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第4話

 CDショップ二2階のスタジオを借りた舘野は、狭い練習室の中でバイオリンを弾いている。バッハ、G線上のアリア。  無心になりたくて練習室に入ったというのに、なぜか昔のことを思い出してしまう。もうとうに忘れた様な気がするのに、その旋律から胸の奥に閉じ込めていた筈の過去が蘇ってくる。  まだ幼いころ。教室の先生に褒められた。他にも沢山の生徒がいたが、名指しだった。周りの生徒にやっかみを受けたこともあるが、それだけ羨望されていたのだ。期待もされていたのだろう。この教室から世界を目指すバイオリニストを生み出せるのではと、先生の期待は高かった。新しく教室を変えたあとでも、何度か手紙を来ていたのを思い出した。将来有望な幼いバイオリニストを、特に目をかけていた。今思うと、もしかして繋がりを得ておきたかったのだろうかとも思うが、流石に穿った見解だろうか。  そう、期待だ。ジュニアコンクールで優勝するたびに、両親は次々に期待を膨らませ、音大に進む我が子のために防音設備のあるマンションの一室を借りるよう手配したのも両親の期待だった。それを背負うたびに、いつか世界で演奏するバイオリニストになるのだと夢見て、当然のようにパリ留学を決めた。  けれど、子供の頃から抱いていた特別感は、パリであっさりと打ち砕かれた。皆自分と同じように血の滲むような努力をしてパリに来て、同じように高みを目指している。いや、自分以上に。才能があり、努力を積み重ねた化物のような奏者はいくらでもいる。自分だけが特別ではないのだと、現実を突きつけられた。  弓が止まる。集中などできるはずもなかった。自分はなぜバイオリンを弾き続けているのか。しがみつくように。  自分も、かよ子もそうだ。音楽を捨ててしまえれば楽になれるのに。  携帯端末にメッセージが入る。ルカから、バイトが終わった旨の連絡があった。あの後も女子高生にキャーキャー言われていたのだろうか。想像したくない。 『おわった、いまどこ?』 『CDショップだ。中央改札の前で待ち合わせでいいか』 『わかた』  まだ日本語の入力に慣れていないのだろう。たどたどしいメッセージが返ってきたのを確認して、舘野はバイオリンを手に、駅へと向かった。  ルカの方が先に到着していたらしい。携帯端末を弄っている姿を、少し離れたところから見ていたが、二人組の女性に声をかけられているのが見えた。やめておけ、そのオッサンは見た目は良いが中身はアレだぞ。 「またせたな、ルカ」 「おっ、きたきた」  先約があるんで、と二人組に手を振って見せると、ルカは舘野の手をとって人混みを抜けた。背後から不満そうな声が聞こえたが、ルカは気にしない様子で路地へと入っていく。 「邪魔をしたようだな」 「ちーがーうってぇ。そこにさ、カフェあんじゃん、ゲームコラボの」  それを見ていたら、チケットが余っているからと誘われたらしい。どう考えても逆ナンじゃないか。ファストフード店でも女子高生に絡まれたんだか絡んだんだか、騒がれていたが、ここでもか。  これだからラティーノは。  舘野は深い溜め息を吐き出すと、逆にルカの手を引いて路地裏を歩いて行く。 「行きたいところがある。こっちだ」  舘野は無意識に手を掴んでいたが、ルカが握り直す。寒いわけでもないのに、暖かく心地よく感じられた。  ビルの地下へ向かう階段を降りていくと、古い木製のドアにはCLOSEの札がかかっていた。舘野は気にした様子もなく中へと入っていくので、ルカもそれに続いた。店内はジャズのレコードがかかっていて、カウンターにはトランペット担当の幡山がグラスを傾けていた。 「……げ、マエストロ」 「なんだ、ここはハタヤマがやってるバーか。雰囲気いいなぁ」  きょろきょろと辺りを見回しながらルカは感心していた。作りの割に音の響きがいいらしく、歩き回っては手を軽く叩いて響きを確認している。 「職業病だな。いいから座ってろ、また転ぶぞ」 「いいバーだ、シカゴにもこんなジャズバーがあったよ」  一通り店内を歩き回っていたルカをカウンターに座らせると、舘野はバイオリンケースを置いた。 