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第6話

 そして事態は、悪い方向へと流れる。  その週末の練習では、飲み会に参加していたメンバーが全員。次の週には、ほぼ半数以上のメンバーが、練習をボイコットし始めた。  演目が決まったばかりでこれからだというのに、半分しか埋まらない椅子を目の前に、思わず表情を失くしていた。 「ストライキだそうだ……」  徳永が携帯端末をポケットにしまい込んで、ピアノの前に座り込んだ。胃を押さえている。徳永はメンバー間の仲介役として立つことが多いせいだろう、連絡役として使われていたようだ。  徳永に理由を聞かなくても、一目瞭然だった。自分に不満があるのだろう、と舘野は目を閉じる。  コンマスの席に座り、バイオリンを膝に乗せたまま、じっと俯いていた。 「……みんな、うまくなりたいって気持ちは、ないんですかね」  尾上が言う。いつもボソボソと聞き取りにくい声が、ハッキリと耳に届いた。こんな時ばかりハッキリと言うのは狡いと、舘野は思う。 「そりゃ、音楽で金を稼いだことねぇんだろ。脳みそがアマチュアなんだ」  幡山が言う。普段からうるさい金管の三人組だが、ジャズバーを経営し始めた頃を知っているからだろう、音楽に向き合っている時は本気だと知っている。 「ハイスピードMAXでフルコンボとれたときの快感知らないってのもかわいそうだな」  かよ子が言う。中途半端な気持ちで演奏が出来ないことを知っている。いつだって本気で叩くことしか知らないのだ、彼女は。  こんな風に、団員をバラバラにしてしまったのは自分だと言いたいのか。  もっと日山みたいに上手く立ち回れればいいのか。だが、どうやればいい。どうしたら満足なんだ。  楽しいだけじゃ満足できないのは自分だけではない。その彼らが向き合っているのに、どうして逃げる。逃げられる。  だったらもう、 「……楽団、辞めるよ」  バイオリンを、ケースにしまいこんだ。カチッと、ロックのかかる音が、やけにホールに響いた。そのまま立ち上がると、楽譜を抱えてホールを出ようとした。きっと酷い顔をしているだろう、団員には見せたくなかった。プライドが、邪魔をした。 「おい、舘野!」  背後から徳永の声がする。いつも最初に引き留めようと声をかけるのは徳永だった。団員のまとめ役という役割にそっているわけではない。世話焼きな彼の気質がそうさせるのだろうが、今は余計に惨めな気持ちになる。  振り切るように出ると、背後から腕を掴まれた。パルファムが鼻腔をくすぐる。 「タテノ」  低く静かに、心地よい男の声が自分を呼んだ。ルカは、色素の薄いブラウンの瞳で見下ろしてくる。だが、何を言えばいいのか分からない。  日山から指揮の代役を頼まれただけだろう。関係ない。楽団が解散するのなら、もうこの眼の前の男にも関係は無いはずだ。だが、掴まれた腕を振り切ることが出来ない。 「ちっと、飲みに行くか」  あの時唇で触れた魔法の手がぽんぽん、と軽く頭を叩く。ささくれだった心に水が落ちるかのように染み込んでくる。  徳永の制止を振り切れても、この腕は振り切れそうになかった。小さく頷くと、無言のままルカに手を引かれて、スタジオを後にした。  ルカが連れてきたのは、路地裏にあるカフェバーだった。薄暗い店内ならどんな顔をしていたとしても分からないだろう。酷い顔をしている自覚はあった。  ヒューガルデンを注文するルカの傍らで、甘いカクテルをちびちびと飲む。 「僕だって、……言いたくていってるわけじゃない……」 「うんうん」 「言わないでもいい演奏ができるなら、言わないでいたい……」  瓶ビールを片手に、ルカが背中を撫でる。アルコールはまだ回っていないのに、溜め込みすぎた言葉がぽろぽろと漏れ出してくる。こうなってしまうともう止めるすべが分からない。  言わなくてもいいような努力してる奴だってちゃんといる。弾かずにはいられない人間がいるのを知っている。 「僕だって、弾かずにはいられないんだ……」  パリで挫折を味わったときだって、それでも音楽を辞められずにいた。