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第3話

 アキハバラ交響楽団コンサートマスターの朝は早い。六時に起床し、ウォーターサーバーの水を一杯飲んでから、室内に置いてあるエアロバイクに一時間。ジムに行くよりも好きなタイミングで運動が出来るからと購入したものだ。外を走るほうが気持ちが良いが、万が一、手を怪我して使い物にならなくなったらと思うと、大人しく室内でペダルを漕ぐほうが良い。  軽く汗を流すと、シャワーを浴びる。シャンプーはオーガニック、ベルガモットの香り。質以上に、気に入った香りのものを好んで使っていた。  シャワーを済ませると、次は軽い朝食。豆乳きな粉バナナジュースに、茹でたまご。キッチンで作りながら済ませ、そのまま洗い物もこなしてしまう。そうするとあとで掃除が楽だからだ。料理だけではない、掃除、洗濯も一通りの家事はそつなくこなせる男である。  洗濯物を干して家事が一段落すると、音楽系、ゲーム系の最新情報をニュースサイトでチェックする。特に変わったことがあればクリッピングをすることもあるが、今日は目新しい情報は特に無いようだ。それらを全て済ませると、大体9時くらいにはなっている。  防音の練習室に入ると、愛用のバイオリンでウォーミングアップをする。子供の頃から、一日たりとも練習を欠かしたことはない。日に一度バイオリンに触らないと落ち着かないのだ。外出していたとしても、練習場所はいつも確保しているし、コンサートの出演でなかったとしても、練習用のバイオリンを持ち歩いている。  舘野は、3本のバイオリンを保持している。学生の頃から使い込んでいる練習用の他に、コンサート用の質の良いもの、それから、パリで共に旅をしたロッカ。日本に戻ってからは一度も触れていない。  エチュードを一通りこなしたあと、パガニーニの技巧練習曲を弾きこなし、最後にバッハのバイオリン協奏曲でいつもは終了するが、時折、その時に熱中しているゲームのメロディを弾くこともある。これは動画としてアップするための準備ではあるが、本人が楽しんで弾いてしまうことの方が圧倒的に多い。  だが、いつも物足りなさを感じる。自由に弾くバイオリンは楽しいだけなのだ。あの、研ぎ澄まされた音楽にこそ宿る静寂の音を鳴らすには、楽しいだけではダメなのだと舘野は経験上知っていた。  練習を終わらせると、舘野は再びPCに向かう。アキハバラ交響楽団以外にもオケに顔を出しているので、その付き合いからメールが来ることもあれば、音楽雑誌に連載しているコラムのことで担当から連絡が来ることもある。  だが、その日は舘野が待っていた相手からのメールだった。チェロの尾上から、動画のURLの下に、長々と文章が綴られていた。無口でいつも控えめな尾上にしては珍しいが、それよりも興味はURLの先の動画にある。昨夜のうちに頼んでおいたルカ・フェランテのシカゴ公演の演奏が、動画に収められていた。  音源も映像も残されているとは思っていなかったが、どうやら説明をかいつまんで読むと、主催側は売り出すつもりではあったらしい。だが、当のルカ本人が承諾しないまま失踪してしまったため、せめて、と動画サイトにアップロードしているようだった。  アキハバラ交響楽団の指揮者がルカだとわかった途端に卒倒せんばかりの勢いで驚いたのは尾上だった。彼は二年前のシカゴ公演にも行っているほどのクラシックオタクだ。憧れている指揮者との邂逅に、なんだか頭を抱えて意味不明な言葉を口にしていたが、流石に一日経ったせいか落ち着いたようだった。  最初のルカの練習のあと、舘野は尾上を呼び出して訪ねていた。失踪の理由は知らないようだったが、妙に口を閉ざしていたのは気にかかった。 