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第5話

 一週間ぶりに見る日山は、少しやつれていたがルカの顔を嬉しそうに笑っていた。日山の疲労が心配ではあったが、久しぶりに見る日山の顔は舘野を安心させた。楽団員と衝突しがちな舘野にとって、日山は緩衝材でもあった。徳永も嬉しそうにしている。 「それで、公演の他の曲、最終的にどれにするか絞るんだろ?」  スタジオロビーのテーブルについた徳永がコンビニのコーヒーを啜る。  4人掛けのテーブルに男ども四人が顔を突き合わせてあぁでもないこうでもないと悩んでいるが、この時間が舘野は嫌いではない。それぞれが思い入れのある演目を選ぶ作業は楽しい。  不意に、軽く手を上げたルカが口を開いた。 「ごめん、おれタイトルと曲の中身がまだ把握できてない」 「サントラもってきてやったから、聞いておくと良い」 「おお」  プレイヤーに入れておけよ、と紙袋を差し出してくるのを受け取ると、ルカは早速覗き込んでいる。  全部いい曲なんだから、と口を尖らせて言ってやると、ルカは何度も頷いた。自分が好きなゲームをルカに勧めるのは楽しい。そんな自分も大概ゲームオタクなのだと舘野に自覚はあった。 「ルカ、みんなと仲良くできてきたみたいだねぇ」  間延びしてふやけたことを言っているが、ルカが来て一番嬉しそうなのは日山自身かもしれないと舘野は思案する。この楽団に一番愛着があるのは日山だろう。何せ生みの親だ。このまま指揮者が交代したとしても、楽団が存続することが日山にとっては大事なことなのだろう。そう思えば思うほど、少し複雑な気持ちになる。  音楽を楽しむことと、技術の向上は相反するのではないと信じたかった。  日山の代理として徳永が演奏会の曲目を配布すると、皆はそれぞれが目を通し始める。特に異論は無いようで舘野は安心したように息を吐いた。唯一、ルカはまだイマイチ、ピンと来ていないようだった。早くクリアしてくれると曲の良さが伝わるのだが。 「それじゃ、CM曲の頭からやるぞ」  ルカが指揮台に立つ。冒頭はクラリネットの主旋律に対して、弦楽器のピッチカート組と旋律を支える音で構成される。主旋律のクラリネットが歌いきると、そのまま間奏のオーボエがソロを吹く。  ユーゴスラビア出身の歌い手が柔らかく歌い上げるCMは切なく、温かい響きを聞かせる。20年以上も前のゲームを演目として取り上げたのは日山の強い希望だったが、団員たちにもファンが多いせいか皆喜んでいた。  だが、音が悪い。練習してきたのかと言いたくなるような音だ。言いたいのをぐっと堪える。毎日どれだけ練習をしているのだろうか。いくら仕事はあるといっても、練習の時間が取れないなんてのは言い訳だ。 「オーボエ、もっと滑らかにならないのか。音がガタガタだ」  溜息混じりに告げると、ルカは何度か瞬きした。言い放った言葉に、たじろいでいる。 「お、おお……いやでも、まだ、これからだし、な?」  これからっていつだよ。いつになったら練習した成果が形になるんだよ。  先週の練習もそうだった。日山のいない指揮で、コンマスのいない自分がなんとかしなければいけないと、舘野は思っていた。コンマスだという自負は、舘野の肩に責任を伴ってのしかかってくる。中途半端な演奏などしたくなかった。それがなぜ分かってもらえないのだろう。 「それからルカ。君、ちゃんとゲームやったのか?CMの動画は見たか?」  勉強しておけよ、と言うと、ルカは瞬きをしている。  しん、と空気が冷える。  奇妙な静寂に目を伏せると、視界の端で徳永が胃を押さえるのが見えた。  自分はそんなにも、厳しいことを言っているだろうか。  自分はそんなにも、冷たいのだろうか。 「どうしたものかな」  練習が終わったあと、徳永がルカを連れ出してロビーにやってきた。先にソファでぼんやりと携帯端末を眺めていた舘野に気付いていない訳では無いだろう。  