仕事の当てはあったから留学を続けなくても何とかなっていたかもしれない。パリのオケにいられなくても、食べていくことは出来ただろう。  けれど、バイオリンを諦めることだけは出来ない。パリから逃げても、音楽と向き合い続ける限り苦悩は終わらない。  苦しい。  辞めてしまえばどんなに楽になるだろう。   「何も努力しないで楽しくやりたいなんて、音楽に対する冒涜だ」  涙声が交じるとボトルを置いたルカが抱き寄せてくる。こんな姿、団員の誰にも見せたことなど無い。見せたくなんかない。あんなに練習もろくにできないくせに。努力もしない癖に。  涙がこぼれ落ちる。ぽろぽろと落ちてくるのを止められない。言葉と同じだ。  吐き出しきるまで、受け止められるまで、自分ではもう止められない。 「お前が誰よりも一番努力してるの、俺は知ってるぞ、タテノ」  目の前にある背中に爪を立てると、こみ上げてくる激情を目の前の男にぶつける。 「楽しいだけの音楽の、何が響くって言うんだよ!自信がないなら、……ッ」  自信がないなら辞めちまえ!  そう続けようとして唇を塞がれた。大きな、あの魔法の手が後頭部に添えられている。触れるだけ触れて、続く言葉を飲み込んだルカは、じっと目を覗き込んでくる。 「タテノ」  吐息が感じられる距離で名前を呼ばれた。ドキリとする。見透かされているようだった。  辞めちまえと続けようとしたのは、自分の気持ちに区切りを付けようとしていた。時々顔を出しているクラシックのオケに空きが出来るそうで、正式な所属メンバーにならないかと誘いを受けていた。そこに行こうと思っていたが、何処に行ったって苦しむなら音楽なんか辞めてしまえと自暴自棄になりかけていた。 「……出ようか」  言葉少なに告げたルカは、よろよろと立ち上がるのに手を貸してくる。大した量は飲んでいないのに、目の前がふらふらした。  バイオリンケースだけはしっかりと抱えて外に出る。タクシーを拾ったルカはドライバーに行き先を告げている。目を閉じるとゆっくりとルカの肩に頭を預けた。パルファムとタバコと、ルカ自身の匂いが混じった香りが、深く酔わせるようだった。  アパートの前で降ろされると、腰を抱かれたままエレベータに押し込まれる。涙で顔がぐちゃぐちゃで、住人にあったらどうしようと頭の片隅で舘野はぼんやり考えていた。  エレベータのドアが閉まると直ぐに、ルカは箱の壁に身体を押し付けてくる。あ、と思った頃には舘野は深く口付けられていた。気持ちがいい。どうするんだこれ。 「……、……ユウ」  低く、甘い声で名前を呼ばれると、膝に力が入らなくなる。ルカの腕に縋り付きながら、抵抗はしない。出来なかった。 「ル、カ……」  首にしがみついて夢中で唇を吸う。噛み付かれると、膝が震えた。力が抜けて崩れ落ちそうになるのを、ルカは足の間に膝を割り込ませる。抱き留めると同時に、重く鈍い刺激があった。  エレベーターのドアが開くまでそうしていた。唇を触れ合わせて衣服越しに身体を密着させると、体温と共に鼓動が伝わってくる。  腰が砕けそうになるのを、腰を支えられて部屋に入った。ドアの鍵を閉めるとまた口付けてくるルカに、舘野は身を委ねる。この激情をどうにかして欲しかった。 「……ユウ、……ユウ」  何度も名前を呼ばれる。そのたびに、舘野を惑わす香りがした。  ジャケットをその場で落とされる。シャツ越しにルカの手が薄い胸板をまさぐると、指先がかりかりと引っ掻いていく。その焦れったいような動きにまた膝が震えて、ルカのシャツを掴んだ。 「立ってるの、……つらい」  頷いたルカが横抱きに抱き上げて、自室に向かう。あまり広くない部屋の床にはCDや楽譜、それからゲーム端末が積み上がっていた。先日の練習の帰りに買ったゲームは、ノベライズされた小説まで積み上がっている。とうの昔に廃版になって、出回っていないものだ。いつの間にこんなものまで買っていたのだ。日本語はまだ上手くないのを知っているだけに、胸にじわりと熱いものがこみ上げる。  ベッドの上に降ろされると、鼻腔にあの匂いが強く香った。