「なんで逃げたんだろうな」 「珍しいですね、舘野さんがそこまで気にするなんて」 「CDでも映像でも見たことがないが、シカゴ公演の話は僕も知っていたよ」 「シカゴ公演なら、翌年に主催が動画サイトにアップしてましたよ。あとで送りますね」  動画の中で指揮を振っているルカは、まるで別人のようだった。短い髪に、テールコート。自分たちとは違って、ステージ上の人数も多い。編成数がまったく違う。その中央でまるで魔法つかいのように音楽を操っている男が、あのルカだとは思えなかった。  ギャップが酷い。これが本当に、昨日指揮台につまづいていた男だろうか。  疑念が湧き上がっては、目の前の演奏によってかき消される。動画の画面越しにでもわかる。  昨日の演奏は、いま目の前の画面の中で指揮棒を振っている男と同一人物なのだ、どうしようもないほどに。だが、なぜ失踪したのか。なぜ失踪したかのマエストロが日本で、しかもこんな無名のゲーム音楽のアマオケにやってきたのだ?  それも、演奏予定のゲームをプレイもしていないで振ろうなどと。 「あぁもう!!クソが!!」  雑念が多すぎて、コラムにまったく集中できない。デスクチェアの背もたれにぐったりともたれかかって、舘野は深く息を吐き出した。コーヒーを煽りたい気分だった。どうせコーヒーを飲むなら外のカフェに行こうと、舘野はバイオリンを持ち出して家を出た。  家を出てゆったり歩いていくと、風が気持ちいい。大通り沿いのカフェのオープンテラスで美味しいコーヒーと甘い物をとれば少しは気分もマシになるだろう。そう思ったのに、出てきた時間が悪かったのだろう。時計を見ると13時を過ぎた辺りで、周りのオフィスから流れ込んできたサラリーマンとOLで埋め尽くされていた。  仕方なく足を伸ばし、ファストフード店に入る。もうPC用の電源があればどこでもいいやという投げやりな気持ちもなくはない。 「いらっしゃいませー、ご注文をどぞー」  なんで目の前に、ルカがいる。それも赤いシャツの制服が死ぬほど似合わないし、間延びした声で若干訛っている。 「ナゲット、マスタードソースで。あとカフェラテ、ホット」  真顔の舘野は、店員と目を合わせようとせず、メニュー表を指差して早口で告げた。しかし、ルカは動じることもなく、顔を覗き込んでくる。なんだこいつ。 「ごいっしょにー、えっと、オレンジジュースいる?」 「いらない」 「んもう。もうちょっと驚いてくれてもいいのに。あ、スマイル0円だよー」 「いいからさっさと寄越せ、このバカ!」  舘野はわざわざ二階に上がって、ナゲットを摘み、カフェラテを啜りながらノートPCに向かっているが、こんなことならば家で作業していたほうがマシだとすら思っていた。  いっそ、知りたくも無かった。何でこんなところで働いている?  幻のマエストロが、ファストフード店のゴミ袋を交換している。  幻のマエストロが、子供が床にぶちまけたジュースをモップで拭いている。  嘘だろ。ふざけんな。何をしてるんだお前は。  お客様は神様なんかじゃないとSNSで言われて久しいこのご時世に、公衆の面前で暴言を吐いたことはよくなかったとは思っているが、ルカは気にした様子もなくテーブルを拭きに来る。斜め向かいの女子高生グループがこちらを見てキャーキャー言っている。さっきのお兄さんだぁ!――馬鹿か。よく見ろ、オッサンだろう。というか、女子高生にアレコレ言われるほど何をしているんだお前は。 「ねーねー、18時くらいにはバイト上がれるからさぁ、一緒にメシいかない?」 「……わかった。終わったら連絡をくれ、近くにいる」  はーい、またね!といい返事をしてルカは階段を降りていく。何なんだあの男は。  再び深い溜め息が漏れた。結局、コラムはろくに進んでいなかった。何もかも、ルカのせいだ。  気分転換に外に出る。もうこれはどう足掻いても原稿なんか進む気がしなかったから、息抜きにCDショップに向かう。