どうしたものか。そう問うのは楽団の今後についてだった。  日山は、ルカや皆が思うとおりにやってくれて構わないですよぉ、と言っていた。だから、今日の練習で厳しいことを言っているのに特に口を挟むことはなかったし、ニコニコといつもと同じ笑顔で見守っていた。その顔を思い出すと、胸が痛くなる。 「トクチャン、悩みすぎ。胃に穴開くよ」 「徳ちゃんって言うなよ、日山さんにもヤメロっつってるのに」  携帯端末から目を離して、舘野は壁に凭れる。久しぶりに疲れていた。耳に入る会話も、気にはなっても、割って入る気にはなれなかった。 「アンタはどうしたいんだ、ルカ?」  日山も言っていただろう、好きなようにしていいと。  好きなように。舘野の耳に、徳永の言葉が残る。  好きなように。日山が言っていた言葉が、リフレインする。 「そんなもの、俺は――」  ルカの言葉が、楽団員の声にかき消される。 「徳永さーん、メシいきましょ、メシ!」 「マエストロも!」  ルカの言葉は途切れて、なんと言ったのかは分からなかった。けれど、答えを聞くのが怖いと思った。  もし、ルカも同じように思っているのだとしたら。 「ほら、いきましょいきましょー」  バタバタと足音が聞こえる。皆が出ていくとそこに再び静寂が訪れて、目を開く。  舘野の目の前に、尾上がいつものように猫背で立っていた。 「あ、起きたんですか」 「……君は、ご飯行かなかったの?」 「オレ、ああいうの苦手なんで……」  ぼそぼそと小声で喋る尾上は、いつも通りだった。シカゴ公演以来のルカの熱狂的なファンではあるが、舞い上がっている訳でもないのが彼らしいと、思わず笑みがこぼれた。団員の中で一番の変わり者かもしれない。 「ご飯おごるからさ、部屋、寄らせてくれないか」  にこ、と笑みを浮かべると、尾上は目線を泳がせている。カブトムシは少しの逡巡のあとに、頷いた。  尾上の部屋は一室が丸々防音設備が整っている。ラグの上にあぐらをかいて、40インチの大画面でホラーゲームをしていると、腹の立つことも悩んでいることもいっとき、忘れることができる。 「……死ね、クソが」  画面中のゾンビに向かって呟きながら、マシンガンをぶっ放す。 「死ね、死んでしまえ」  背後から襲ってきた相手にも容赦なくコンバットナイフで応戦する。返り血が画面に付着したようになるが、無表情のままコントローラーを握り締めていた。  視界の端で株価を眺めている尾上がビク、と身を震わせたが気にしないことにした。革張りのデスクチェアの上で膝を抱えていると、年相応だな、と感じる。 「舘野さんは、何でメシいかなかったんですか?」 「あの雰囲気で行けるほど僕は、神経図太くはないよ。君と居るほうが気が楽だ」  小さくこくん、と頷いた彼に視線を向ける。  楽団にやってきたのは二十歳になったその日のことだった。何でもいいからチェロを弾かせてくれと言って練習日にやってきたから、日山と徳永と、三人で面接をした。  チェロで音大に進学した彼は、実に多才だった。自分はせいぜいがバイオリン、他と言えばピアノを少しとヴィオラくらいのものだが、彼はほぼ全ての弦楽器を扱ってきた。しかしチェロを弾かせてくれと彼は言った。他に楽器が無いと、カブトムシを背負って。  大学は中退したのだということを後になって聞いた。実家の莫大な借金のために家財を売り払ったのだという。それでも唯一残されたものが、彼が一番好きなチェロだったという。弾いてる場合じゃないのかもしれない、でも自分にはこれしか残されていないのだと、彼は淡々と告げた。  オーディションを受けられるのは二十歳から。そして、好きな曲を一曲だけ演奏することになっている。クラシックでも、ゲームでも何でもいい。彼が選んだのは、自分で編曲してきたゲームの作中曲だった。多重録音した弦楽器を伴奏に、見事にチェロを弾いて見せたことで、満場一致だったし、その腕から、半年後にはファーストチェロの座をもぎ取って見せるほどだった。  