「あ、ピアノあんじゃん。生演奏もやるのか!」  座らせたと思ったら歩きだしてピアノの方へと寄っていく。まるで落ち着きのない子供のようにも見えて、舘野は眉間に皺を寄せた。 「そりゃあな。たまに、たてのんにもお願いしてるんだけどよ、アドリブ下手芸人すぎてさぁ」 「たてのん」 「おい幡山、その呼び方やめろって言ってるだろ!」  舘野の眉間の皺が深くなるが、気にした様子もなく、ルカはその呼び方が気に入ったようだった。ピアノの蓋を勝手に開けて指を滑らせる。モーニンを弾き始めると、カウンターから立って、幡山が近寄っていく。 「なんだルカ、ジャズもいけるんじゃん。今夜弾いてよ、メシ出すからさぁ」 「たてのんも弾いてくれるならいいよぉ」 「その呼び名をやめたら弾いてやっても良い」  店の札が外される。一杯だけ先に飲んだが、そのくらいでも許されるだろうとルカは鷹揚に笑っていた。この男は本当に適当に生きているように見える。たとえ、そうでなくても。だから、今日ルカがきちんとシャツとスラックスだったのは幸いだった。聞けば、いつもはTシャツにデニム、サンダルで出歩いているらしい。 「お、舘野さんだ。今日も楽しみだねぇ」  常連客の中には、舘野のファンもいるようだった。ルカは嬉しそうにシャツの袖を捲り上げて髪の毛を括った。  客が入り始めると、舘野はバイオリンを持ってステージに向かう。舘野に目配せをして、ルカが先に鍵盤に指を滑らせる。リハも何もないセッション、曲はFly me to the Moonをやると言っていたが、自由過ぎる。傍らのルカは身体を揺らしながら旋律を奏でている。オケの指揮ではあんなに音をまとめていたのに、今はもう滅茶苦茶だ。  おとなしいのは最初だけだった。ルカのくせにいっちょ前に猫を被りやがって、しっとりとした愛の曲が、すぐさま情熱的な色合いを帯びる。ラティーノめ。もう少し繊細さってモノを理解しろ。そう意味を込めて睨みつけるが、ルカは気にしない。挑発的に笑って、鍵盤を愛撫するように指を滑らせた。生き生きとした音は、色っぽく、艷やかだ。あえて俗っぽく言うが、興奮している。徳永のピアノも時にダイナミックな音を聞かせるが、もっと真面目だし、合わせやすい。自由奔放なルカの演奏についていくのは大変だった。  だが、楽しい。  楽しくて仕方がない。  カラダが自然に動いてしまう。アイコンタクトで息を合わせるのが、こんなにも楽しい。  二人で、身体全体で音を表現する。こんなセッションは、生まれて始めてだった。 「はぁー、たのしかったぁ」  拍手喝采の中で一礼してステージを降りてくると、ルカも舘野もすっかり人気者だった。カウンターに戻ってくると、わらわらと客がグラス片手に集まってきては話しかけてくる。 「なぁなぁアンタ、舘野さんの相方かい?いい演奏だったよ!」 「すごいね、迫力あったし、こんな楽しい演奏初めてだったな」  なんだか勝手に相方にされているが、悪くない。舘野はカウンターに戻って、モヒートのグラスを傾ける。 「僕も、楽しかったよ」 「おうお前ら、たまには二人でまた演奏してくれよ。メシおごるからよ」  幡山が舘野とルカの間に皿を出す。舘野の好きな生ハムとチーズの盛り合わせに、店で人気のローストビーフはオリジナルのソースがかかっている。ルカは目を輝かせてフォークを手に取った。 「うわ、おいしそー!ハラへってたんだ、食べよ食べよ」  ルカはワインのグラスが半分まで減っている。ちびちびと飲む舘野より、豪快に飲むし、食べる。  舘野も摘んではいるが、次々に料理が胃袋に収められていく様を見ていると気持ちがいい。目を細めると、ルカも 「タテノ、これ美味いよ、ほらほら」  フォークの先にローストビーフをくっつけて差し出してくるルカの勢いにつられて舘野も口を開ける。口の中で薄切りにされた赤身の肉から肉汁が広がった。ローストビーフは脂身の少ない赤身に限る。玉ねぎをしっかりと炒めたソースには、甘みと荒いブラックペッパーがピリッと聞いていて美味い。確かに美味い。美味いのは知っている。