1階がCDショップになっていて、2階より上は小さい練習スタジオのあるところで、団員の中でもそこそこ仲の良い竹之内かよ子が働いている。  ぼんやりとゲームのサントラを漁っていると、背後から肩を叩かれた。かよ子だ。手には、以前頼んでいた輸入盤のCDがある。 「はい、頼まれてたやつ」 「そういうことは、入荷次第連絡をくれないか」  何度かこのやりとりはしているが、連絡をしてこないと分かっているからこそ自分で足を運ぶようにしている。せめて、オケの練習の時に持ってきてくれたっていいのに。 「あのさぁ、昨日尾上ちゃんが言ってたこと、ホント?」  色素の薄い髪を更にブリーチで脱色した髪の毛を指先で弄りながらかよ子が問うた。ビビッドな赤に塗られた爪はそれでも、打楽器を扱っているせいかまだ常識的な範囲といえる長さだ。 「すごいとは思うんだよ。たぶん。でも、わたしは門外漢だからさぁ」  元々はヘビメタバンドでドラムを叩いていたかよこは、オーケストラには疎く、クラシックもいまいちピンとこないらしい。だから、ルカの名前すら知らなかった。団員でも、ルカ・フェランテと聞いて驚くのはごく一部だろう。クラシック界隈を経験している者だけだ。かよ子が疑うのも無理はない。自分でも、昨日の指揮を見ていなければ同一人物だとは思わないだろう。酒臭かったし。 「本物だと思う……たぶん」  目を伏せる。彼のことがよく分からないから、自分の主観でしかない。言い切れない。 「なんで失踪したの?」  かよ子の言葉に、心臓を掴まれたような心地がした。  失踪、それは誰のことを言っているのか。そうだ、自分ではない、ルカ・フェランテだ。 「……音楽家も色々あるんだろう。君だって、そうだったろう?」  できるだけ感情を押さえ込んで告げた内容は無意識に、昨日スタジオの屋上でルカが自分に言った言葉だった。それをトレースしたかのように告げてしまったことに気づくが、それを知るものはいない。  かよ子は僅かに苦笑を漏らす。 「そだね。まぁ、このオケを続けられるならいいや、私は。ルカってやつも、なんか面白そうだし」  舘野は、その言葉に彼女が楽団に加入してきたときのことを思い出す。  彼女がいたバンドメンバーは若く、精神的に成熟していなかったこともあるのだろう。ドラッグで捕まるメンバーもいれば、女性メンバーの取り合いで二人の男が揉めて三人が一斉に脱退したこともある。脱退したメンバーの代わりに新しく加入して、最終的には音楽性の違いという至極ありふれた理由で解散した。  もうステージで叩けないと、かよ子は毎日のようにゲームセンターで機械相手にドラムを叩き続けた。元々音ゲーマニアであったこともあるが、来る日も来る日も叩き続けていたら自分の知らないところで有名になっていて、それを聞きつけた日山がやってきたのが始まりだった。  舘野は、かよ子が日山に連れられてきて、初めてドラムを叩いた日のことを今でも覚えている。力強く、生命力溢れるドラムを叩く癖に、当時のかよ子はもっと無表情だった。問題ばかり起こして結局解散したバンドに対して、自責と後悔で、感情が抜け落ちていたのだろう。それでも叩くことをやめられない彼女に、日山は言った。 『組織なんだもの、色々あるけどねぇ。でもこのオケは、大丈夫だって僕は信じてるよぉ』  間延びした、ちょっと気の抜けるような声でいつものように笑って言った日山に、かよ子は頷いた。なくならない楽団などありはしないと分かっていても、彼女はそれを信じてみたかったのだろう。  かよ子だけではない。  普通から外れ、外されて、楽しく音楽をすることができなくなったメンバーがいることを、舘野も知っている。  自分にも、かよ子にも、そのメンバーにも色々な事情があり、それでも音楽をやめることができなかった。

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