普段は、無口で何考えてるのか分からないくせに、集中力と行動力がすごい。  いつもボソボソと喋るし、何を考えているのかわからない。人付き合いもあまり上手くはないようだが、チェロ隊のメンバーには信頼されているようだった。二度目の練習のとき、まだアマチュア時代に指揮をしたルカのベートーヴェン交響曲第九番のCDにサインをねだった時なんか、興奮して英語で捲し立てるほどだった。  セーブポイントに辿り着くとコントローラーを手放して、ラグの上に寝転がる。ちらりと見ると、いつものヘッドホンをかけてPCの画面を見つめていた。たぶん、株だかFXだかなんだろう。詳しくはないが、チャートがいくつも並んでいる。彼なりに気を遣ってくれているようで、舘野がどれだけ悪態をついたとしても聞いていないフリをするのだろう。その気遣いが嬉しくて、舘野はゆっくりと目を閉じた。 「お疲れさまでーーーす」  店内に、声があがる。大して広くもない店内に徳永やルカを含めて10人は、よく入ったものだと思うから、予約していたのだろう。小さな店ではあるが佇まいは良い。ルカに合わせたのかどうなのか、イタリアンバルはいい雰囲気の店だった。店の内装も華やかだ。  そこまで思案して、徳永はちらりとルカを見る。何を考えているのかは分からないが、団員の中でも特に舘野と対立しているメンバーとの飲み会に、ルカはほいほいとついてきた。この後の展開を予想して、徳永は無意識に胃を押さえる。 「それよりさ、ルカが来てからいい音出るようになったんじゃね?ねぇ、徳永さん」  来た。話を振られて、徳永は黒ビールのグラスに口をつける。生ハムを摘みながら、振られた話題をどうかわそうか思案する。自分のスタンスは彼らにそぐわないのは分かっているが、おおっぴらに舘野の味方をしたところで派閥争いのようになるのも避けたかった。  話を振られた俺の隣から、ルカが口を出す。 「確かに、いい音は出るようになったが、まだまだだぞ」  俺が同じことを言うのと、ルカが言うのとではやはり重みが違うような気がした。  ちゃらんぽらんだし、酒飲みだし、これは偏見だとは思うが、女性と見ると口説かないのは失礼だと思っているようなイタリア男だが、指揮の腕は一流だ。そして巨匠が言うことには説得力があるだろう。 「でも、舘野さん、ずーっと厳しいんだもんなぁ」 「そーそー、……すぐ怒るんだもんなぁ」  ちびちびとビールを飲みながら、生ハムを摘む。食事は美味いが、若いメンバの選ぶメニューは弱った胃には少し厳しい。隅っこでちびちび飲んでいるが、居酒屋であっさりと飲み直したい気分でもあった。悪酔いしそうだ。 「俺さぁ、昔言われたの。音楽は楽しむためのモノだって」 「実を言うと……今、舘野さんとやるの、ちょっと辛いんだ、わたし。怒られるし……」 「怒られるのは、オレもやだなぁ」  酒の力で次々に出てくるのは、不満と弱音、それから愚痴。他人に厳しいだけは自分にも厳しい舘野が、誰よりも練習していることを彼らは知っているのだろうか。知っていて、それでもなお出てくるのだろうか。 「あーあ、楽しく弾けるっていうから、ここに入ったんだけどな」  なんか違ってた、と言い出した団員に、徳永は複雑な気持ちのまま、グラスの中身を飲み干した。  傍らのルカは、ワイングラスを傾けて目を細めた。 「楽しい、ってさ。色んなタイプがあるんだよ。タテノも、トクナガも、俺も、皆も。楽しみ方が、違うんだろうなぁ」  小さく呟いた言葉は、胸にすとんと落ちてきたような気がして、徳永は目を閉じた。  子供の頃、ピアノ教室の先生に厳しく怒られたことを思い出す。子供心に、もう嫌だ、やりたくないと思い、一週間練習をサボったことがあった。一切の鍵盤に触れず、楽譜を見ることもなく次の練習に行った日に、彼女は言った。楽しく弾くためには気持ちだけでは足りないのだと。厳しく技術を磨くのは、弾きたいと思った時に、思った通りに弾けるようになるためだと。