この店に来ると必ず食べるのだから。しかし、ルカが美味しいと思ったものを共有してこようと身を乗り出してくると、ついそれを受け入れてしまうのだ。  それからもルカは自分が食べて美味しいと思ったものを舘野に勧めてくる。キノコとパルミジャーノのリゾットの時はさすがに差し出してくるスプーンを拒んだが、美味しかった。生米から炊かれたせいかほんの僅か残った芯が、いい食感を出している。幡山の作るイタリアンは美味しい。美味しいものを食べると元気が出る。  今日一日、雑念にとらわれて苛立っていたのが嘘のようだ。原因はすべて、目の前の男だというのに。 「日本ってさ、もっと真面目で硬い連中ばっかりだと思ってたけど、そうじゃないよなぁ。みんな、なんだかんだ楽しくしてる」  ステージの上では幡山がトランペットを吹いている。スイングジャズだ。頬杖をついて舘野はルカを眺める。こんな風に、ご飯も、音楽も楽しい。今日一日のイライラに対して、お釣りがきたような気分だった。  にこにことゴキゲンな子供のように笑うルカを見ていると、シカゴから逃げたのは音楽に対して楽しみたい気持ちからなのではないかと思案した。あれだけの腕があって、シカゴで伝説と言わしめるほどの演奏を生み出しておいて、失踪した時に何があったのかは分からない。けれど、ルカの音楽を楽しむ気持ちは本物だった。一緒に演奏してみれば分かる。自分も音楽が好きだ。好きだからこそ、絶望したまま音楽の中にいたくない。楽しんでいたい。弾かずにはいられないのなら、好きでいたい。  もう一度、音楽を好きになりたいと、心から思っていた。  バイオリンを、好きでいたかった。オーケストラを好きでいたかった。  だからこそ、ただダラダラと音楽に向き合うことなく所属している団員に厳しくしていた。自分がそれだけの技術を持っているからではない。プロの様な技術がなくても、真剣に向き合っているメンバーだっている。  音楽を好きだという気持ちを、なくしたくなかった。それを、ルカは分かってくれるだろうか。舘野はカウンターに凭れて、ルカの過去に触れてみたいような、知りたくないような、そんな気持ちをグラスの中身と一緒に飲み込んだ。  今夜はやけに、モヒートが辛口に感じられた。 「ところでさぁ」  初めて出会ったときと同じように、アルコールと、パルファムの香りをさせながら、ルカが間延びした声で呟いた。スパークリングワインのあと、カクテルを二杯。ルカはアルコールに強いらしく、かなり酒が入っているが、酔っているようではない。間延びした喋り方はどうも、気質のようだ。 「さっきの演奏、セックスしてるみてぇに、すげぇ気持ちよかったなぁ」  やっぱり子供のように笑って言う割に、言うことが酷い。やっぱりオッサンだ。ピアノに向かっている時はあんなにカッコよく見えたのに。  けれど。 「は?……バカなのか?」  同じことを、自分も考えてしまっていた。あんな風に色っぽく、艶があって情熱的な愛の曲を演奏していて、興奮しない訳がない。それを見透かされたような気がして、赤くなった耳を隠すように頬杖をついた。冷たく言い放ったが、胸中を見透かされている気分だった。 「一回、してみる?」  タテノなら、ノープロブレム、とにこやかに言い放つ男は軽く誘ってくる。ドクリと、心臓を掴まれたような心地がした。 「バカか。ラティーナの言うことが信用できるかよ」  パリに留学している間も、ラテン男の軽さを嫌というほど見てきた。奴らは、女性と見ると口説かなければ失礼に当たると信じ込んでいると思っているが、まさか男にまで対象を広げているとは思わなかった。  これ以上会話をしたくなくて、舘野は席を立つ。常連の客が帰るので見送るのだと理由をつけた。だが、見送りの後に席に戻ろうと振り返ったところで、ルカが一人になるのを待っていたのだろう。女性が舘野の席に座ってグラスを傾けているのを見てしまった。どうやらこの後一緒に飲まないかと誘われているようだったが、舘野は内心、やはり信用ならないと警戒レベルを引き上げた。

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