胸いっぱいに吸い込むと涙が溢れそうになる。  覆いかぶさってきたルカがシャツのボタンを外していくと、舘野は身震いした。寒いせいではない、ルカの魔法の手が、胸から腹を撫でていた。 「ん、ん……」  酷く気持ちがいい。このまま溶け切って、ルカの一部になれたらどんなに良いだろう。  ルカの手がボトムにかけられてもなぜか抵抗する気になれなかった。 「ユウ、……きもちい?」  ちゅ、と音を立てて胸元の薄い皮膚を吸われると、ピリッと痛みにも似た快楽が走る。所有の証を付けてどうしようと言うのか、そんな問いすらする余裕もなく舘野は頷いた。 「ルカ……」  何度もそこにキスを落としてくるルカは、シャツ越しに存在を主張する胸の突起にも触れる。指先で引っ掻くように弄られると背筋が跳ねた。舘野が身悶えするのを、色素の薄い瞳が見つめている。それだけでも情欲を誘うのに、ボトムを下ろしたルカは腰骨の、下着との境界線を唇で食む。焦れったいような仕種に、舘野は思わず膝を擦り合わせていた。 「……興奮してる」 「ん、……ぁ、言うなよ……」  反論するにしても甘い声が上がってしまうのに戸惑う。下着越しに下肢に触れられて、過剰なほど背筋が跳ねた。他人に触れられるのは久しぶりで、直ぐに熱が篭っていた。布地を押し上げるそれを、あの魔法の手が包み込む。  シーツに埋もれたまま、思わず目元を腕で隠した。アルコールでふわふわと浮くような感覚もあったが、完全に羞恥を消し去る程の量ではなかった。 「……恥ずかしがること、ねぇのにな」  間接照明の灯りはそこそこ明るくて、互いの表情くらいは分かるほどだった。甘やかに囁いてくる声は麻薬のようだった。心地よく染み入ってきて、自分の中心を溶かしていくような。  ルカはその手で執拗に下着越しに先端を弄っては、布越しに何度も口付けてくる。軽く歯が当たる度に腰が跳ねた。 「あ、……ッぁ……」  もどかしい程にしつこい愛撫で、理性が溶かされていく。相手は幻とまで言われたマエストロなのにこんなコトをしていいのか、なんて問いもいつの間にか飛んでしまっていた。  脚をもじつかせていると漸く下着が下ろされる。外気に晒された性器が口に含まれると、もう何もかもがどうでもよくなってくる。 「ん、……」  舌先が絡まって、吸い上げられる度に熱が脈打つのが分かる。それだけで達しそうになるのを堪えていると、根本をぎゅっと抑え込まれた。痛むほどでは無いが、やり場のない熱が体中を駆け巡るような感覚に恨めしげに顔を上げると、ルカが真剣な顔をして顔を覗き込んでいた。 「……ユウ、本当に楽団を辞めるのか?」 「な、に……」  こんな時に、何を言っているのだろう。目を瞬かせると、真剣に舘野を見つめていた目が、ふっと和らぐ。問いに答えずともやり過ごせるかと内心で一瞬の安堵があったせいで、奥の窄まりに指が触れたことに対する反応が一瞬遅れた。 「あ、……ッぁああ!」  奥まで差し込まれると、異物感に呻き声を上げてしまう。指はジェルを纏わせているのかぬるぬるとした液体の感触がしていた。気を抜くとそのまま奥まで差し込まれてしまうことに焦って、舘野は声を上げる。 「待っ……いきなり、……あ、あ……」 「ほら、……答えないと、このままずっとココ、弄るぞ」  耳元に低く囁いてくる声が、酷く甘い。意図的なのだろう、耳朶を舌先でなぞられると、もう止めてくれと首を振った。 「やめ、あ、……あ、あッ……――ッ!!」  くっと、指先が前立腺を押し上げて爪の先で軽く引っかかれると、根本を押さえる手が一瞬緩んだせいでルカの掌に白濁を吐き出してしまった。  荒い呼吸を繰り返しながら視界に入ったルカはなんとも言えない表情をして、やっぱり顔を見つめていた。切なげに目を細めているのは、なぜ。  なぜ。コンマスを失いたくないのか。アマチュアのこんな小さな楽団だ、失ったところでルカにとっては何の痛手にもならない。  どうして、こんな真似までして自分を繋ぎ止めようとするのか、舘野には分からなかった。

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