そのために辛い練習があるのだと、彼女は諭した。  それ以来、実家を出て一人暮らしをするまで練習を欠かさなかった。あの頃より技術は落ちているかも知れないが、今はどんなに残業をしていても一時間、鍵盤と向き合う時間を作っている。義務でも、強制でもない。弾きたくて堪らなくなるからだ。  技術と気持ちの天秤が釣り合わないのは辛いということを、あの日徳永は学んだ。  バルを出る頃には23時になっていたが、徳永はルカを誘った。結局黒ビールを一杯きりで済ませていたが、なんとなく二人で飲みたい気分だった。 「行きつけの居酒屋がある。行かないか」 「もちろん!」  にへら、と笑ったルカも、あの日ほど酒の匂いがしない。グラスに半分ほどワインが残っていたから、ほとんど飲んでいなかったのだろう。もしかしたら団員の愚痴を一人ひとりきいていたようだったから、飲み足りないのかもしれない。 「日本酒ねぇ、大好きなんだぁ」  飲みに行くと分かっている日は歩いて来るのだが、今日のように突然誘われると、自転車を押して歩く。一度、酔ったまま自転車に乗ってしまってゴミ箱に突っ込んで以来、絶対に飲酒運転はしないと誓っていた。  いつも行く居酒屋の前に自転車を止める。自宅からほど近いから、明日の朝出勤前に迎えにくればいい。鍵をポケットにしまい込むと、常連客でそこそこ賑わっているカウンターに腰を落ち着けた。 「ワインの方が好きなんだと思っていた」 「うんにゃ、ワインも大好きだけど、日本酒は別物だぜ」  冷やを頼むと、突き出しに出された小松菜の胡麻和えをいただく。小鉢に盛られた緑色は色鮮やかで、胡麻の風味がよく聞いていた。出汁と醤油であっさりとした味は、安心する味だ。 「んま!なにこれ、すごい美味い」  ルカが感嘆の声を上げるのに、徳永はつい笑ってしまった。自分より二回りくらい年上の筈だが、時折幼い反応をする。若く見られるのは東洋人と聞いたことがあるが、彼の場合は精神年齢のせいもあるのかもしれない。  口の中に入れれば柔らかく解けるような、ふわふわに湯気の立つ出汁巻きたまごをつつきながら、ルカはそういえば、と話を切り出した。二軒目に誘っていた理由は既に察していたようだった。 「トクナガも、迷っちゃってるカンジ?」 「いや、だが……そうだな。舘野の言いたいことはよくわかる……」  アイツの場合はちょっと不器用なのかもしれんが、と箸を置くと、カウンターに頬杖をついた。団員との軋轢だって、もう少し物言いが違えば上手くやっていただろうか。いや、舘野に、日山の代わりを求めるのはまた違うだろう。逡巡してから、徳永は問うた。 「アンタは、今までにもオケをやってるだろう。どうだったんだ?」  団員との軋轢も、些細な諍いも、衝突もあっただろう。そう思ったが、ルカは首を振ってみせた。 「プロもアマもやったことはあるけど、正直言うとレベルが違いすぎる」  いずれも、求めている先は同じだった。思想が違っていても、見ている先が同じだから、こんな低レベルな悩みは経験したことがないという。その答えに、徳永はぐい呑みの中身を飲み干す。プロオケでも伝説と呼ばれさえしたマエストロ相手には恥ずかしい気もしたが、これが今の自分達だと分かっていた。 「辛い、って気持ちはまぁ、わかんなくはねぇよ」  でもトクチャン、とルカは目を細めた。度数の高いアルコールに、目元が赤くなっているが、視線は強かった。 「真剣にやると、イきそうなくらい気持ちイイって、お前は知ってるんじゃねぇの?」  気持ちが強いだけでも、技術だけがあるのでも足りない。その両方を持ち合わせて初めて、全身が震えるような本物の美しさを具現化出来る。コンサートホールに満ちる静寂の音、それを一度知ってしまうと、追い求めずにはいられなくなる。  あの音を、皆で作り上げたいと願っていた。

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