屋上へと出る。ここからはアキハバラ電気街に立ち並ぶビルが見えた。空を静かに眺めながら、舘野は手にしていたバイオリンで、主旋律を掻き鳴らす。胸の奥に熱が残っていた。  あの胡散臭い男には見覚えがある。2015年にシカゴ交響楽団の定期演奏会でたった一度、客演指揮をして大きく話題になった男だ。アマチュアのオーケストラで振ってはいたが、指揮者コンクールにも出ていない無名の指揮者、それが客演指揮者として鮮烈にデビュー公演を果たした。  だが、彼はその直後に失踪していると聞いたことがあるが、まさか日本に来ていたとは。  ぐるぐると止めどなく思考が回るのを止めたのは、背後から来る男の足音だった。追いかけてきたのだろう。舘野が振り返ると、ルカはシャツの胸ポケットからタバコを取り出して火を付けた。 「いいバイオリンだな」  傍らの柵に寄りかかったルカに、舘野は静かに問うた。  ―ーあの、シカゴ公演のあと。 「なんで、逃げたんだ」  紫煙をくゆらせるルカに、視線だけを向ける。 「色々あるんだよ。……お前だって、色々あって此処にいるんじゃねぇのか?」  ルカも、視線だけを舘野に向ける。吸い終わったタバコを携帯灰皿に押し付ける男を眺めながら、それで納得できるような答えを用意したつもりか、と内心で一人ごちる。  とはいえ、舘野も同じようなものだと自覚はしていた。学生の頃は神童と言われパリへ留学したは良いものの、結局のところは井の中の蛙だったことを否応なしに知らされた。その気になれば世界で活躍するバイオリニストになるだろうと言われ続けてきたが、所詮はこんなものなのだと気付いてしまった。以来、中途半端な熱情を持て余して、このアマチュアオーケストラに所属している。  だが、ずっと持て余してきた熱を、こんな風に昇華したのは久しぶりだった。 「そんな熱っぽく見つめて……俺に惚れた?なんてな」  じっと指揮者の指先を見つめている舘野に、彼は冗談めかしたように言ってみせる。だが、舘野はルカの左手を取って、指先に唇を触れさせた。 「そうだな、君の指先にキスしたくなった」  手首につけているのだろう、パルファムとアルコール、それからタバコの香りがした。舘野は深く息を吸い込んだ。  目を閉じて、その香りを嗅覚に、脳に、記憶に焼き付ける。同じ香水を使っていたとしてもきっと同じ香りはしないだろうから。 「ところで君、あのゲームの作品知らないだろ。解釈がメチャクチャだった、……指揮は素晴らしかったが」  手を離した途端に舘野は肩を竦める。ぱちぱちと瞬きを繰り返すルカに、更に舘野は続ける。 「あのゲームをプレイしていないなんて、モグリにも程がある。必ず1からプレイするように」  厳しく言い渡すものの、舘野自身もパリ留学から日本に戻ってきて、日山に出会ってからゲームにのめり込んだ自覚はある。だが帰国して以来、何にもやる気がしなくてふらふらと彷徨っていた自分を救ってくれたのは日山の紹介してくれたゲームのストーリーだった。紡がれるストーリーに、キャラクターに、音楽に。動かなくなり始めていた心を取り戻した。  自分が味わった感動を、ルカにも味わって欲しかった。 「厳しいなー。そんじゃ、あとでソフト買いに行くから付き合ってくれ」 「いいだろう。かならず全員を仲間にするように。漏れは許さないからな」  相変わらず手厳しい、と笑うものの、ルカは舘野の口調に、音楽に対しても、ゲームに対しても愛情が深いことを知る。愛情が深い分、きっと自分にも他社にも多くを求めてしまうのかもしれない。不器用な男だとは思うが、今まで出会ってきたどのコンマスよりも、興味を惹かれる。それだけでも、日本に来て良かったとさえ思う。 「オープニングの旋律だが、この旋律はエンディングで合唱が入る。サントラは貸してやるから、必ずライナーノーツまできっちり読むように」  言いながら、自分の理想のままに音を紡ぎ出す舘野は心の底から楽しそうで、ルカは柵に頬杖をついて、幸せそうにそれを眺める。  二人を呼びに来た徳永も足を止めて、少し離れたところから聞き入る。ここ最近ずっと不機嫌だった舘野が楽しそうにバイオリンを鳴らす姿に、口元が緩んでいた。

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